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2018年2月17日 (土)

こころの距離はいつも1センチメンタル・3

(3)

「演劇なんてのは、徒党を組んで悪を成す心構えでナイとやれないよ」という名文句を残したのは、徒党を組んで善を成す『水戸黄門』の主役も演じた、西村晃さんだが、いまどきは、何が悪で何が善だかワカランので、さらに、悪というものが、かなり気色の悪いものにカテゴライズ(分類)されるようになってしまったので、私はこの文言を「徒党を組んで銀行強盗する」と、かなり具体的に語る場合がある。

つまりは「用意周到、計画は緻密に、行動は大胆に」ということがいいたいワケで、とはいえ、しかし、この路線で国家を機動させているのが、北朝鮮なんだから、飢え死にしたり、粛清が激しかったりするこの国家からも、学ぶものは多々あるとしかいいようはナイのだけれど、それはまあpoliticalな範疇としてと、うーん、と、ともかく「無計画とad-lib」を以て宗とすべし、が信条の我が〈演劇〉からかんがえるに、「用意周到、計画は緻密に、行動は大胆に」と「無計画とad-lib」との距離は1セチメンタルというところにハナシがおちつけばイイ。

と、同時に、ルイス・ブニュエル監督の、『ナサリン』と『皆殺しの天使』は、ブニュエル監督の生涯の主題である〔キリスト教迎撃〕映画ではあるのだが、大傑作とされる後者に比して、あまり知られていない前者を、私はうんと評価したいと、この距離は、かなりあるんじゃないかと、いま、『皆殺しの天使』を観て、この映画をこきおろすことにした。

『皆殺しの天使』は巷間(あるいは評論家かな)では、「シュールレアリスムと不条理の融合」で、何度観てもワカランけど面白いということになっているが、何度観てもワカランというのはどうかなあ。一度観れば(というか、私は退屈で、早送りしたけど)もう充分で、『ナサリン』のようにボディブローのような効き目もなく、要するに巨匠ブニュエル監督の作品にしては、下等、屑、糞のような作品だ。

何故、そうなのか、以下、解説する。

この映画の解りにくさ(といわれているのだが、私はそうはおもわない)の理由は、「シュールレアリスムと不条理の融合」などというものとは、ぜんぜん関係がナイ。単純に解述するのには、数学的な思考(方法)が間に合うので、そうするが、この作品がワカリニクイのは、/微分方程式にすることが出来ない/からだ。くだいていうと、「部分を観て、全体を予想することが出来ない」ということになる。なんで、そうなるのかといえば、不条理だとか、シュールだ、とかとは、まったく関係ナイ。むしろ「不条理やsurréalisme」への誤解から生じた錯誤、錯綜、錯乱から創作されているといったほうがイイ。

これは、よく劇作家も陥ることなのだが、/具体から抽象へは行けるが、抽象から具体へは行けない・或いは行こうとしてはいけない/という数学の命題(これは証明されている)に則していない、というよりも、私がよく後塵に対して訓戒する、/抽象から抽象を描いてはいけない/を、そのまんまヤッたような作品だからだ。ワカリニクイのは、マチガイなくこの作品、ブニュエル監督が失敗しているからだし、ブニュエル自身、それに気づいていない(というより悦に入ってらっしゃる)からだ。

えー、どういうことなの。

って、数学的批評はここまで。数学のワカルひとには、ワカル。ワカランものにもそれなりにうんうん、くらいはいうことは出来るとおもう。

キリスト教を迎撃するのはオモシロイ。なにしろ相手がバチカンだからねえ。しかし、それなら『ナサリン』のほうが数段、数十段、上です。

この作品ではもう一つ、ブニュエルの射程には、bourgeoisie が含まれているのだが、批評、批判、揶揄、嘲笑、それらは表現するにヤッてもイイが、「殺す」のはアカンとおもう。そういう論理でいくなら、「キライなヤツは作品の中で殺してしまう」という表現も可なり、ということになるのだが、まさにこの作品はそれをヤッちゃっているのだが、そこはブニュエルらしくナイ、単純なHysterie(ヒステリー)だ。他人のヒステリーに付き合うほど身のほどが疲れるものはナイ。徒労、の一語に尽きるから。 

だんだん、ワカッテきたぞ。私はこの作品は、ルイス・ブニュエル監督のヒステリーに過ぎないとおもう。何がシュールレアリスムと不条理の融合」なものか。どんなに偉い監督が創ろうとも、下等、屑、糞は、下等、屑、糞、以外のナニモノでもナイ、と、同義反復するほかはない。

で、ハナシはおちついていないが、私もこの映画を観たアトは、感情的で、ブニュエル監督とこの作品の差は1センチメンタルどころか(ふつう、表現者・・・作者・・・と表現(作品)との差は、それくらいはあるのだが)まったく無いのだ。あんまりピッタリと自身にくっついているものには、表現者は要心したほうがイイ。それは単純に、自身の影でしかナイことが多い。

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