枯れても花の咲かんとぞおもふ
考えに考え、いわゆる思索に明け暮れてもみたが、けっきょくワカランものはワカラン。
突然、忽然、アッ、てなぐあいにワカルとき、コト、があるのかも知れないが、それならそれで、とくにどうでもイイや。
いわゆる〈道〉などというものはナイ。武道、芸道、とかく〈道〉などというものを付けて、それを「極めん」とスルのが人の道とやらいうが、「極麺」とかいうインスタントラーメンと大差はナイ。生きるしか仕様がナイから生きているまでで、それでは虚無だろうてんで、キリスト教は「天国」を創造したし、仏教は「悟り」を設定した。かたや信仰で、かたや修行で、それ自体が方法ではなく目的になる。そうするしか他、無かったろうと諦念するしか、こちとらにすべはナイのだ。「あの世」のことなど考えても所詮は答えは出ないと釈尊は弟子に諭したが、そこで、弟子は、では「この世」とは何です、という質し方ではなく、なぜ、現に在るこの世は穢土なのかと問うてみればよかったのだ。そうしたら、それを克己するために修行あり、としか釈尊も応えようがなかったろう。修行というものこそ、「方便」なのだから。(「浄土」というのは、鎌倉仏教からこっち広まった他力本願で、そらまあ、穢土があるなら浄土もあると説くのは、簡単なことだとは思うが、釈迦牟尼ではなく、阿弥陀如来、大日如来と、仏の数が増えていくというのが、何だか家元制度のようで、あまりオモシロクナイ。ついでながら、浄土宗、真宗では『般若心経』は唱えない。絶対他力の宗派にとっては、般若心経は自力の経典になる。このあたりで、わたくしとは解釈に隔たりがある。菩薩が出てきたからって、そう排他的になることはナイと思うけど)。
オモロウて、やがて哀しき舞台かな、なんてのを生きてきたので、まあ、それで終わるしかナイわなあと、なんだかワカランのに生まれて、なんだかワカランのに死んでいく身の上は、誰しも同じ。
昨今、「ヤサグレ」というのを、なんだか語感からヤクザっぽくグレているというふうに解している連中がいるが、ヤサグレるというのは「宿無し」のことで、今晩、寝るところすらナイという、路頭に迷った姿なのだ。そんなにカッコつけていうものではナイ。
路頭に迷わぬようにするには、わたくしのヨウに荒野をリヤカー引っ張って歩くしかナイのだ。あっちはどっちやワカランし、どこへいってもどこでもナイのが、わたくしの全情況なのだから。そうなのだ。荒野を彷徨うのではなく、地球のほうから廻ってくるのにまかせて、ただ、ただ、ゆくだけでイイのだ。ちゃんとワカッテるじゃナイか。
しかしまあ、半壊した心身で、明日の飯の献立なんぞを考えるときに、どうしてちっとばかし、悦びがあるのだろうか。/食うことの思案ができるありがたさ/というものかな。この冬を越した豆苗が半分以上枯れながら、それでも花を咲かせた。こいつは、オレより偉いナ。何にも考えず、何も思わずに、ただ、無心、ココロなど無いのに、活きることをやめようとしない〈自然〉は、我が小さな居庵にあっても、やはりスゴイのだ。
それをスゴイと感じる、わたくしの心情と身上だけを、わたくしはいまのところ信頼していて、あながちマチガイはナイだろう。
それにしても、先に逝ったものたちよ、きみたちはいま何処に在る。逢いたいな、逢えるよな。この身の辱を雪ぐでもなく、積もり積もった穢れのままに、そのときを、ただ、待っている。
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