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2017年10月

2017年10月28日 (土)

法然-親鸞のかんがえ

法然、親鸞などなどのいわゆる「浄土系仏教」は何をどうかんがえたのか、について凡俗の私はこうかんがえた。

まず、それまでの「仏教」、ここでは上座(小乗)仏教の否定。小乗仏教はともかく修行を積んで(これを菩薩行というのだが)如来となり、その後、衆生を救うというシステムを持っている。法然-親鸞は、このシステムを「結集」以降の教示として、それは釈迦のほんとうの考えではナイと、これを退けた。ここは首肯してもよいところだ。現に、釈迦の最後の弟子である阿南(アーナンダ)は「結集」による仏陀の教えの仕分けとまとめ(経典)を否定して破門扱いとなったワケなのだから、「結集」における上座仏教(の教示-経典)は上座派の勝手な「かんがえ」として認めなくてもヨイ、というのはもっともだ。

では、そのような上座仏教(経典)を否定して、前方に釈迦仏陀、後方に衆生の信仰という地平に立って、どのような釈迦-仏陀の教えを拠り所とすればよいのか。

ここで、法然-親鸞は、ずいぶんおもいきった態度、姿勢、方向性を選択するのだが、つまり、〈釈迦仏〉そのものを括弧にくくってしまうのだ。で、代替として〈阿弥陀仏〉という別の仏をひっぱり出す。釈迦は現実に存在した人間だが、阿弥陀如来や大日如来、釈迦の次に如来となるとされている薬師寺如来は、現実に存在したワケではナイ。

けれども、法然-親鸞にとっては、仏というものは、〈ある概念〉であればそれでよかった。

つまり衆生を救済する〈概念〉、もしくは〈価値〉としての存在であれば、それで事足りた。

浄土系仏教派は『般若心経』(つまりは『大般若経』)を認めてはいない。というより、これを認めると、浄土系の教義には矛盾が起こる。具体的にいえば、菩薩行を否定しているのだから、その菩薩(観自在菩薩)が看破した世界の有り様(色即是空 空即是色)は当然否定すべき対象となる。「この世界が〈もの〉ではなく〈こと〉」であるということは、形而上学的には認知出来ても、仏教が本来やらねばならいことは、自身の修行ではなく、衆生の救済「覚有情」に尽きる。「自力」ではなく「他力」なのだ。この辺りまで至ると、仏教というよりキリスト教の思想と類似してくる。

仏教とキリスト教の違いは多々あるが、現存した釈迦とイエスとの違いは明白で、釈迦は修行したが(その前には多くの、当時の最高の学問を教育されている)、イエスはそのまま神の子だから、修行などナニもやってはいない。(おそらく大工の子だからまともに学問もしていないはずだ)。

ちなみに、釈迦は、遊行から苦行へ、それを両方とも否定して、のちに菩提樹と称される樹木(ピッパラ)のもとで瞑想したとされているが、瞑想なら、いっとう最初に「終わっている」釈迦は、出家して最初に、インドでは聖人と称されていた二人の者のところに次々と訪れ、二人のもとで「瞑想」の修行を〈終えて〉いる。終えているというのは、この二人の聖人からそれぞれ後継者の誘いを受けながら、「こんなものはテクニックに過ぎない」と「瞑想」の修行を一蹴しているところから明らかだ。

従って、釈迦が最後に座して行ったのは、〈瞑想〉ではなく〈思考〉だとしたほうが正しい。

彼は「かんがえた」のだ。

何を、か。この〈穢土〉をどう受け入れ、さらにはどうするのか。その答えが、〈悟り〉と称されているものであるのは、いうまでもナイ。だから、釈迦は「悟りを得た」のではなく、「悟りを拓いた」というべきだ。(予め悟りなどというものが、何処かに存在するワケではナイからネ)。

さて、法然-親鸞の仏教(釈迦仏陀)からの逸脱、あるいは仏教の解体は、釈迦が行ったように、この「かんがえる」ところまで遡る。つまり、釈迦と同じように、この穢土からの衆生の救済を如何にせんと、「かんがえた」のだ。

