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2017年11月

2017年11月18日 (土)

漢方薬について

 

まず、私の常備薬としての漢方薬をあげておく。

「麻黄附子細辛湯(マオウブシサイシントウ)」と「柴胡桂枝乾姜湯(サイコケイシカンキョウトウ)」の二種。鼻水の多い鼻炎(鼻風邪)のときは、「小青竜湯」を用いることがあるが、これは、前の二つとbatting(和製英語として、重なる、ぶつかりあう、の意訳)ので、併用するときは注意が必要。

てなふうに、漢方薬といえど、なんでもかんでも適当に服用してイイものではない。

なんで、こんなことをブログのネタにしているのかというと、昨今の医薬に対する民間の不信が大きく、また、医師にしても、漢方薬への見直しと研究がなされているので、良心的で研究熱心な医師は、漢方薬を処方する機会が増えているということ、と、漢方薬に対する無知な医師が、適当に漢方薬を処方して、失敗している例も枚挙に暇がない、さらに、使い方の自らの誤謬、錯誤による失敗であるのに、「漢方薬は効果がナイ」と、鬼の首でもとったように断言する輩もあったりするので、という、それだけなんだけど、この「それだけ」はけっこう重要なのだ。

基本的(原則的)に漢方薬というのは、漢方処方の薬剤師と、man-to-manで、相談しつつ、自分にあったものを処方、調剤してもらうもの、なんだけども、昨今は市販さているので、ついついお手軽にそれを購入するということになる。これでの失敗を漢方薬の効能のせいにする、のは、明らかに責任転嫁というものだ。

同じ名前のクスリでも、漢方薬は、その調剤内容(量)がチガッテくる。ここがよくいわれる「匙加減」というものだ。

私が勧めるのは、まず、信用のおける漢方薬薬剤師のところで、自身の心身の情況について相談し、調剤処方してもらい、それで、持病が軽減するようであれば、それを信頼のおける医師に伝え、保険の効くように処方箋を書いてもらうか、医師の出す同種の漢方薬を服用。こんだけの手間をかけるべし、だ。

比較的ゆっくり効果の出る漢方薬もあれば、即効性のものもある。また、飲んだら死ぬものだってある。だってクスリは毒なんだから。 

下手な民間療法に頼るよりは、「匙加減」の出来る漢方薬剤師と、医師を探せ。ですね。

2012年のWHOの統計では、鬱疾患者は、全世界で三億五千万人。それから、5年を経て、通院などしていない罹患者を想定すると、四億人の鬱病者が世界にはいるだろう。世界の人口は約76億人。このうちの4億人は鬱罹患者だ。100人ひとが集まれば、おおよそそのうち5~6人は鬱病です。これは、統失患者の約六倍です。

おかしな締めくくりかたになっちまうが、危ない、あやしいと感じたら、行ってはいけないのが心療内科や神経内科という「内科」。それよりは、まず、漢方薬を試してみて、それから医院へ、あるいは、医院と漢方薬剤師を両方とも、というのが、漢方の向精神薬に代わるうまい用い方だとおもうが。 

色即是空について②

ここはひとこと、で、述べておく。

現在、私が問題にしているのは、というより、その方向で思案しているのは、「色即是空空即是色」が〈現象〉なのか〈表現〉なのか、というあたりで、〈現象〉を示しているのにはチガイナイが、それじゃあ、生まれて死んで、が、味気なさ過ぎるというこれ「人情」。そこで、これを〈表現〉とするには、どういう「解」と「方程式」が必要なのか。また、それを拡張して、演劇つうもんをかんがえる。と、自問と試行錯誤を反復しているが、けしてこれは暗中模索というワケではナイ。とはいえ、日がな一日、そればかりというワケではナイので、バラバラのpieceを集めては棄てというふうかねえ。

 

色即是空について①

「色即是空空即是色とはなにか」というタイトルでもイイのだが、とりあえず、一般的に口にされるのが「色即是空」だけなので、そのようにしてみた。

もちろん、この「色即是空」は『般若心経』に登場するもっとも有名な文言だ。そうしてもっとも誤解されている文言でもある。

何故、誤解されているのかというと、そんなに難しい理由からではナイ。『般若心経』では、この「色即是空」のすぐ後に「空即是色」とある。これは、一見して反復、繰り返しのようでもあるが、そうではナイ。これは「色即是空空即是色」で一文として読まなければ、何の意味もナイ。また、その読み方を「色(物質)は即ち、是れ空(実体はなく)、空(実体)のナイものは色(物質)である」と読むと、文章としても意味をなさない。これは「空」を、空間概念として読むことによるマチガイで、空間概念としての「空」は、老荘思想の「空」だ。仏教は「何もナイ(実体がナイ)」ことを「無」と表現している。従って、この場合の「空」は、空間概念における「何もナイ」ではなく、時間概念としてのblankと考えなければ、スジが通らない。

読み方を、「色は即ち是、空であり、空は即ち是、色である」という「色=空」の「等号」の使い方で読むとマチガイが起こる。この「等号」は「同等」「等しい」という意味の「=」ではナイ。数式における「=」の意味は十種類以上あるのだ。その中で、この「=」は、次のように読むのが正しい。

「色は即ち是、空と成る、空は即ち是、色と成る」

読み方を換えれば、「生成は消滅となり、消滅は生成となる」。これは『資本論』の基本概念の「生産=消費」と同じことだ。なにかが生成されれば、なにかは消滅し、なにかが消滅すれば、なにかが生成される、ということだ。生産されるということは消費されることであるのが『資本論』ならば、なにかが生成されるということはそこに在ったなにかが消滅することだし、なにかが消滅するならば、なにかが生成されている、よって「不生不滅」なのだ。という読み方が正しい。この読み方に至った読み方をしているのは、『法華経』に傾倒した宮沢賢治と、その作品の『春と修羅(序)』くらいかなあ。

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