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2017年10月12日 (木)

「自燈明 法燈明」について

釈尊が、遺言(いごん)として、阿南(アーナンダ)にいい遺した「自燈明 法燈明」は、仏教の説く普遍的な教えを述べたのではなく、目前のアーナンダに対する遺言だったことに、まず留意したほうがイイ。そのこと自体がやがて、釈迦の思想の中心になっていくことは確かだとして。

釈尊は、阿南との説法の旅の途上、自らの死後、自らの教えがさまざまにマチガッテ統一されていくことをみとおしていた。というより、それが釈尊のいわゆる〈危惧〉でもあった。(つまりは、結集というアレなんだけどネ)。「結集」とはいうものの、コノ決起集会がやがて釈尊の教えを分派し、滅劣に統合されることは、釈尊には充分予想のつくことだった。さすがにというべきで、ワカッテいたのだ。然るに、アーナンダに対しては、遺言のカタチで「アーナンダよ、私の死後、如何に私の名のもとに〈法〉が説かれようと、アーナンダよ、自ら自身をこそ、燈明とするのだぞ」と述べたのだ。

釈迦の予見どおり、結集により、小乗各派閥は、おのおのの如是我聞の持ち寄りを仕分けして、これを統べ、釈迦仏陀の法とした。第一回の結集に阿羅漢の身分ではなく特別に参加を許された阿南は、この〈法〉にただひとり首肯しなかった。よって、破門同然の身となった。

阿南(アーナンダ)への遺言として託された釈迦のコトバは、そのまま普遍的に受け取ると「法より自己がタイセツ」というふうに錯誤、誤謬となってしまう危うさを含んでいる。

ここは難しいところだが、よく考えたほうがイイ。この〈法〉は、「権威」「権力」と名を変え、手を変え品を替え(品は、科、としたほうがイイようにおもうけど)、蔓延っていく。

釈尊の思想はあくまで「自燈明」であって「自己」ではナイ。何故なら自己我など、無いのだから(「諸法無我」)。

釈尊の教義は、待(対)機説法だから、イエスの辻説法に似て、矛盾をほじくりだすことは出来なくはないが、本質(土台)となる思想は揺るがない(ブレはナイ)。

再々、確認すべし。

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