往くも還るも ワカレテハ
二十一年に及ぶ(及ぶのかどうか、それは思うヒト次第だろうけど)伊丹の戯曲塾(『想流私塾』)に一応の区切りをつけて、後進に任せるカタチとなった。
つい先日、その最後の卒業公演を(監修)観て、最終講義のとき、influenzaで出席出来なかった飲み会(打ち上げですな)に参加はしたが、セロトニン症候群(ほんとは薬害)の断薬後の離脱症状の最後の抵抗(で、あってくれればいいのだが)、低体温状態がここ二ヶ月は続いていて、それでも、平常体温にもどる日も多くなり、とはいえ、mentalな現場に入ると、セロトニンの自然分泌がままならない低体温状態が生じ、その日も平常体温から五分ばかり下回った、乗り物酔いでもしているような体調だったが、体調不良なんぞは、ここ数年、いやいや、鬱疾患になってから慣れっこになっているので、私の直接の最後の塾生たちに、一席ぶって、席を濁して、しかし、二時間持たせることは難しく、100分ばかりで限界を感じての退席となった。
そのアト、hotelにもどってから、跡継ぎの師範に電話で、感想を少し述べておいた。ホンと演出についてはたいていのことは、宴席で語ったが、妙に印象に残る女優が二人いて、これは両極端な演技を用いるのだが、というのも、ひとりはその天性の素材の良さが産んだものだろうし、いまひとりは、かなり舞台慣れしていて、容貌やstyleも、いま流行りの団体さん少女歌手の中にいそうな雰囲気で、どちらも三十才手前といったところだと思うが、いまが〔花〕だということはマチガイなく、それぞれ、その〔花〕はタイセツに自らが育てていかねば、摘み採られたり、あるいはアト五年もたてば、ただの「おばはん」になるのではないかという危惧も持った。
かつて、唐十郎老師は、「世の中でイチバンおそろしいのは、〈少女フレンド〉を小脇にして歩いている老女だ」(ちっと脚色、入ってます)と、のたまいたるが、この〔特権的肉体〕もひさしく舞台に姿を現すことはなくなった。
注)〈少女フレンド〉とは、かつての少女マンガ雑誌。〔特権的肉体〕とは、唐老師独特の「風姿花伝」論。
偶然だが、つい先だって『あやしい彼女』(2014年公開の韓国映画『怪しい彼女』を、『舞妓 Haaaan!!!』『謝罪の王様』などの水田伸生監督がリメイクしたコメディー。73歳の頑固な女性がひょんなことから20歳の姿に戻り、失われた青春を取り戻していく姿を描く。ヒロインの20歳時を多部未華子が、73歳時を倍賞美津子が演じる。多部による1960年代から1970年代のヒット曲の熱唱あり。日本公開は2016年・・・ネットから一部編集コピぺ)をDVDで観たが、illusionを超えて、fantasyとして成立しているこの二時間の映画には泣いてしまった。(多部未華子ファンだから・・・comedienneとしての彼女が好きでしてレンタルしただけなんだけど)。この映画で〈泣く〉ということは、そうか、とことんオレも老いてきたなと認めざるを得ないのが悔しいが、昨今、持病のアドレッセンス症候群で、夢想のうちに、若い娘に懸想しかけて失敗するてなことが多々あるので、いや、アブねえアブねえとは思いつつも、近頃は若者より少々黄昏た御仁がもてる傾向ありと風聞を耳にして、身体さへなんとか具合良くなってくれば、いくらでも恋をしにいくぜ、と、嘯いたりしている。
さてと、本論を少し書いておく。
二十一年もやってきたので、「たいへんだったねえ」とか「おつかれさまでした」とか、「よくやったねえ」とか、よ~するに、私が何か感慨深げになっているだろうという慰めと労いの交じったコトバを多く頂戴したのだが、それが、私の資質なのか、何かの疾患なのか、残念ながら「感慨」など何もナイというのがほんとうのところなのだ。まったく、二十一年の「感慨」など無い。在るという感触ならば、この二十一年のあいだに、多くの同志を得たという、さて、いよいよまた闘えるぞ、という、奇妙な昂奮に似たワクワク感だ。
ここまで、世界(国際情勢)がcomic(マンガというよりポンチ絵だな)になってくるとは誰が想像したろうか。
いやあ、世界は荒野だ、我がリヤカーはどこまでも、ゆくのだ。Hamletを従者にDon
Quijoteが、ゆくのだ。そういうオモロイ演劇のハジマリだ。
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