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2018年3月 5日 (月)

こころの距離はいつも1センチメンタル・6

(6)ひろげた風呂敷のたたみかた

星野之宣さんの『レインマン』が単行本「07」で完結した。

「01」「02」を読んだときの、星野さんの新しい挑戦には脱帽したが、「03」あたりから、拡げすぎた風呂敷をどうたたむかで、星野センセイ、ブレはじめたようで、宗像教授が登場したあたりからは、私は読者としては、なんの興味ももてなくなった。それはいつだったか、ブログにも書いたような気がする。なんつうか、あまりイイときではナイ、石ノ森章太郎さんが踏み込んで道に迷った、これを路頭に迷うといってもイイのだが、それとおんなじことをヤッてんじゃナイのかなと、そうおもったもんだ。

で、「07」の半ばあたりで「量子力学」の援用が長々と始まる。しかし、このハッタリは、ちょっと、ひろげた風呂敷のやぶれを繕うには無理に過ぎた。

アインシュタインの思考実験「ERPパラドックス」は作中の人物が述べるような/量子力学最大の問題/などではナイことは、量子力学をかじったものにでもすぐにワカルことだし、/可能性の重ね合わせ/・・・これは「状態ベクトル」(波の重ね合わせ)のことを示唆しているのだが、これを、かの思考実験とくっつけるのはムチャとしか、いいようがナイ。「重ね合わせ」はたしかに量子力学では重要な部分なのだが、なぜなら、ここから波束の収縮へと、量子の観測研究(観測理論)は進んでいくのだが、簡単に重ね合わせが起こるワケではなく、量子の場というものにも、「混合状態」と「純粋状態」があることをワザと避けて、都合のイイ部分だけを貼り合わせていくのは、読んでいて、もはやチカラワザというものをも逸脱しているとしかおもえない。

そこから、ニュートン力学、アインシュタインの相対性理論(作品では、単純にそう書かれているが、これは「一般相対性理論」のことだ)が、あたかも、ニュートン力学を超えたかのような書き方は、まるでアインシュタイン力学てなものがあるかのごときで、もちろん、そんなものはナイ。アインシュタインの一般相対性理論も、加速度や重力を扱うところはニュートン力学なんだから。(ブラックホールの研究に及んでは、重力すら無効化されるんですけど)

で、順序よく、コペンハーゲン派のニールス・ボーアを登場させて、ここからさらに量子力学のレクチャーが始まる。ところで、「量子は〈粒子〉でありながら同時に〈波〉である」と、まるでこれをボーアの提唱のように描かれるとなると、半畳どころか十畳くらい投げ入れたくなる。ボーアは「量子はあるときは粒子、あるときは波、これを相補性という」と述べたんだけど、これは、量子力学においては、すでに否定されている。あるときもへったくれもなく、量子というのは「〈粒子〉でありながら同時に〈波〉である、なんだかワカラナイもの」というのが、現在の量子に対する量子力学の概念定義で、このあたりから、何故そうなのか、と、いう学問がさらに発展しているのが現状だ。

ところが、ここで、星野センセイは、量子の運動を「幽霊波」という展開に引っ張って、超心理学、超常現象などと、いっきにくっつけてしまう。これはもはや、逸脱ではなく乱暴だろう。

ここに引っ張っていくために、おなじみの「二重スリット」の実験・・・これは思考実験ではナイ・・・がレクチャーされるのだが、ここも、大事なことをスルーしている。たしかに感光スクリーンには、干渉縞が生じるのだが、問題は、このスクリーンのほうにある。本編ではまったく触れられていないが、スクリーンというものもまた「物質」なので、スリットが一つだろうが、二つだろうが、発射された量子(電子や光子)は、このスクリーンに到達するときに、このスクリーンと、物質的にぶつかるのだから、当然、スクリーンとの量子的作用がどうなるのかが取り沙汰されねばならない。(これは、観測理論によって、深く論じられていますが)

ともかくも、星野センセイは、なにがなんでも、量子力学と超能力(超常現象)とを結合しようとヤッキなのだけれど、(そうしないと、作品が破綻するからな)それは、ちょいとどころか、ずいぶんと無理やりだ。というより、物語がどんどん薄っぺらくなっていくのだ。

ひろげた風呂敷はみごとなものだった。けれども、このたたみ方が、昨今の星野SFにせよ、星野考古学にせよ、同じような題材を扱っているもう一つの「星」、諸星大二郎さんに比して、まったく説得力を欠くのは否めない。劇画だからといっても、それなりのエビデンスは提示しないとなあ。つまり、もちっとうまく騙してもらわないとなあ。

作品の展開に行き詰まったら「ゾンビ」を出すか「量子力学」を出せば、それなりになんとかなるのは、あまりいい風潮とはいえない。世界はそこまでご都合主義ではナイ。

これは、自戒でもある。私も拙著『恋愛的演劇論』の最終章で、マチガッテ(マトリックスの扱いを勘違いしている)るからな。

意外に、この、事実と虚構の1センチメンタルは遠く離れているのだ。それは、テレパシーとやらが簡単に届く距離でもナイようにおもわれる。

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