こころの距離はいつも1センチメンタル・1
(1)
年頭所感などを書こう書こうとおもいつつ、年末からの多忙と、「身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれホトトギス」なんて、無理を承知のこの稼業で、心身を癒す時間がなく、壊れっぱなしで、なんとかそれを斬り抜けて、ここまできた。
で、いまさら念頭所感でもあるまいから、それはすっ飛ばすとして、この冬の厳しさはいつもの冬のそれとはチガウという、体感から、ゲノムの記憶を呼び覚ますまでにいたって、いよいよ氷河期も本格的になったなと、感じざるを得ない。
我が祖先は、氷河期を幾度かこえてはきたが、脆弱になった私たちにそれが出来るのかどうか。なんしろ、influenzaの罹患者の多くが二十代未満というから、その免疫力の低下やおそるべし。
此方(こち)とらは、アト半年で66歳のゾロ目となるが、これくらいの年齢になると、「どう生きるか」よりも「どう死ぬか」のほうが難しい。誰しものことだが、「死に方は選べない」からだが、その誰しもが「必ず死ぬ」ときているのだから、ここは皮肉な矛盾をはらんでいる。
覚悟は覚悟、さだめはさだめ、ということなんだな。
この歳になっても、学ぶことは多くあり、またそれは楽しい。何にせよ、何かに好奇心、探求、学究心があるというのは、学問にせよ、恋愛にせよ、在ったにこしたことはナイ。とはいえ、創作意欲や、ideaはあるのだか、心身が伴わないというのもこの歳の辛さだ。
ウディ・アレンの『カフェ・ソサエティ』をやっと観たが、ナレーションをウディ自身が担当していることもあってか、そのtempoの良さは最近の作品の粗雑さからやっと脱してくれたようで、96分の中に人生をぶち込んでしまうやり口は、もはや潔いとしか評する他はナイ。厭世でもなく、humanismでもなく、いわば憐憫に近い感覚だ。
/ああ、私もそうだったなあ/とおもわせる、いつものウディ節というところ。
健康寿命というのがあるそうだが、これはアヤシイ。何故なら、健康をいうなら、私のそれは、二十五歳で終わっている。鬱疾患の始まりがそこだから、それ以降は、健康ではナイことになる。これには物的証拠のようなものがあって、いわゆる生命保険系統の保険ではたいていハネられてきた。現在の保険でも、新しく別のものに移行することは出来ない。
病持ちのものに対しての保険が増えてきたのは、「老齢社会」という世相だからで、これを「長寿社会」などといいかえてもらっても、アホラシイとおもうだけだ。
荒野をゆく、我がrear carの独り旅は、予定されている続編では、キョウコを失ったゲサクが、生存者と遭遇し、旅に疲れたので、ちょっと、このあたり(どのあたりでもナイこのあたり)を一緒に耕してみるかと、荒れ地に鍬を入れることになっているが、さて、これもまたideaはあるが、書けるかどうかはワカラナイ。
「ああ、荒野というた詩人がおりましたな」
「そのかたは、どうしていらっしゃるの」
「街の中に消えよりましたな」
「あなたは、どうされます」
「ちょっといっぷく、していこかな」
「ご飯でも食べます」
「そら、よろしおまんな。食わんとするところから、何事も始まる」
「それは、どなたがおっしゃったんですか」
「どなたがいうても、ふしぎやおまへんな」
Plotは、あるには、あるのだが。
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