命をかけてくつがえす
映画『超高速参勤交代リターンズ』は、「よく出来ている」といより、「よく創っている」といったほうがたぶんアタッテいる。映画好き(マニアではナイ)で時代劇好き(オタクではナイ)が集まって軍議をもち、「映画、創るだ」という決意をもって、「くつがえすだっ」と衆にして集にあらずの映画(時代劇)を創った。前作がそうだったが、今作も、more wonderful な出来映えで、私などは(DVDなんですけど)、観終わった余韻にひたって、しばらくは心身脱落(しんじんだつらく)していたワ。
前作の感想に書いたが、ふざけっぷりの潔さもさることながら、殺陣がイイ。殺陣がイイというのは「正しい」(あくまで時代劇として、とひとこと入れてもイイが)ということだ。
たとえば、敵の使い手(柳生新陰流の達人)が、鞘を払う所作。鞘を左手で握り、二寸ばかり腰から前に出して抜刀しやすくする。ここで、左のほうにやや斜めに鞘ごと傾げる。鍔に親指を、と、これはふつうに時代劇ならみられるところなんだけど、ここで、親指の位置を鍔の中央にかけるのではなく、少し右に外れたところにかけて鯉口を切る。この殺陣の所作をキチンとやってるとこなんざ、いやあ、ため息出ますな。
他にも気に入ったとこ、いっちゃうと、まず、主要登場人物には、かならずその役どころでの見せ場を用意してある。深田恭子の化けッぷりの艶やかさ(この女優、よくぞまあ、中途半端なアイドルから、女優に変身したナァ)。そうして佐々蔵(佐々木蔵之助ですけど)、つまり主役のお殿さん、南部藩々主のせりふの妙。「世の中で、たいせつなことは、誰と出逢うかだ」のキメなんかは、グッときますね。
青森、岩手にまたがる南部藩は、事実でいうと、東北の最北にあって、一万五千石とはいえ、その三分の一も米の収穫が難しい貧困の藩だった。このさいだからいうとくけど、江戸時代の各藩の石高は、それだけ米の収穫が保証されているというのではなく、徳川将軍家(お上ですな)が定めた「そんだけは収穫しなさい」という布令であって、その布令による石高から算出して、幕府にどんだけ年貢を納めるかを決める。だから、親藩、譜代などの石高は実際より少なめにしてある。外様なんかは、逆に多くしてある。加賀百万石というのは、metaphorであって、ほんとうに百万石も米の収穫があったワケではナイ。さらに、一口に藩といっても、その境界はかなりあいまいで、大名も「大」とつくような族は、さほど多くはなく、現在の市町村程度の藩も少なくなかった。これらは、小大名などという妙な呼び方をされたりしている。しかし、この頃の賃金は米だ。コメダといってもコーヒーではナイ。とはいえ物々交換ではナイので、「札差」という商人が登場してくる。この札差に貧困大名は銭の前借りをするなんてことがある。従って凶作になれば、借金はかさむ一方ということになる。
さて、本論にもどって、そういう点からみれば、『超高速参勤交代リターンズ』は、まるで理想郷のお伽話ということになる。虚構はそれでもイイのだ。このお伽話映画には、かの正統の巨人、ギルバート・K・チェスタートンのいったように「お伽話には必ず教訓がひそんでいる」というコトバがピッタリだろう。チェスタートン曰く、その教訓とは「小さなものが巨悪を倒す」というのが一つでんな。
オワリに一言、この映画を「ベタだ」という御仁とは、金輪際、決別する。私にとってはbetterだから。(創作を批評するのに「ベタだ」という紋切り文句を用いる批評者とも決裂する)。
この映画は、「ベタだ」という紋切り文句を完璧に〈くつがえしている〉。