すでに、釈迦仏陀という悟りを拓いた覚者がある。その後継としての上座仏教がある。仏陀を否定せずに、仏教を否定するという矛盾と、法然-親鸞は真っ向から対峙することになる。

そこで「阿弥陀如来」という「仏」の登場ということになる。彼らは上座仏教を否定、解体して、そこから逸脱し、自力から他力へのシステムをつくり上げた。つまり、上座仏教は、法然-親鸞で終わっていることになる。

だが、これは、菩薩行をも否定することになる。菩薩行を基に穢土の革命を描いた『法華経』を真髄とする日蓮が浄土系仏教派を糾弾したのはアタリマエのことだ。

法然-親鸞の浄土系仏教のシステムでは、衆生は死してのち、「往生」することになる。そこで初めて修行があって、「成仏」することになる。現世で修行などしなくとも、一応は、誰でも阿弥陀如来の仏国、「浄土」へと往くことは出来る。けれども、『般若心経』における菩薩の智恵の教えでは、「浄土」も「もの(物質・物体)」ではなく「こと(事象・現象)」にしか過ぎない。この考え方は、浄土系においては受け入れられない。「浄土」は存在するのが前提なのだから。

法然-親鸞は、かくして上座(小乗)仏教を廃した。浄土系仏教の企ては、その辺りに在ったとおもわれる。

かんたんにいうと、この程度が私の「かんがえ」というべきかなあ。

2017年10月21日 (土)

DVD感想『哭声(コクソン)』

(韓国・2016・監督、脚本・ナ・ホンジン)で、私はこの映画の編集者キム・サンミンの編集作品『殺人の追憶』『グエムル-漢江の怪物-』は観ている。その二作と比較する限りでいうのなら、この映画は、あちこちで騒ぎ立てるほどの作品ではナイというのが私の単純な感想だ。

ネット検索すると、数多のファン(監督のファンや映画ファン)が、「謎解き」合戦で火花を散らしていて、そっちのほうがオモシロイという皮肉の一つもいいたくなるのだが、156分(いつものように途中二回休憩して、50分程度ずつ観ました)の長尺にして、それも監督の計算の上といわれると、監督のalgorithmを疑いたくなる。「脚本が拙い」のひとことでイイんじゃナイだろうか。ネット評論家諸氏はこぞって「これが正解だと思う」と、この映画のテーマやら、ストーリー展開について一家言、呈しているのだが、どれもごもっともだとおもう。おもうが、そもそも、映画の正解というのは、監督が「撮りたかったもの」「いいたかったこと」「伝えたかったこと」「試みたかったこと」と、〈監督が〉を主語にした述語にならなければならない。たとえば「私は、鑑賞者、観客をこんがらがらせるものが撮りたかった」なら、それでもイイのだ。しかし、そういう監督の思い(ドクサ)と、映画の出来の善し悪しとは別問題だ。

この作品のように結果が二転三転する映画は過去に数多あるし、観方によって解釈も変わるという作品も同じように存在する。さまざまな観方があるというアレ、「正解は観客のみなさん、おのおのがみつけて下さい」というアレね。しかし、くり返していうけれど、そういう構造と、映画の出来の善し悪しとは無関係だ。

