無料ブログはココログ

« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »

2018年3月

2018年3月18日 (日)

こころの距離はいつも1センチメンタル・7

(7)信仰のフィジカル~親鸞と日蓮~

 

もともと宗教には〈根拠〉というものは無い。これが科学とは絶対的に異なるところだ。かといって、科学の〈根拠〉がアテになるかどうかは別問題とだけ記しておくが。

 

親鸞(1173~1262)は師匠の法然の「念仏第一」主義に対して、念仏すら棄て、「信心第一」主義の立場をとった。くだいていえば、念仏を唱和することよりも、信仰が大事ということだ。もっと否定的にいえば、信仰のナイもの、信心の薄いものが、いくら念仏(ここではもちろん南無阿弥陀仏だが)を唱えても意味がナイということになる。これは従来の小乗(上座)仏教に対して、ひじょうにワカリやすかったので、非知識層の農民や、武士にも浸透した。浄土系は菩薩すら否定したので、「修行」の必要がなかったのも流布した理由がある。ところで、信心の対象となるべく、その阿弥陀如来だが、釈迦如来(仏陀)が歴史上の実在人物であるのに比して、出自が経文(経典)の中だけにしかナイのだ。すると、創作だということになるが、誰の創作なのかも、よくワカラナイ。これは真言宗の大日如来も同じ。このような事例は、ヒンドゥーの多神教との関係が大きいと考えるべきだ。(ただし、ヒンドゥーの多神教は、実は一神教で、他はみな化身ということになっている・・・他の考え方も当然あるが・・・)

このような信仰(かんがえかた)に対して、日蓮が反駁したのは当然のことだ。

日蓮の他宗批判は、舌鋒鋭く「真言亡国・禅天魔・念仏無間」と、こと有名だが、バラバラに批難しているようにみえても、けっきょくは、釈迦牟尼仏を無視、あるいは阿弥陀仏の下位において、その阿弥陀如来などという在りもしない仏を信心することに対する批判なのだから、一貫しているといえば、そういえる。(いや、在るというのが宗教なのだが、もちろん、何の根拠もナイのも宗教だからだ)

また、その論理でいうなら、日蓮は釈迦の残した「自燈明・法燈明」に忠実だったともいえる。日蓮からすれば、親鸞の説く「他力本願」は「法燈明」に該るからだ。(それは二番目。先に自燈明がある)。とはいえ、日蓮の信奉する『法華経』も経典の一つにしか過ぎないし、当時の『法華経』は漢語からの和訳だったから、矛盾が多い。(しかしながら、サンスクリット原典でも、途中から差し込まれたと推測される「品」が幾つかみられ、これが内部矛盾をつくりだしている。そのことについては、鎌倉当時はまだワカッテいなかった。そのため、日蓮自身も漁師の子供という出自に対しては、かなり腐心している。何故なら漁師などの賤しきものに近づくのはイケナイという記述があったからだが、これは原初法華経にはなかったということが後の研究で明らかになっている。で、ないと、この「品・・・『安楽行品』」はあきらかに法華経の教えとは矛盾することになる。歌舞音曲の類、つまり芸術、芸能もダメとなっているゆえ、宮沢賢治もここで苦悩した。他、『陀羅尼品』以下は後世の追加、附属ということだが、私もこの学説・・・植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経』・・・を支持する)。

矛盾が多いことは『聖書(Bible)』だって同じなのだが、聖書のほうの矛盾は、編纂、編集の出鱈目さからくるもので、チェスタートンのいう、「聖書に矛盾がみられるとき、この世界の矛盾と対応している」てな、名文句による解釈では片づかない。

『歎異抄』にせよ『立正安国論』にせよ、けっきょくのところ、現代に至っては、他の宗教と同じように、対立と抗争を産み出すことになった。根拠が無いのだから、そうなることは論理的帰結としかいいようがナイのだが、と、私などは高校生のときに読んで、まったくイカレてしまった『百億の昼と千億の夜』(光瀬龍、著)にどっぷりだから、こと仏教においては、「釈迦の思想」としてしか繰り込まないし、その視点からいけば、過ぎたる「他力本願」も、過ぎたる「釈迦信仰」も、釈迦の思想の神髄の「中道」からハズレたものとなる。

