〔デン魔大戦編〕7
夢の世界が荒廃すると、現実世界も荒廃するときたが、現実世界ってのはハナッから荒廃しているのではナイのか。つまり〈穢土〉だ。釈迦世尊も含め、およそありとあらゆる思想、宗教は、この世界の穢土を如何に生きるかという作用素を考え、その答をとりあえずは出すということの上に成り立っているといってイイ。しかしながら、どの宗教、思想、哲学、科学ですら、この世界、この世が何故〈穢土〉であるのか、その存在理由については、根拠のあることは述べていない。ともかく〈穢土〉だということは認めているのだが、その理由、そうであるワケはワカラナイ。何故、〈穢土〉でなければならないのか。
プラトンは、理想世界を創るための、神の設計図があるはずだと信じて、アトランティス都市に夢を馳せた。弟子のアリストテレスに至っては、その資材まで探し求めた。
ところで、キリスト教になると、イエスは天国とはどんなところなのか、その概念めいたものを譬え話で語ってはいるが、具体的には如何なる福音書にも天国(heaven、paradise、ハライソ)の様相を示した例はみられない。その世界が仏国領土の浄土の如く記述されたことはナイ。
浄土にしても、軽く銀河系を飛び出してしまう巨大さがあるので、そうなると、曼陀羅にしたって、コペルニクス以前の宇宙図と何ら変わりはナイ。
浄土宗派の親鸞や、その師匠の法然は、穢土の改革はもう諦めてしまって、極楽往生を他力に頼ることで多くの衆生の支持をえることは得たが、その思想が『法華経』を頂く日蓮をして激怒、敵視させたのはアタリマエのことだ。もはや、浄土宗派の思想、考え方は釈尊の教義を逸脱していることは私のような素人がみても明らかで、北一輝や石原莞爾などの革命派が『法華経』を重視した、あるいはその教義に影響されたのは、それが紛うことなく〈革命〉の経典、翻って、大胆にいうならば、釈迦世尊の思想は穢土を浄土に変革させる革命理論だったということになる。仏教とは革命の思想なのだ。
では、もとより穢土で荒廃の世界でしかないこの情況を、いまさらデン魔とやらは、なんでまたさらに荒廃させようというのか。まるで阿修羅と帝釈天の闘いじゃナイか。
そのとき去来したあるideaに、私は「あっ、そうか」という声を発したらしい。私の前を行く連中が振り向いた。
「唯一のhintだ。つまり、この世は穢土だ。何故そう設定されているのかはワカラナイ。どう考えても答は出ない。そうしてこの穢土でひとは死ぬ。要するに、これは出来すぎている。もし、これがhintだとすれば、これ以外にhint、ideaはナイ。と、すると、法然、親鸞たちの鎌倉仏教の浄土志向は、衆生を繰り込むその方法、方便として何処かで何かの変数、定数、係数の誤謬があったのでは、ナイか」
何をいっているのかワカランという複数の視線が私に向かってきた。
たしかにここは私の夢の世界で、現実世界ではナイ。しかし、私が存在する世界という意味においては現実世界と変わりはナイ。この夢の世界を荒廃、つまり穢土にすべくデン魔が在るというmetaphorは、私のココロのspiralだ。
「ここが、海底通路への入り口です」
人魚ねえさんが指さした。なるほど、『入り口』と表記された金属板が貼られている。ワカリヤスイね、夢の世界は。で、この先が武器庫か。いったいどんな武器があるのか。どんな武器で、デン魔とやらと闘おうというのだろう。
とりあえず、進まねば仕方ない。
☆いったん休筆を告知しておきます。次にいつ再開するのか目処はありませんが、その前にやっておきたい(書いておきたい)ことがあるので、とりあえず、〔デン魔大戦編〕を休筆いたします。
なんしろねえ、余命ってのがそんなにアルってふうじゃナイもんだからネ。
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