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2017年10月21日 (土)

DVD感想『哭声(コクソン)』

(韓国・2016・監督、脚本・ナ・ホンジン)で、私はこの映画の編集者キム・サンミンの編集作品『殺人の追憶』『グエムル-漢江の怪物-』は観ている。その二作と比較する限りでいうのなら、この映画は、あちこちで騒ぎ立てるほどの作品ではナイというのが私の単純な感想だ。

ネット検索すると、数多のファン(監督のファンや映画ファン)が、「謎解き」合戦で火花を散らしていて、そっちのほうがオモシロイという皮肉の一つもいいたくなるのだが、156分(いつものように途中二回休憩して、50分程度ずつ観ました)の長尺にして、それも監督の計算の上といわれると、監督のalgorithmを疑いたくなる。「脚本が拙い」のひとことでイイんじゃナイだろうか。ネット評論家諸氏はこぞって「これが正解だと思う」と、この映画のテーマやら、ストーリー展開について一家言、呈しているのだが、どれもごもっともだとおもう。おもうが、そもそも、映画の正解というのは、監督が「撮りたかったもの」「いいたかったこと」「伝えたかったこと」「試みたかったこと」と、〈監督が〉を主語にした述語にならなければならない。たとえば「私は、鑑賞者、観客をこんがらがらせるものが撮りたかった」なら、それでもイイのだ。しかし、そういう監督の思い(ドクサ)と、映画の出来の善し悪しとは別問題だ。

この作品のように結果が二転三転する映画は過去に数多あるし、観方によって解釈も変わるという作品も同じように存在する。さまざまな観方があるというアレ、「正解は観客のみなさん、おのおのがみつけて下さい」というアレね。しかし、くり返していうけれど、そういう構造と、映画の出来の善し悪しとは無関係だ。

私は冒頭からの映像の見事さと、編集の上手さに感心したが、それはこの監督や編集者の並々ならぬ鍛練の成果だと、ここだけは評価しておく。

しかし、他に評価するに値するものは、私が稚拙なのかも知れないが、まったくナイ。私は映画ファンであるし、劇作家ゆえ、どうしても脚本の書きっぷりを気にしてしまうのだが、その視点からすると、脚本はたしかに拙いのだ。いきなりの「ルカ福音」の一節のハッタリはバクチとしてもオモシロイのだが、そのバクチに映画が勝っていたかどうか、心許ない。なんだ、単なる伏線かヨでは、アカンのとちがうか。國村隼さん演じる〈悪魔・・・なんだろうけど〉に聖痕を「チラ観」させる悪戯なんかは私も好きなほうだが、「あなたが観ているものは信じられるものだろうか」のような、この映画のテーマだか、モチーフだか、そのものが胡散臭い。その胡散臭さは、脚本の稚拙さからきているとしかおもえない。致命的なのは、血がいっぱい出るスリラーなのに、〈恐怖〉がひとつも描けていないことだ。(グロではあったけど、それは監督の趣味でしょ)。三十年ほど前のジャンク・スリラーをみせられているようで、笑うに笑えなかった。

この映画において描かねばならない〈恐怖〉は、翻弄されることなのではナイのか。「何を信じていいのかワカラナイ」という〈恐怖〉ではナイのか。でなきゃ、「日本人は悪魔だという映画ダナ」という観客の感想があっても、製作者は、面々のお計らいと黙っていなければならない。それとも「いや、それを疑うための映画だよ」という良心的なファンの声が聞きたいのかナ。何れにせよ、どのように錯綜を仕掛けても、創り手は本質を握っていなければならない。でないと、バクチすら通用しない、イカサマ賭博になってしまう。

腐してばかりいるのもなんだから、私ならどうするかをゴーマンながら記しておくと、いまひとり、合理の視線(探偵のような、この事件、事態を推理、観測するもの)を持つ登場人物の導入ということになる。もちろん、彼あるいは彼女も正しいのかどうかはワカラナイ。そのことによっての恐怖が生まれる。鈴木光司氏の『リング』はそのような構造で、これまでにナイ〈恐怖〉を描いたのではなかったか。

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