私は冒頭からの映像の見事さと、編集の上手さに感心したが、それはこの監督や編集者の並々ならぬ鍛練の成果だと、ここだけは評価しておく。

しかし、他に評価するに値するものは、私が稚拙なのかも知れないが、まったくナイ。私は映画ファンであるし、劇作家ゆえ、どうしても脚本の書きっぷりを気にしてしまうのだが、その視点からすると、脚本はたしかに拙いのだ。いきなりの「ルカ福音」の一節のハッタリはバクチとしてもオモシロイのだが、そのバクチに映画が勝っていたかどうか、心許ない。なんだ、単なる伏線かヨでは、アカンのとちがうか。國村隼さん演じる〈悪魔・・・なんだろうけど〉に聖痕を「チラ観」させる悪戯なんかは私も好きなほうだが、「あなたが観ているものは信じられるものだろうか」のような、この映画のテーマだか、モチーフだか、そのものが胡散臭い。その胡散臭さは、脚本の稚拙さからきているとしかおもえない。致命的なのは、血がいっぱい出るスリラーなのに、〈恐怖〉がひとつも描けていないことだ。(グロではあったけど、それは監督の趣味でしょ)。三十年ほど前のジャンク・スリラーをみせられているようで、笑うに笑えなかった。

この映画において描かねばならない〈恐怖〉は、翻弄されることなのではナイのか。「何を信じていいのかワカラナイ」という〈恐怖〉ではナイのか。でなきゃ、「日本人は悪魔だという映画ダナ」という観客の感想があっても、製作者は、面々のお計らいと黙っていなければならない。それとも「いや、それを疑うための映画だよ」という良心的なファンの声が聞きたいのかナ。何れにせよ、どのように錯綜を仕掛けても、創り手は本質を握っていなければならない。でないと、バクチすら通用しない、イカサマ賭博になってしまう。

腐してばかりいるのもなんだから、私ならどうするかをゴーマンながら記しておくと、いまひとり、合理の視線(探偵のような、この事件、事態を推理、観測するもの)を持つ登場人物の導入ということになる。もちろん、彼あるいは彼女も正しいのかどうかはワカラナイ。そのことによっての恐怖が生まれる。鈴木光司氏の『リング』はそのような構造で、これまでにナイ〈恐怖〉を描いたのではなかったか。

2017年10月17日 (火)

〔デン魔大戦編〕7

 夢の世界が荒廃すると、現実世界も荒廃するときたが、現実世界ってのはハナッから荒廃しているのではナイのか。つまり〈穢土〉だ。釈迦世尊も含め、およそありとあらゆる思想、宗教は、この世界の穢土を如何に生きるかという作用素を考え、その答をとりあえずは出すということの上に成り立っているといってイイ。しかしながら、どの宗教、思想、哲学、科学ですら、この世界、この世が何故〈穢土〉であるのか、その存在理由については、根拠のあることは述べていない。ともかく〈穢土〉だということは認めているのだが、その理由、そうであるワケはワカラナイ。何故、〈穢土〉でなければならないのか。

 プラトンは、理想世界を創るための、神の設計図があるはずだと信じて、アトランティス都市に夢を馳せた。弟子のアリストテレスに至っては、その資材まで探し求めた。

ところで、キリスト教になると、イエスは天国とはどんなところなのか、その概念めいたものを譬え話で語ってはいるが、具体的には如何なる福音書にも天国(heavenparadise、ハライソ)の様相を示した例はみられない。その世界が仏国領土の浄土の如く記述されたことはナイ。

 浄土にしても、軽く銀河系を飛び出してしまう巨大さがあるので、そうなると、曼陀羅にしたって、コペルニクス以前の宇宙図と何ら変わりはナイ。

 浄土宗派の親鸞や、その師匠の法然は、穢土の改革はもう諦めてしまって、極楽往生を他力に頼ることで多くの衆生の支持をえることは得たが、その思想が『法華経』を頂く日蓮をして激怒、敵視させたのはアタリマエのことだ。もはや、浄土宗派の思想、考え方は釈尊の教義を逸脱していることは私のような素人がみても明らかで、北一輝や石原莞爾などの革命派が『法華経』を重視した、あるいはその教義に影響されたのは、それが紛うことなく〈革命〉の経典、翻って、大胆にいうならば、釈迦世尊の思想は穢土を浄土に変革させる革命理論だったということになる。仏教とは革命の思想なのだ。

