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2018年2月

2018年2月23日 (金)

こころの距離はいつも1センチメンタル・4

(4)銀のバターナイフ

タイトルの『銀のバターナイフ』という小文を書いたとき、初めて私は、自分の文章が書けたとおもった。そのカタストロフィは、これからは文章を書いてヤッテいけるという漠然とした自信につながった。

文章の内容は、ある追悼文で、当時の劇団員で最年長のかたの(顧問というカタチでの参加でスタッフや役者ではナイ)長女が自裁したときのものだ。葬儀にも参列したが、この顧問氏から幾つか、長女さんのハナシを聞いた。彼女はソープで働いていた。ソープは一勤一休で、そうでナイとカラダがもたない。賃金は月に50万円(当時)。ご当地の組の親分さんから譲り受けた二尺の匕首(ドス)が箪笥にしまわれていた。自裁の日、住居はきれいにかたづけられており、何も彼もが整然と、ゴミ一つ落ちていない状態でありながら、台所の流しタンクに、バターナイフだけが片隅に洗われないまま放置されていた。

「なんでなんだろうなあ」

と、顧問氏は首をひねっていたが、私にはその理由がワカルようにおもえた。

たぶん、と、私は顧問氏にいった。

「それは、彼女の、ある、生活の痕跡なんじゃないでしょうか。死ぬ前に何もかもキレイにした。けれども、それでは生活のアトすらすべて消し去ってしまうようで、ここで、生きた、というよりも、ここで〈生活した〉名残の一つくらいあってイイのではないかと、彼女はかんがえたんでしょう」

そういったことを、追悼の文案にした。

 

ここ数年、私は自身の命の長さ(残りかな)を、他人の死という現実を尺度に計測しながら、それをmotifに、自分がproduceの一端を担う劇団への戯曲を書いてきた。経済的にも心身の衰えからも計測は可能だったが、私くらいの年齢(六十五歳)になると、私と同年配、あるいはちょいと上、少し下の方々が、多くは疾病で他界する。それは身近なひとであったりもするし、長年のファンの方だったりもする。

大杉漣さんは、実際にお逢いしたことはなかったが、『寿歌』を演りたいなあとおっしゃっていたという噂は耳にしたことがある。その頃は「転形劇場」(ここで、大杉さんの演じた沈黙劇『小町風伝』太田省吾、作・演出を、私は観ている)を退団されて、本格的に芸能活動をはじめられたアタリだったとおもう。

マスコミ業界の報道、などでは、「下積み時代」というふうにいつも表現されるのだが、その「食うため」の芸能営業は、下積みというよりも、立派な「修行・修業」の時代だったのではないか。

また、「実力派」とか「演技派」というふうなletterをマスコミは貼りたがるのだが、私自身のコトバで語弊をおそれずにいわせてもらうならば、大杉さんは〈technique〉を持たない役者だったとおもう。あるいは持っていらしたのかも知れないが(ともかくいろんな役を演じられているので)、さまざまな役でたとえ業界から「300の顔を持つオトコ」と称されていても、~このひとは不器用だなあ~と、私は〈賞讃〉するのだ。

つまり、大杉漣さんは、どんな役でもやれたひとだが、どんな役をやっても大杉漣で、逆に視れば、誰も、大杉漣を演じることは不可能だろう。

このことを別のいいかたで述べれば、その作品が大監督の芸術作品だろうが、新人無名の監督の作品だろうが、「やってることは同じなんです」ということになる。

ともかくも、結びの常套句として「ご冥福を」と書いておくが、ずいぶんと失礼、無礼を省みず、「この方とも、1センチメンタルの距離だったなあ」と、悲しみではない、すがすがしい深呼吸をさせて頂く。

2018年2月17日 (土)

こころの距離はいつも1センチメンタル・3

(3)

「演劇なんてのは、徒党を組んで悪を成す心構えでナイとやれないよ」という名文句を残したのは、徒党を組んで善を成す『水戸黄門』の主役も演じた、西村晃さんだが、いまどきは、何が悪で何が善だかワカランので、さらに、悪というものが、かなり気色の悪いものにカテゴライズ(分類)されるようになってしまったので、私はこの文言を「徒党を組んで銀行強盗する」と、かなり具体的に語る場合がある。

つまりは「用意周到、計画は緻密に、行動は大胆に」ということがいいたいワケで、とはいえ、しかし、この路線で国家を機動させているのが、北朝鮮なんだから、飢え死にしたり、粛清が激しかったりするこの国家からも、学ぶものは多々あるとしかいいようはナイのだけれど、それはまあpoliticalな範疇としてと、うーん、と、ともかく「無計画とad-lib」を以て宗とすべし、が信条の我が〈演劇〉からかんがえるに、「用意周到、計画は緻密に、行動は大胆に」と「無計画とad-lib」との距離は1セチメンタルというところにハナシがおちつけばイイ。

