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2018年9月23日 (日)

第十九回

 只飲理兵の槍術、その槍は「自在槍」とも称されるものだ。江戸徳川幕府における槍術宗家の何処の流派にも、この槍術はナイ。只飲理兵が中国の武器「八節根」に工夫を加えたもので、八つに折りたたまれ、その寸法も自在だが、攻撃法も自在。あるときは鞭のように撓(たお)り、あるときは鎖鎌の鎖分銅のように回転もする。左右上下、何処からも槍の穂先の突き刺す攻撃がまさに自由自在に仕掛けられる。

 普通、この槍術と相対したとき武芸者はまず、その観たことも無い武器が如何なる攻撃を仕掛けるものかと考え、とはいえ思案している時間はナイので、とりあえずは間合いだけは確かめんとして正眼に構える。そこから「後の先」をとるべく、にじり寄って相手の出方を待つ。およそ槍の太さは握りによろしき一寸。長さは、この長さが判然としない。穂先の長さは一尺に満たないが、長さ自体が三尺あたりのときもあれば、六尺となることもある。それがいわゆる「八節根」の特長なのだが、剣が穂先をくぐって懐に飛び込むのを許さない道理となる。

 もうひとつ、この槍の特長、特異なことは穂先が両端にあることだ。つまり、棒術のように槍を操りながら、槍術として用いることが可能なのだ。

 只飲理兵の槍術については、ご託をくどくど記すよりも、有名な剣士との一騎討ちに触れたほうがイイだろう。

 有名な剣士とは、幕末の暴れもの新撰組隊長近藤勇。

 近藤勇は武士とはいっても郷士の出身で、郷士というのは農業を営みながら剣術に勤しむ輩をいう。はっきりいってしまえば、録がなく、農民と同じ生業で生きていたのだが、幕末動乱の気配もあってか、その当時は田畑の傍らに道場が幾つもあったという。ここで近藤勇は天然理心流を修行した。

 この天然理心流という流派は少々変わった兵法で、剣術のみではなく、柔術、棒術、気合術を複合した剣技からなっていた。中でも重視されたのが気合術で、これは〈気組〉と称された。おそらくは薩摩の示現流から汲み取ったものとおもわれるが、相手の刀を叩き折ってでも前進、気合いによって斬るというもので、まったく実戦的な剣法だった。

 それでなのか、近藤は道場の竹刀の勝負においては殆ど勝ったことはなかったといわれる。ただ、真剣を持たせたときの強さは格段で、まったく「斬る」ということに迷いがなく、一気に七、八人を斬ったということも伝わっている。名刀「虎徹」を帯していたといわれているが、それは贋物だったらしい。

 構えはいつも下星眼(正眼やや下段)で、腹を突き出しながらの気合いは、敵に相当な威圧感を与えた。

 只飲理兵はその頃も傭兵だった。長州が雇った牢人の一組で飯を食っていた。つまりはテロ集団ゆえ、いつ、何処の誰と戦うのかについては殆ど知らされていなかった。従って、只飲理兵が近藤勇と相対したのも、単なる偶然、運命の悪戯としかいいようはナイ。

 殺せ、斬れ、と命じられたらそこまでで、そういうmissionに従うだけだ。

 その日も組員数名で、この男を、という指令を受けた。夜目にも恰幅のいい男だったが、宴席の帰りなのか少々足下がゆれる程度に酔っていた。これが油断となったのか、只飲理兵の他の数名は、あっという間に倒された。

 只飲理兵は、これは容易ならざる敵と看破して、おのれの武具を構えた。

 この侍、先程まで千鳥足、たしかに酩酊していた。しかしいま連れの三名を立ちどころに斬りさばいたときは、正気。いまも、正気。とても酒気をおびているようにはみえぬ。たしか「気組」という気合い術を複合する剣の流派が在るとは聞いていたが、これがそれか。

 只飲理兵、瞬時にそれだけを脳裏に、おのれが八節槍を横一文字に構えた。

 これには今度は近藤勇のほうが当惑した。敵の武器は槍だ。それを切っ先向けずに横一文字に構えるとは、何を考えてのことか。

 二人の間合いが詰まった。

 

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