 では、もとより穢土で荒廃の世界でしかないこの情況を、いまさらデン魔とやらは、なんでまたさらに荒廃させようというのか。まるで阿修羅と帝釈天の闘いじゃナイか。

 そのとき去来したあるideaに、私は「あっ、そうか」という声を発したらしい。私の前を行く連中が振り向いた。

「唯一のhintだ。つまり、この世は穢土だ。何故そう設定されているのかはワカラナイ。どう考えても答は出ない。そうしてこの穢土でひとは死ぬ。要するに、これは出来すぎている。もし、これがhintだとすれば、これ以外にhintideaはナイ。と、すると、法然、親鸞たちの鎌倉仏教の浄土志向は、衆生を繰り込むその方法、方便として何処かで何かの変数、定数、係数の誤謬があったのでは、ナイか」

 何をいっているのかワカランという複数の視線が私に向かってきた。

 たしかにここは私の夢の世界で、現実世界ではナイ。しかし、私が存在する世界という意味においては現実世界と変わりはナイ。この夢の世界を荒廃、つまり穢土にすべくデン魔が在るというmetaphorは、私のココロのspiralだ。

「ここが、海底通路への入り口です」

 人魚ねえさんが指さした。なるほど、『入り口』と表記された金属板が貼られている。ワカリヤスイね、夢の世界は。で、この先が武器庫か。いったいどんな武器があるのか。どんな武器で、デン魔とやらと闘おうというのだろう。

 とりあえず、進まねば仕方ない。

 

☆いったん休筆を告知しておきます。次にいつ再開するのか目処はありませんが、その前にやっておきたい(書いておきたい)ことがあるので、とりあえず、〔デン魔大戦編〕を休筆いたします。

なんしろねえ、余命ってのがそんなにアルってふうじゃナイもんだからネ。

 

信念、開けましてオメデたく

石原老人が、ツイッターで、前原(どっかの党首だったひと)を貶し、枝野(立憲民主党の親分)を「男だ」と褒め、(こういう場合は、〈男〉は〈漢〉でありますが)、私も、確かに枝野氏はどんでんだとおもいます。とはいえ、石原老人が「枝野は信念を貫いた」というなら、ここに半畳入れたいのです。信念を貫いたのなら、早くも落ち目が伝え聞かれる小池女史も「リベラルはダメ」という信念は貫いております。報道では、それを「踏み絵」とかいう忌み嫌う表現で使っておりますが、これは報道の「卑怯」でしょう。片一方を「男」にして、片一方を「独裁者・差別者」にイメージ誘導するというのは、どうかとおもうのです。(けれども、感情的には、私は小池女史のやり方はキライです。ありゃあ、ポリティカル・ハラスメントといえなくもナイくらいには受け止めています)。

ここで、自民党が漁夫の利であろうが一歩リードしたというのなら、自民党の強みは、議員が多いというところが、つまりは、その中には「タカ派」も「ハト派」も存在しているという多様性をかろうじて保持しており、全体としては右派ではありますが、右派穏健やら、右派リベラルやら、右派中道やらが派閥としてではありますが、存在しているということではナイでしょうか。

こういうと、誤解を招くかも知れませんが、日本のよいところをなにか、いえ、となると、世界で(通常兵器ではですが)二位の軍事力を保持している自衛隊(まあ、軍隊なんですけど)が、一応は文民管制されているということです。ですから、この「文民」が「国権」を濫用することが、最も危険な遊戯となるということです。

以前にも述べましたが、日本国憲法第九条は、

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

というふうになっています。「国権の発動たる」戦争や武力による威嚇、武力の行使、手段を〈放棄〉しております。よろしいですか、「国権の発動たる」です。

で、「そのための」戦力を保持せず、「国」の交戦「権」を認めていないのです。

私は、これで充分だとおもいます。よく、たとえば右傾漫画家(私もファンですが)弘兼憲史さんなどは、どなたもそういう例に用いられるごとく、映画『七人の侍』を例にして、日本は戦いを仕掛けられても、戦えない、というようなマチガッタ認識と表現をされておりますが、九条をどう読んでも、そんなことはありません。日本の軍隊、自衛隊は立派に戦えます。戦えるんですよ。

