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2018年3月 3日 (土)

こころの距離はいつも1センチメンタル・5

(5)役づくり という けったいなもの

「役づくり」というコトバがナニをさしているのか、ということを問題にする前に、このコトバが、誰によっていつ頃から、そういった関連の業界に出回ったのかが、私には興味があって、ウィキペディアを覗いてみたが、該当するところ、「この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください」とあった。たしかに、記事内容もそのごとしで、それ以上のことはナイ。

古典の芸談『役者論語』では「心がけ」「心得」といういい方は出てくるが「役づくり」というコトバは、みあたらない。

おそらく「役づくり」というのは、西洋(アチャラ)からの持ち込みだろうと推測される。そうなると、リアリズム演劇がアチャラから引っ張ってきたもので、さしずめ、スタ・システムの「内に向かって」の修業あたりを指すものだとおもわれる。で、それは「役づくり」どころか「役立たず」なものだということは、何故「役」に立たないのかを論理的に拙著『恋愛的演劇論』では小述してある。

スタ・システムの出発点は、上手な役者(俳優)から、特殊性(固有性)を引き算して、普遍性を抽出することだった。

このあくまでの出発点が、主だった方法論に転換されてしまったため、唯物弁証法からの発案だったはずのシステムが、アリストテレス哲学に後退してしまった。

唯物弁証法では「素材は表現に優先する」という立場をとる。具体的にいえば、仏像を造る場合、木製なのか、金属製なのか、陶製なのかで、出来映えにはチガイが出るということなのだが、この木製、金属、陶も、さらに細かくカテゴライズされるから、それぞれ、材料(素材)を選ぶことから、創造が始まる。絵画においても、油絵と水彩、版画では趣がチガウ。

しかしながら、演技の場合、「素材は表現に優先する」とは必ずしも正しい命題にならない。

演技の場合は、素材(役者の身体)と表現(役の身体)とは、係数(比率)になる。

「役づくり」とやらをヤッてらっしゃる役者の方々をみての、私の感想は、多くの方々が自身の身体を無視するか、括弧に入れてしまってらっしゃるということだ。

ロバート・デニーロさんが、役によって、体重を何十㎏も減らしたり、増やしたりしたので、スゴイとか、そーいうことに驚いているのはマスコミ媒体だけでよろしい。

さらに感想を述べさせてもらえば、「役づくり」というのをヤッてらっしゃる方々をみるにつけ、それは「役づくり-づくり」じゃないのかネと、半畳入れたくなることだ。よーするに「役づくり」というのを、「つくって」るだけじゃナイのか。

いまふうにいえば、customizeしてるだけじゃないの、だ。

では、おまえはどうしているのか、あるいは、おまえが演出するとき、役者にどう指示するのかと、問われれば、応答はごく単純で、「正確にせりふをいいなさい」だけだ。せりふには、必ず〈正確・正しい〉いい方が在る。それをホンから掘り出してこなくてはならない。それが無い「ホン」は「ホン」が悪い。つまり、ホン書きも「正確・正しい」せりふを書かねばならないということだ。

身体とコトバの、「役」との距離の1センチメンタルは、かくも困難だ。

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