と、同時に、ルイス・ブニュエル監督の、『ナサリン』と『皆殺しの天使』は、ブニュエル監督の生涯の主題である〔キリスト教迎撃〕映画ではあるのだが、大傑作とされる後者に比して、あまり知られていない前者を、私はうんと評価したいと、この距離は、かなりあるんじゃないかと、いま、『皆殺しの天使』を観て、この映画をこきおろすことにした。

『皆殺しの天使』は巷間(あるいは評論家かな)では、「シュールレアリスムと不条理の融合」で、何度観てもワカランけど面白いということになっているが、何度観てもワカランというのはどうかなあ。一度観れば(というか、私は退屈で、早送りしたけど)もう充分で、『ナサリン』のようにボディブローのような効き目もなく、要するに巨匠ブニュエル監督の作品にしては、下等、屑、糞のような作品だ。

何故、そうなのか、以下、解説する。

この映画の解りにくさ(といわれているのだが、私はそうはおもわない)の理由は、「シュールレアリスムと不条理の融合」などというものとは、ぜんぜん関係がナイ。単純に解述するのには、数学的な思考(方法)が間に合うので、そうするが、この作品がワカリニクイのは、/微分方程式にすることが出来ない/からだ。くだいていうと、「部分を観て、全体を予想することが出来ない」ということになる。なんで、そうなるのかといえば、不条理だとか、シュールだ、とかとは、まったく関係ナイ。むしろ「不条理やsurréalisme」への誤解から生じた錯誤、錯綜、錯乱から創作されているといったほうがイイ。

これは、よく劇作家も陥ることなのだが、/具体から抽象へは行けるが、抽象から具体へは行けない・或いは行こうとしてはいけない/という数学の命題(これは証明されている)に則していない、というよりも、私がよく後塵に対して訓戒する、/抽象から抽象を描いてはいけない/を、そのまんまヤッたような作品だからだ。ワカリニクイのは、マチガイなくこの作品、ブニュエル監督が失敗しているからだし、ブニュエル自身、それに気づいていない(というより悦に入ってらっしゃる)からだ。

えー、どういうことなの。

って、数学的批評はここまで。数学のワカルひとには、ワカル。ワカランものにもそれなりにうんうん、くらいはいうことは出来るとおもう。

キリスト教を迎撃するのはオモシロイ。なにしろ相手がバチカンだからねえ。しかし、それなら『ナサリン』のほうが数段、数十段、上です。

この作品ではもう一つ、ブニュエルの射程には、bourgeoisie が含まれているのだが、批評、批判、揶揄、嘲笑、それらは表現するにヤッてもイイが、「殺す」のはアカンとおもう。そういう論理でいくなら、「キライなヤツは作品の中で殺してしまう」という表現も可なり、ということになるのだが、まさにこの作品はそれをヤッちゃっているのだが、そこはブニュエルらしくナイ、単純なHysterie(ヒステリー)だ。他人のヒステリーに付き合うほど身のほどが疲れるものはナイ。徒労、の一語に尽きるから。 

だんだん、ワカッテきたぞ。私はこの作品は、ルイス・ブニュエル監督のヒステリーに過ぎないとおもう。何がシュールレアリスムと不条理の融合」なものか。どんなに偉い監督が創ろうとも、下等、屑、糞は、下等、屑、糞、以外のナニモノでもナイ、と、同義反復するほかはない。

で、ハナシはおちついていないが、私もこの映画を観たアトは、感情的で、ブニュエル監督とこの作品の差は1センチメンタルどころか(ふつう、表現者・・・作者・・・と表現(作品)との差は、それくらいはあるのだが)まったく無いのだ。あんまりピッタリと自身にくっついているものには、表現者は要心したほうがイイ。それは単純に、自身の影でしかナイことが多い。

2018年2月14日 (水)

こころの距離はいつも1センチメンタル・2

(2)

『寒い国から来た男』というのがタイトルだったとおもうが、依頼原稿でけっこう長文を書いた。長文とはいえ、「川島雄三・論」としては短いものだが、今年出版だとか聞いているので、幾つもの優れたエッセイの末席に静かに座っていることだろう。

川島雄三監督の作品との出逢いはご多分にもれず『幕末太陽伝』だが、これは劇場でみている。それが何処だったのか、記憶にナイ。作品についていまさら記すのは愚行なので、ナシにしといて、彼の出自を記せば、青森県下北だ(現在のむつ市)。で、父親が近江商人だったか、その裔だったかで、この辺りは、資料を繰っているときに識ったのだが、私の祖父も近江商人だから、奇妙な縁を意識するのに充分だ。

下北半島まで、特に用事はナイのに遠出をしたのは一昨年の秋だったが、そのときは、川島雄三監督の出自は知らずにいた。これまた、奇妙な縁だ。

川島雄三監督は、当初、松竹でプログラム・ピクチャーを量産していたが、「私はヤワな男だから、こういう生きやすい環境にいると、破滅方に傾いてしまう。だから」という理由で日活に移籍する。その辺りからいわゆる「重喜劇」が創られ始める。