釈迦の思想と、仏教とは、メンタルな差ではなく、フィジカルなものと考えたほうが納得がいく。釈迦曰く/過ぎたる苦行はアカン。テクニックだけの瞑想もアカン。もちろん、過ぎたる快楽もアキマヘン/・・・これらは、フィジカルに識るべきことだ。

2018年3月 5日 (月)

こころの距離はいつも1センチメンタル・6

(6)ひろげた風呂敷のたたみかた

星野之宣さんの『レインマン』が単行本「07」で完結した。

「01」「02」を読んだときの、星野さんの新しい挑戦には脱帽したが、「03」あたりから、拡げすぎた風呂敷をどうたたむかで、星野センセイ、ブレはじめたようで、宗像教授が登場したあたりからは、私は読者としては、なんの興味ももてなくなった。それはいつだったか、ブログにも書いたような気がする。なんつうか、あまりイイときではナイ、石ノ森章太郎さんが踏み込んで道に迷った、これを路頭に迷うといってもイイのだが、それとおんなじことをヤッてんじゃナイのかなと、そうおもったもんだ。

で、「07」の半ばあたりで「量子力学」の援用が長々と始まる。しかし、このハッタリは、ちょっと、ひろげた風呂敷のやぶれを繕うには無理に過ぎた。

アインシュタインの思考実験「ERPパラドックス」は作中の人物が述べるような/量子力学最大の問題/などではナイことは、量子力学をかじったものにでもすぐにワカルことだし、/可能性の重ね合わせ/・・・これは「状態ベクトル」(波の重ね合わせ)のことを示唆しているのだが、これを、かの思考実験とくっつけるのはムチャとしか、いいようがナイ。「重ね合わせ」はたしかに量子力学では重要な部分なのだが、なぜなら、ここから波束の収縮へと、量子の観測研究(観測理論)は進んでいくのだが、簡単に重ね合わせが起こるワケではなく、量子の場というものにも、「混合状態」と「純粋状態」があることをワザと避けて、都合のイイ部分だけを貼り合わせていくのは、読んでいて、もはやチカラワザというものをも逸脱しているとしかおもえない。

そこから、ニュートン力学、アインシュタインの相対性理論(作品では、単純にそう書かれているが、これは「一般相対性理論」のことだ)が、あたかも、ニュートン力学を超えたかのような書き方は、まるでアインシュタイン力学てなものがあるかのごときで、もちろん、そんなものはナイ。アインシュタインの一般相対性理論も、加速度や重力を扱うところはニュートン力学なんだから。(ブラックホールの研究に及んでは、重力すら無効化されるんですけど)

で、順序よく、コペンハーゲン派のニールス・ボーアを登場させて、ここからさらに量子力学のレクチャーが始まる。ところで、「量子は〈粒子〉でありながら同時に〈波〉である」と、まるでこれをボーアの提唱のように描かれるとなると、半畳どころか十畳くらい投げ入れたくなる。ボーアは「量子はあるときは粒子、あるときは波、これを相補性という」と述べたんだけど、これは、量子力学においては、すでに否定されている。あるときもへったくれもなく、量子というのは「〈粒子〉でありながら同時に〈波〉である、なんだかワカラナイもの」というのが、現在の量子に対する量子力学の概念定義で、このあたりから、何故そうなのか、と、いう学問がさらに発展しているのが現状だ。

ところが、ここで、星野センセイは、量子の運動を「幽霊波」という展開に引っ張って、超心理学、超常現象などと、いっきにくっつけてしまう。これはもはや、逸脱ではなく乱暴だろう。

ここに引っ張っていくために、おなじみの「二重スリット」の実験・・・これは思考実験ではナイ・・・がレクチャーされるのだが、ここも、大事なことをスルーしている。たしかに感光スクリーンには、干渉縞が生じるのだが、問題は、このスクリーンのほうにある。本編ではまったく触れられていないが、スクリーンというものもまた「物質」なので、スリットが一つだろうが、二つだろうが、発射された量子(電子や光子)は、このスクリーンに到達するときに、このスクリーンと、物質的にぶつかるのだから、当然、スクリーンとの量子的作用がどうなるのかが取り沙汰されねばならない。(これは、観測理論によって、深く論じられていますが)