私は未熟な素人ではありますが、国民として、「国権」に強い権力を持たせるための改憲には反対です。それゆえにリベラルと名指されてもケッコー、コケコッコー。それゆえに、「ごくふつうの、アタリマエのことをしている」枝野氏をいまは〈漢〉と呼んでもイイとおもいます。だって、政治家って、国民のために、ごくふつうのアタリマエのことをしてくれねえんだもの。以上、演説を終わります。

2017年10月12日 (木)

ある魂(spirit)

途端にブリキで衆院選挙が始まったが、こういう頭のネジがグラグラするというか、配線が混ぐらがる選挙もめずらしいのではないか。と、おもっていたのだが、どんでん、だ。どんでんになって、まだ棄てたもんじゃナイんじゃナイかとおもわせるようなことも起こってきた。

まず、小池都知事が水洗トイレの水が吸い込まれるような勢いで、「希望の党」をぶちかます。これはたいてい予想されていたとおりのことだったらしい(私は政治政略の専門家ではナイのでそう書いておく)が、次はドン、民進党の前原若親分が、事実上の解党(参議院には民進党はいるから)のごとく、この「希望の党」に身売りする。そこで反前原派とでも称していいのだろうか、この小池-前原のやり方(リベラルの斬り方)に叛旗を翻して、枝野リベラルが「立憲民主党」をおっ建てた。ここでどんでんが起こる。「立憲民主党」を、おそらく必ずしも支持はしていないが、小池-前原は、安倍と目くそ鼻くそなんじゃないかと、「立憲民主党」にツィート応援と、候補者への個人献金が、突然怒濤の如く始まった。これは昨今の政治世界を敷衍するかのように痛快にみえた。そうなのだ。敷衍、つまり、簡単明瞭、単純明快にいえば、そういうことではないのかという、一般庶民の、ある魂の噴出だ。

これは『忠臣蔵』か『高田の馬場』か、はてまた、『鍵屋の辻』か『次郎長三国志』か。とりあえず、まだまだ日本人、棄てたもんじゃナイね。いまは、いまはだが、このどんでんをそうおもう。感情的、感傷的といわれようと、どんでん。

「自燈明 法燈明」について

釈尊が、遺言(いごん)として、阿南(アーナンダ)にいい遺した「自燈明 法燈明」は、仏教の説く普遍的な教えを述べたのではなく、目前のアーナンダに対する遺言だったことに、まず留意したほうがイイ。そのこと自体がやがて、釈迦の思想の中心になっていくことは確かだとして。

釈尊は、阿南との説法の旅の途上、自らの死後、自らの教えがさまざまにマチガッテ統一されていくことをみとおしていた。というより、それが釈尊のいわゆる〈危惧〉でもあった。(つまりは、結集というアレなんだけどネ)。「結集」とはいうものの、コノ決起集会がやがて釈尊の教えを分派し、滅劣に統合されることは、釈尊には充分予想のつくことだった。さすがにというべきで、ワカッテいたのだ。然るに、アーナンダに対しては、遺言のカタチで「アーナンダよ、私の死後、如何に私の名のもとに〈法〉が説かれようと、アーナンダよ、自ら自身をこそ、燈明とするのだぞ」と述べたのだ。

釈迦の予見どおり、結集により、小乗各派閥は、おのおのの如是我聞の持ち寄りを仕分けして、これを統べ、釈迦仏陀の法とした。第一回の結集に阿羅漢の身分ではなく特別に参加を許された阿南は、この〈法〉にただひとり首肯しなかった。よって、破門同然の身となった。

阿南(アーナンダ)への遺言として託された釈迦のコトバは、そのまま普遍的に受け取ると「法より自己がタイセツ」というふうに錯誤、誤謬となってしまう危うさを含んでいる。

ここは難しいところだが、よく考えたほうがイイ。この〈法〉は、「権威」「権力」と名を変え、手を変え品を替え(品は、科、としたほうがイイようにおもうけど)、蔓延っていく。