こんなことを書いていると、なんだかウィキを写しているような錯覚に陥るので、またも中止。

ところで、川島雄三監督は『全部精神異常あり』(昭和41215日(1929年。1215日)封切り 、松竹鎌田撮影所の斎藤寅次郎監督による映画、『西部戦線異常なし』アメリカのアカデミー賞映画のタイトルをもじっただけ)は観たにチガイナイ。

シェイクスピアは『ハムレット』を書いたとき、『ドンキホーテ』を読んでいたのかと考えたが、どうもセルバンテスの『ドンキホーテ』のほうが後に書かれているので、それは逆なんだろう。

もちろん、『全部精神異常あり』のフィルムは現存していない。だいたいの内容はウィキペディアを調べればワカル。『西部戦線異常なし』のほうは観たが、たぶん、前者のほうがオモシロイ。

「積極的逃避」などという、川島雄三監督の造語は、『全部精神異常あり』なんてのを観ていないと浮かんでは来ない。(と、おもうんだけどなあ)

「花に嵐のたとえもあるぞ、サヨナラだけが人生だ」が川島雄三監督の座右の銘だったが、これは、世間に向けたカッコツケで、川島雄三監督の「重喜劇」を観ると、「ステキにみんな狂っていたほうがイイ」と、おもうのだ。

そういえば、いにしえの女芸人が「浮世は夢よ、ただ狂え」と歌って踊ったナ。彼女は真っ当だ。真っ当な人間が真っ当に生きようとすると〈喜劇〉になる。それが川島雄三監督の「重喜劇」というもので、『ハムレット』から『ドンキホーテ』までの距離は1センチメンタルしかナイ。

 

2018年2月 8日 (木)

こころの距離はいつも1センチメンタル・1

(1)

年頭所感などを書こう書こうとおもいつつ、年末からの多忙と、「身を棄ててこそ浮かぶ瀬もあれホトトギス」なんて、無理を承知のこの稼業で、心身を癒す時間がなく、壊れっぱなしで、なんとかそれを斬り抜けて、ここまできた。

で、いまさら念頭所感でもあるまいから、それはすっ飛ばすとして、この冬の厳しさはいつもの冬のそれとはチガウという、体感から、ゲノムの記憶を呼び覚ますまでにいたって、いよいよ氷河期も本格的になったなと、感じざるを得ない。

我が祖先は、氷河期を幾度かこえてはきたが、脆弱になった私たちにそれが出来るのかどうか。なんしろ、influenzaの罹患者の多くが二十代未満というから、その免疫力の低下やおそるべし。

此方(こち)とらは、アト半年で66歳のゾロ目となるが、これくらいの年齢になると、「どう生きるか」よりも「どう死ぬか」のほうが難しい。誰しものことだが、「死に方は選べない」からだが、その誰しもが「必ず死ぬ」ときているのだから、ここは皮肉な矛盾をはらんでいる。

覚悟は覚悟、さだめはさだめ、ということなんだな。

この歳になっても、学ぶことは多くあり、またそれは楽しい。何にせよ、何かに好奇心、探求、学究心があるというのは、学問にせよ、恋愛にせよ、在ったにこしたことはナイ。とはいえ、創作意欲や、ideaはあるのだか、心身が伴わないというのもこの歳の辛さだ。

 

ウディ・アレンの『カフェ・ソサエティ』をやっと観たが、ナレーションをウディ自身が担当していることもあってか、そのtempoの良さは最近の作品の粗雑さからやっと脱してくれたようで、96分の中に人生をぶち込んでしまうやり口は、もはや潔いとしか評する他はナイ。厭世でもなく、humanismでもなく、いわば憐憫に近い感覚だ。

/ああ、私もそうだったなあ/とおもわせる、いつものウディ節というところ。

 

健康寿命というのがあるそうだが、これはアヤシイ。何故なら、健康をいうなら、私のそれは、二十五歳で終わっている。鬱疾患の始まりがそこだから、それ以降は、健康ではナイことになる。これには物的証拠のようなものがあって、いわゆる生命保険系統の保険ではたいていハネられてきた。現在の保険でも、新しく別のものに移行することは出来ない。

病持ちのものに対しての保険が増えてきたのは、「老齢社会」という世相だからで、これを「長寿社会」などといいかえてもらっても、アホラシイとおもうだけだ。

 

荒野をゆく、我がrear carの独り旅は、予定されている続編では、キョウコを失ったゲサクが、生存者と遭遇し、旅に疲れたので、ちょっと、このあたり(どのあたりでもナイこのあたり)を一緒に耕してみるかと、荒れ地に鍬を入れることになっているが、さて、これもまたideaはあるが、書けるかどうかはワカラナイ。

「ああ、荒野というた詩人がおりましたな」

「そのかたは、どうしていらっしゃるの」

「街の中に消えよりましたな」

「あなたは、どうされます」

「ちょっといっぷく、していこかな」

「ご飯でも食べます」

「そら、よろしおまんな。食わんとするところから、何事も始まる」

「それは、どなたがおっしゃったんですか」

「どなたがいうても、ふしぎやおまへんな」

Plotは、あるには、あるのだが。

 

 

 

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