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2017年9月25日 (月)

明日という字は

明るい日と書くのね、という歌詞の歌謡曲がありました。そういうふうにいえば、たしかにそうなんですけど、「明るい日」ではなくて、「明けての日」がほんらいの意味だから、ここはまあ、詩的表現であります。

明日が明るいのかそうでナイのか、そうでナイとおもいます。でないと、一日のうちで、ふっとなんだか「明るい時間」が訪れることがあることが説明出来ない。貧者の一灯は、暗いがゆえに凛として明るく照らす。

ゆんべはナビ・ロフトの今年のクリスマス・イベント『悪魔のいるクリスマス』公演の稽古初日。読み合わせしたんですけど(ああ、私、演出します)、なんだか「明るい時間」だったなあ。

これは、三十年ほど前に書かれた作品で、なんつうか、fantasyね。でも、なんだか「いま」を描いているようで、ちょっと気味悪くもなるのでした。

つまり、この作品が書かれた当時のエピステーメーもディスクールも、いまではチガッテきているはずなんですが、・・・難しいカタカナ使うなっておもっているあなた。昨今、おおよそパソコン用語からの引用、あるいはまんまの多用で、私がどれだけ困惑し、いちいちリサーチかけているか、それに比べれば、これは哲学用語で、言語学用語だというチガイしかナイのだぞ・・・なるほど、ちゃんと生き残ってるんだ。しかも、嫌酸素生命体のように深海にひそかにというワケでもなく、ちゃんと浮上して。

だってねえ、話が逸れる(のかどうか)かも知れんけど、中島みゆきさんの初期集大成アルバム『愛していると云ってくれ』の冒頭「元気ですか」、この詩と彼女の「語り」を私たちはこえられていないじゃないか、未だに。あのね、いわれなくてもワカッテおります。相手が悪い。昨日きょう、剣術を始めたものが宮本武蔵に挑むようなものだと、まあ、そういうことをいうかたは多いでしょう。けれども、この「語り」や『時代』の「時代」を聞くとですね、逆にミシェル・フーコーのいうたことのほうがあやしくなってきますな。「こえるってどういうことっ」と、じゃっかんhystericな声も聞こえる。「こえる」は「肥える」じゃねえぞ。いってみれば「相対化する」「普遍化する」なんだけど、なんだかワカランならば、「ちゃんと向かい合う」でイイ。「対峙する」だ。「ぶつかり稽古」だ。

とはいえ、多重な構造として考えるならば、私たちの演劇のエピステーメーは次の断層に移行して、いってみれば終わっていて、「そんな時代もあったねと」になっているのは確かなんだけど、もともと演劇たるやAsylなんだから、積層を貫通しているものなのだ。でないと、表現が残っていくことについての説明がつかない。

我がAsylは、空間を占領されても、時間まではまだまだ凌駕されてはいない。この時間、その場所がAsylに変容する。と、いうことを、しみじみ(というふうでもナイけれど、他にたとえようがナイので)味わった稽古初日でありました。

「なんだか、楽しい稽古だね」

と、のたまった演者あって、そうよ演劇って楽しかったのよ。演っても観てても、だ。趣味の演劇は、烏合と「あったよね」の痕跡を残すだけだ。宮沢賢治ふうにいうならば「ほんとうの」演劇は、そのひとに中島みゆきさん歌うところの「永久欠番」をもたらす。

どうさ、明るかったか。

 

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