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2017年5月

2017年5月22日 (月)

スクリューボール

だんだん少なくなっていく生きる楽しみを増やしていただいて、感謝しております/

という、観劇(『シス・カンパニー『黒塚家の娘』初日)の感想を、親しい知人から頂戴して、ふと、プレストン・スタージェス監督の、いわゆるスクリューボール・コメディの一作を思い出した。スクリューボール・コメディについても、誤解があり、ある解説などでは「頭のヘンな人々が登場する喜劇」などと大マジメに書かれているし、それをそのまんま解説している映画評論家もあるのだが、ほんとうは、「急転直下」「drastic」なストーリー展開する映画なのだ。スタージェスはハリウッドでは、天才、革命児として業界人の評価は高く、その影響も多大なものがあるのだが、日本ではあまり知られていない。ウィキペディアでも、作品について書かれているのは、ほんの数本だ。

私が観たものも、ずいぶんむかしで、DVDではなく、まだテープだった頃だったが、タイトルを逸してしまっているものの、内容は、簡単に書くと、エンタメばかり創っている映画監督が、芸術系の文学系の映画監督たちの作品に対してcomplexを持ってしまう。で、ひょんなことからその自棄が原因で事件を犯して、留置所送りになる。前科者になっちまう。もう、どん底だ。ところが、ここからがスクリューボールで(もともとは、大リーグの投手が発案した変化球で、まるでスクリューのように急激に変化する球)、囚人慰安に映画鑑賞があって、なんとまあ、それが、自身の監督した映画なのだ。娯楽のナイ囚人たちは、大喜びの大笑い、すんごく楽しむのよね。そこで主人公の犯罪者にまで落ち込んだ監督は、その情景を観て、自身の映画が、こんなに影響力を、こんなに力を、こんなに役に立っていることを認識し、自信を取り戻す。そういうの。

あのね、私はあと一ヶ月半ばかりすると、六十五歳で高齢者の仲間入りするの。誰でもそんなもんなのだろうけど、こういう経験は人生に一度しかナイから、まあ、私も自身の人生みたいなものを振り返り、難しくいうと内観してみて、「オレのやってきたことは徒労に過ぎなかったのではナイだろうか」という、根拠のナイ不安、強迫観念を持ってしまうのだ。だって世の中、なんにも良くなってネエもんなあ。役立たずだったなあオレ、と、まるで、世間のことがことごとく私の責任でもあるかのようなドクサ(思い込み)の波にのまれるの。

これが続くと、鬱疾患なんかになっちまう。そういうときに、エンタメ重視で書いている芝居の感想を前述したようなふうに頂くと、ほっとしますよ。そうよ、娯楽。娯楽になってるんだなあ。息抜き以上の、楽しみになってるんだなあ、と。

/本日、「黒塚家の娘」拝見しました。か、感涙でした。。。ありがとうございます。/

これは、私の弟子の感想。これにも感謝だなあ。とはいえ、殆どは、寺十演出と役者さんの手柄なんだけどね。「人情喜劇にしちゃったわよ。あのままのホンだと、観客、寝ちゃうからね」という、shyproducerのおコトバにも、苦笑しつつ、感謝しましたけど。

 

2017年5月17日 (水)

必殺 セロトニン

 

セロトニン症候群(症候群というより、ほんとうは〈薬害〉なのだが)からの離脱のための断薬に十ヶ月、そうして離脱症状に移行してから半年余りが過ぎてなお、セロトニンの自然分泌不完全のために、自律神経は正常に働かず、低体温と早朝性頻脈が続いていて、具体的に身体のふらつきは激しく、体温は概ね、終日35°〇分で、それでも最近は36°〇分に体温が上昇する日が現れるようになったので、一進一退というあたりなのだが、まだ部屋の中では、シャツを三枚の上にcardiganを羽織らねばならない。若いひとは、もうTシャツで外を闊歩しているこの季節、未だに寒さを感じるのだ。

セロトニンが「多幸物質」といわれ、これが不足すると鬱疾患を招くことは知られてはいるのだが、だから、抗鬱剤の基本にこのセロトニン誘発作用が組み込まれているのだが、そのセロトニンの薬害によっての状態に対して、ネット記事などでは「セロトニンをやめれば治る」程度のことしか記述がなく、またセロトニンを増やす方法として「朝、の日光にあたるための散歩」などという呑気なことが書かれてあったりする。実際、セロトニン症候群のものにとって、朝の散歩など、不眠症のものに眠れば治ると述べているのと同義で、出来るワケがナイのが実情だ。