釈尊の思想はあくまで「自燈明」であって「自己」ではナイ。何故なら自己我など、無いのだから(「諸法無我」)。

釈尊の教義は、待(対)機説法だから、イエスの辻説法に似て、矛盾をほじくりだすことは出来なくはないが、本質(土台)となる思想は揺るがない(ブレはナイ)。

再々、確認すべし。

2017年10月 9日 (月)

〔デン魔大戦編〕7

「毎朝、おはようごさいます、こんにちは、といいあっていたひとが、突然知らん顔をする。困っているから、会社辞めさせられるかも知れないから、殺されるかも知れないから、カネオクレ、と電話があって、送金すると詐欺で、悪いのはその詐欺に引っ掛かった近親の老母のほうで、公報も警察もマスコミも、/騙されるな、気をつけろ/というようになる。善意はヤメロといわれる。コンビニの女性店員に~きょうはいい天気だね~といったら、~でも、午後からはくずれるそうですよ~とcommunicationしていたのが、~そうですね~の、視線を合わせないやりとりに変わる。風営法にひっかかるのかもしれませんが、常連の客に対して過剰な親しさをみせて接してはイケナイと、manualにあるのだから、仕方アリマセン」

 そんなところで死にたくはナイな。

「しかし、それはもう、現実世界じゃあ、日常でしょ」

「夢は、日常じゃ、アリマセン」

 なるほど。つまり、現実から逃れるべくところが壊滅されるというのか。

「じゃあ、何故、デン魔は夢を荒廃させ、夢の世界の崩壊なんかをするんだ」

「この宇宙、その全体の半分は夢だからです」

 えっ、そうなの。

「夢の世界を壊せば、現実の世界も自然に壊れます」人魚はうなだれた。

 と、突然、土方が焦燥したように、訊ねた。

「だから、そんな世界、宇宙の崩壊を目論んでいる理由、そのデン魔とかいう連中の目的は何なのだヨ」

「それは、」

「それはっ」私、土方、ハルちゃんレイさん。

「ワカッテいません」

 だろうな。そんな気がしたよ。

 しかし、夢まで壊されてしまっちゃ、人生の半分はたしかに壊滅するといっても過言ではナイだろう。

とはいえだ、

 では、この特殊部隊の人魚ねえさんと供にデン魔征伐をやればイイってのか。

「敵、というものを定義するならば」

 土方が思案ありげに腕組みをすると、

「拙者の目的を邪魔するものは、これ即ち、須らく、敵だ」

 拙者、と、きた。いきなり武士にもどっている。

「で、どうやって」ハルちゃんレイさん。

「いったい何と」ハルちゃんレイさん。

「戦えばいいのか、その具体性がよくワカランが」

 と、これは土方。

 ちょいちょい、あんまり、story性を持たさないで欲しいナ。これは私の潜在的な思い。とはいえ、nonsenseに過ぎるのも困る。適度にフザケて、

「気楽に考え過ぎるのもよくないですよ」ハルちゃんレイさん。

「いや、けして気楽というのではナイんだけどね。デン魔との戦いを描くなんて物語はヤだなと、そう思ったんでね」

 これ、私の率直。

 と、人魚ねえさんが跳ねた。というか、歩いたのかな。

「いずれにせよ、この世界は侵略されます。どういうカタチであれ、対応は迫られます」

 道理ですね。正論です。

「刀、棄てなきゃよかったかなあ」

 もちろん、土方の、他人にも聞こえる独り言だ。

「武器庫があります。もし、お嫌でなければ案内します」

 武器庫。そんなものがあるのか、函館に。

「此度の大火でも損傷はナイものと思われます」

 まあ、なんでもアリの函館だから、武器庫くらいはあってもイイか。私の脳は急速に反転した。

「海ん中だな」と、土方が人魚を観た。

「ビンゴ」と、人魚。

「どうやって行く。潜水艇でもあるのか」

「その必要はありません。地下から海底に通じる通路があります」

 

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