ともかくも、星野センセイは、なにがなんでも、量子力学と超能力(超常現象)とを結合しようとヤッキなのだけれど、(そうしないと、作品が破綻するからな)それは、ちょいとどころか、ずいぶんと無理やりだ。というより、物語がどんどん薄っぺらくなっていくのだ。

ひろげた風呂敷はみごとなものだった。けれども、このたたみ方が、昨今の星野SFにせよ、星野考古学にせよ、同じような題材を扱っているもう一つの「星」、諸星大二郎さんに比して、まったく説得力を欠くのは否めない。劇画だからといっても、それなりのエビデンスは提示しないとなあ。つまり、もちっとうまく騙してもらわないとなあ。

作品の展開に行き詰まったら「ゾンビ」を出すか「量子力学」を出せば、それなりになんとかなるのは、あまりいい風潮とはいえない。世界はそこまでご都合主義ではナイ。

これは、自戒でもある。私も拙著『恋愛的演劇論』の最終章で、マチガッテ(マトリックスの扱いを勘違いしている)るからな。

意外に、この、事実と虚構の1センチメンタルは遠く離れているのだ。それは、テレパシーとやらが簡単に届く距離でもナイようにおもわれる。

2018年3月 3日 (土)

こころの距離はいつも1センチメンタル・5

(5)役づくり という けったいなもの

「役づくり」というコトバがナニをさしているのか、ということを問題にする前に、このコトバが、誰によっていつ頃から、そういった関連の業界に出回ったのかが、私には興味があって、ウィキペディアを覗いてみたが、該当するところ、「この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください」とあった。たしかに、記事内容もそのごとしで、それ以上のことはナイ。

古典の芸談『役者論語』では「心がけ」「心得」といういい方は出てくるが「役づくり」というコトバは、みあたらない。

おそらく「役づくり」というのは、西洋(アチャラ)からの持ち込みだろうと推測される。そうなると、リアリズム演劇がアチャラから引っ張ってきたもので、さしずめ、スタ・システムの「内に向かって」の修業あたりを指すものだとおもわれる。で、それは「役づくり」どころか「役立たず」なものだということは、何故「役」に立たないのかを論理的に拙著『恋愛的演劇論』では小述してある。

スタ・システムの出発点は、上手な役者(俳優)から、特殊性(固有性)を引き算して、普遍性を抽出することだった。

このあくまでの出発点が、主だった方法論に転換されてしまったため、唯物弁証法からの発案だったはずのシステムが、アリストテレス哲学に後退してしまった。

唯物弁証法では「素材は表現に優先する」という立場をとる。具体的にいえば、仏像を造る場合、木製なのか、金属製なのか、陶製なのかで、出来映えにはチガイが出るということなのだが、この木製、金属、陶も、さらに細かくカテゴライズされるから、それぞれ、材料(素材)を選ぶことから、創造が始まる。絵画においても、油絵と水彩、版画では趣がチガウ。

しかしながら、演技の場合、「素材は表現に優先する」とは必ずしも正しい命題にならない。

演技の場合は、素材(役者の身体)と表現(役の身体)とは、係数(比率)になる。

「役づくり」とやらをヤッてらっしゃる役者の方々をみての、私の感想は、多くの方々が自身の身体を無視するか、括弧に入れてしまってらっしゃるということだ。

ロバート・デニーロさんが、役によって、体重を何十㎏も減らしたり、増やしたりしたので、スゴイとか、そーいうことに驚いているのはマスコミ媒体だけでよろしい。

さらに感想を述べさせてもらえば、「役づくり」というのをヤッてらっしゃる方々をみるにつけ、それは「役づくり-づくり」じゃないのかネと、半畳入れたくなることだ。よーするに「役づくり」というのを、「つくって」るだけじゃナイのか。

いまふうにいえば、customizeしてるだけじゃないの、だ。

では、おまえはどうしているのか、あるいは、おまえが演出するとき、役者にどう指示するのかと、問われれば、応答はごく単純で、「正確にせりふをいいなさい」だけだ。せりふには、必ず〈正確・正しい〉いい方が在る。それをホンから掘り出してこなくてはならない。それが無い「ホン」は「ホン」が悪い。つまり、ホン書きも「正確・正しい」せりふを書かねばならないということだ。

身体とコトバの、「役」との距離の1センチメンタルは、かくも困難だ。

« 2018年2月 | トップページ | 2018年4月 »