低体温によって、身体は半覚半睡の状態にあり、つまり眠くもナイのに半分は寝ているワケだ。平熱より1°近く下がると身体は動きを止め、思考も鈍感になる。ここで、まるで意識が遠のくような錯覚におそわれる。とはいえ、意識が遠のいているようだという〈意識〉は鮮明なので、これは脳がやはり眠っている状態ゆえの現象といえる。

こうなると、仕事をするどころの話ではなく、ただ、じっとして、そういう心身の状態がthroughするのを待つしかナイ。思考も減衰するので、DVDを観るなどというお気楽なこともヤッテられなくなる。私の平常体温(平熱)は36,4°だから、それに近いところまで体温がいってくれると、なんとか生命体としては機能するのだが、また、それが出る時間もあったりはするのだが、そいつをkeep出来るほど甘くはナイ。10分であっというまに35,7°まで下がったり、また、なんとか、36,2°あたりまでもどったり、このあたりがおそろしく不安定なのだ。

低体温はカラダを冷やすワケだから、消化器官にも冷えがきて、食欲の減衰と、下痢が始まる。ろくなことはねえな。

ぬるい風呂に入るとイイ、とはいえ、風呂に入るということは、疲労につながるので、殆どが腰湯で、ゆったりと風呂に入ろうものなら、すぐに湯あたりのようにバテてしまう。この一年ほど、ゆったりと風呂に入れたらイイなと思ったことはナイ。

これで人生を終えるのは、あまりにもバカバカしいという憤りだけが、生きている意地(維持)のような昨今だ。

2017年5月 3日 (水)

なんとワカリヤスイ

 

閉塞感がどうの、格差がどうの、やれブラックだダークだと、いろいろ世相はいわれているのでげすが、過去の〈歴史〉というものを振り返ってみると、裏があろうが、隠蔽された部分があろうが、影の部分があろうが、暗躍だろうと秘匿だろうと、よーするに、表に出てきているモノに関しては、たいへんにワカリヤスイものばかりで、ご多分に漏れず、これも過去のものになってみればそういわれるだろうという一例が、憲法改定。この改憲が2020年になったそうで、阿他者(あたしゃ)評論家でもjournalistでもナイんだけど、以前このブログで、たしか、そうなるだろうと予想して、書いたんだ。でもね、ナントカ学園の紛争(と、あえて書くんだけど)やら天皇陛下の生前退位問題なんかがあって、もちっと遅れるかなと思ってたら、やっぱり、2020年にヤルんだねえ。

けっきょく東京オリンピックは、まるっと政治利用というワケで、庶民大衆は、なんや、わしらが浮かれているうちに、日本国の憲法、変わっとるやんけ、と、金メダルの数を新聞(最近は新聞読んでるひとも、あまりいませんが)でみながら、日本ガンバレというてる魔に、まさに〈魔〉だなあ。この国が立憲主義から法治国家へとシフトしていくのがワカリヤスクなってきたというワケですねんなあ。

(いまでは報道も、政治家も、関係評論家も、~日本は「法治国家」だから~という、いいまわしをなさいますが、これはオカシイやないかと、それもこのブログではさんざん書いてきたことでおます。日本国憲法は国民の「権利」について定められているワケで、義務については三つしかありまへん。従って阿他者、この国は立憲民主主義国家と呼称するのがワリと正確なんじゃナイかと思うてます。「法治」というのは、法が権利を治めるワケですが、それは帝国憲法までで、現行の日本国憲法においても、固有はさまざまな法に律されていることも事実ですが・・・つまり、~をしたらアカン~というのは多々あります・・・しかしながら、その「律」の判断を不服と思うなら、造反、訴訟出来る権利が認められています。だからこそ、改憲も現行憲法で認められてはいるワケで・・・しかし、「法治国家」はネエ、司法的な用語ではなく副詞的な使い回しに過ぎない、と思うんですがネエ)

アメリカ合衆国も合衆国憲法で、立憲主義を宣言してますから(第6条)、その国家的な定義をいえば、「立憲連邦共和国」になるワケで、けして法治国家ではナイ。だからこそ、合州国ではなくて合衆国というふうに邦訳されているのは正しいと思いますヨ。つまり、ここでも「法治国家」といういい方はあくまで副詞的なのですナ。合衆国憲法修正第二条には「人民の武装権」というのがあって、これが銃規制をややこしくしてはいるものの、何のために武装してもイイのかというと、政府の不当な法治に対してなのですから。(始まりは原住民の襲撃に備えるためとかいわれてますが)

日本国憲法施行七十年のめでたき日に、改憲による「法治国家」があくまで副詞的な言辞であることを望むところでおます。(そうはイカのキンタマでしょうけども)

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