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2018年9月12日 (水)

第九回

六、騒白波鍔鳴(つばなりにさわぐしらなみ)

 

江戸、徳川家を頂点とする武士の〈イエ構造〉であるいわゆる幕藩体制は、歴史の現実としてはさほど堅牢なものではなかった。権力は朝廷との二本立てではあるが、朝廷(天皇)にはまったく権力などは存在せず、それらは京都に封じ込まれた公家という名の、まさに名ばかりの存在でしかなかった。

 この徳川幕府の方針、形態は、鎌倉に幕府を置いた源頼朝を真似たものだ。源頼朝は朝廷から離れることによって、朝廷を孤立させる政策をとった。これは平家の失敗を踏んだものだったが、まったく成功したとはいいがたい。以降、戦国時代に突入しても、朝廷をどう扱うかは、武士集団である武家の存亡課題となる。

 徳川家は、尾張、紀州、水戸と、イエにたとえれば分家を設置し、参勤交代や普請の押し付けなどで諸藩の力を弱め、ともかくも身の安泰を計ることにヤッキだったが、諸国の戦国大名の裔からしてみれば、これを覆すことはさほど苦労はなかったと、のちの歴史家の中には、体制の脆弱さを指摘する者も多い。

 とはいえ、諸国の大名にしてみれば、再び戦国の時代にもどるのは、如何に武士であろうと面倒なことだという〈空気〉があった。この厭戦の気分こそが徳川家の土台だったというワケだ。

 この空気を破ったのは、国内の乱ではなく、外国からの干渉だ。

幸いにして、開国を迫った米国は、英国や仏蘭西のような植民地制度をとらなかった。それが不平等なものであれ、相手を屈して貿易が出来れば、それでよかった。米国は、仏蘭西や英国の植民地制度の失敗を学んでいたのだ。

さらに日本にとって運が良かったのは、米国に内戦、南北戦争が勃発したことだ。このドタバタに乗じて尊皇攘夷などというツギハギの主義が罷り通ることになる。おそらく庶民大衆は、江戸から明治に移行する日本の時代の流れに冷やかだったにチガイナイ。安直なコトバでいいきってしまえば、武士だろうが、天皇だろうが、「どっちでもよかった」のだ。葵のご紋から菊のご紋へと頭はすげ替えられたが、お天道様が西から昇るようになったワケでもなく、文明開化といわれても、つまるところ牛鍋が普及した程度のことだ。

 

ところ変わって、おそらくは赤毛結社の本拠と思しき場所へと、sceneは移る。いま、その奥の間で、結社の上級幹部らしきものが、座して拳を床につき、頭(こうべ)を垂れている。やがて、冷静を装っているだけの声がそのものからこぼれ出た。

「後見からの報告によりますれば、楠木右近を討伐の手練の者、ことごとく討ち果たされましてございます。楠木右近なる者、鍔鳴りという、奇怪な剣法を用います。後見によれば、それぞれ、まったく歯が立たなかったということでございます」

と、何処からか、くぐもった声だけが聞こえた。

「ツバナリ、キカイナ、ケンポウ、カ」

「は、然りっ」

「ウコン、トハ、ナニモノ」

「我が組織の情報網を以て調べました限りのことをご報告いたしますれば、この右近というもの、江戸幕藩の如何なる人別帳にもその名はありませぬ。では、陰のものかと、その方面の生き残り、地獄耳と称される者どもにもあたりはしますれど、存ずる者、ただのひとりとしてありませなんだ。これは、実に奇怪といってよろしきことでございます」

「ヨロシキ、デハ、スマヌナ」

「仰せの如くにございます」

 季節はまだ夏ではナイ。しかし、座しているものの額には、汗の小さな粒がひかっている。

と、このとき、開襟シャツに袴、長髪に色眼鏡の、奇妙な出で立ち、痩身痩躯の男が刀を手に現れた。

「鍔鳴り、といったな」

 不躾に、そういうと、座した幹部の傍らに立った。

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