こころの距離はいつも1センチメンタル・4
(4)銀のバターナイフ
タイトルの『銀のバターナイフ』という小文を書いたとき、初めて私は、自分の文章が書けたとおもった。そのカタストロフィは、これからは文章を書いてヤッテいけるという漠然とした自信につながった。
文章の内容は、ある追悼文で、当時の劇団員で最年長のかたの(顧問というカタチでの参加でスタッフや役者ではナイ)長女が自裁したときのものだ。葬儀にも参列したが、この顧問氏から幾つか、長女さんのハナシを聞いた。彼女はソープで働いていた。ソープは一勤一休で、そうでナイとカラダがもたない。賃金は月に50万円(当時)。ご当地の組の親分さんから譲り受けた二尺の匕首(ドス)が箪笥にしまわれていた。自裁の日、住居はきれいにかたづけられており、何も彼もが整然と、ゴミ一つ落ちていない状態でありながら、台所の流しタンクに、バターナイフだけが片隅に洗われないまま放置されていた。
「なんでなんだろうなあ」
と、顧問氏は首をひねっていたが、私にはその理由がワカルようにおもえた。
たぶん、と、私は顧問氏にいった。
「それは、彼女の、ある、生活の痕跡なんじゃないでしょうか。死ぬ前に何もかもキレイにした。けれども、それでは生活のアトすらすべて消し去ってしまうようで、ここで、生きた、というよりも、ここで〈生活した〉名残の一つくらいあってイイのではないかと、彼女はかんがえたんでしょう」
そういったことを、追悼の文案にした。
ここ数年、私は自身の命の長さ(残りかな)を、他人の死という現実を尺度に計測しながら、それをmotifに、自分がproduceの一端を担う劇団への戯曲を書いてきた。経済的にも心身の衰えからも計測は可能だったが、私くらいの年齢(六十五歳)になると、私と同年配、あるいはちょいと上、少し下の方々が、多くは疾病で他界する。それは身近なひとであったりもするし、長年のファンの方だったりもする。
大杉漣さんは、実際にお逢いしたことはなかったが、『寿歌』を演りたいなあとおっしゃっていたという噂は耳にしたことがある。その頃は「転形劇場」(ここで、大杉さんの演じた沈黙劇『小町風伝』太田省吾、作・演出を、私は観ている)を退団されて、本格的に芸能活動をはじめられたアタリだったとおもう。
マスコミ業界の報道、などでは、「下積み時代」というふうにいつも表現されるのだが、その「食うため」の芸能営業は、下積みというよりも、立派な「修行・修業」の時代だったのではないか。
また、「実力派」とか「演技派」というふうなletterをマスコミは貼りたがるのだが、私自身のコトバで語弊をおそれずにいわせてもらうならば、大杉さんは〈technique〉を持たない役者だったとおもう。あるいは持っていらしたのかも知れないが(ともかくいろんな役を演じられているので)、さまざまな役でたとえ業界から「300の顔を持つオトコ」と称されていても、~このひとは不器用だなあ~と、私は〈賞讃〉するのだ。
つまり、大杉漣さんは、どんな役でもやれたひとだが、どんな役をやっても大杉漣で、逆に視れば、誰も、大杉漣を演じることは不可能だろう。
このことを別のいいかたで述べれば、その作品が大監督の芸術作品だろうが、新人無名の監督の作品だろうが、「やってることは同じなんです」ということになる。
ともかくも、結びの常套句として「ご冥福を」と書いておくが、ずいぶんと失礼、無礼を省みず、「この方とも、1センチメンタルの距離だったなあ」と、悲しみではない、すがすがしい深呼吸をさせて頂く。
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