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2017年3月

2017年3月31日 (金)

エイプリル・リル

 

テレビを買い換えた(半年しか経っていないので、3,000円で前のは売れた)。32inchから39inchに画面をアップして、サンスイ製品(中国製だけれども)の和紙スピーカー。わたくしももうすぐ高齢者と称されますんでね。眼や耳にいいものにしなきゃね。

枕を買い換えた。ウレタン系はやめて、中綿で、眼の疲れに肩凝り(肩痛)首の痛みが影響しているとするならば、32個の磁石まで入っていて、ともかく面積の広いものにした。ゆんべの寝心地は良かった。

コルネットを買った。演奏出来るまで活きようと思った。

生き残ることと、いつ死んでもイイという覚悟とは、同じナンダヨ。

最近は韓国映画を多く観ている。昨日は『見えない目撃者』。いやあ、驚いた。プロットにオードリー・ヘプバーンの『暗くなるまで待って』をまんま使っている。これはマネとかパクリとかというものではなく、ハングク映画界の「勉強ぶり」でしょう。

斬新なところも多々あったが、まだまだツギハギというところがナイでもナイ。けれども、こういう真似の努力がEnergieとなり、powerとなる。

/四月の風の青空のなんだかわからん新しさ/

2017年3月29日 (水)

命をかけてくつがえす

 

映画『超高速参勤交代リターンズ』は、「よく出来ている」といより、「よく創っている」といったほうがたぶんアタッテいる。映画好き(マニアではナイ)で時代劇好き(オタクではナイ)が集まって軍議をもち、「映画、創るだ」という決意をもって、「くつがえすだっ」と衆にして集にあらずの映画(時代劇)を創った。前作がそうだったが、今作も、more wonderful な出来映えで、私などは(DVDなんですけど)、観終わった余韻にひたって、しばらくは心身脱落(しんじんだつらく)していたワ。

前作の感想に書いたが、ふざけっぷりの潔さもさることながら、殺陣がイイ。殺陣がイイというのは「正しい」(あくまで時代劇として、とひとこと入れてもイイが)ということだ。

たとえば、敵の使い手(柳生新陰流の達人)が、鞘を払う所作。鞘を左手で握り、二寸ばかり腰から前に出して抜刀しやすくする。ここで、左のほうにやや斜めに鞘ごと傾げる。鍔に親指を、と、これはふつうに時代劇ならみられるところなんだけど、ここで、親指の位置を鍔の中央にかけるのではなく、少し右に外れたところにかけて鯉口を切る。この殺陣の所作をキチンとやってるとこなんざ、いやあ、ため息出ますな。

他にも気に入ったとこ、いっちゃうと、まず、主要登場人物には、かならずその役どころでの見せ場を用意してある。深田恭子の化けッぷりの艶やかさ(この女優、よくぞまあ、中途半端なアイドルから、女優に変身したナァ)。そうして佐々蔵(佐々木蔵之助ですけど)、つまり主役のお殿さん、南部藩々主のせりふの妙。「世の中で、たいせつなことは、誰と出逢うかだ」のキメなんかは、グッときますね。

青森、岩手にまたがる南部藩は、事実でいうと、東北の最北にあって、一万五千石とはいえ、その三分の一も米の収穫が難しい貧困の藩だった。このさいだからいうとくけど、江戸時代の各藩の石高は、それだけ米の収穫が保証されているというのではなく、徳川将軍家(お上ですな)が定めた「そんだけは収穫しなさい」という布令であって、その布令による石高から算出して、幕府にどんだけ年貢を納めるかを決める。だから、親藩、譜代などの石高は実際より少なめにしてある。外様なんかは、逆に多くしてある。加賀百万石というのは、metaphorであって、ほんとうに百万石も米の収穫があったワケではナイ。さらに、一口に藩といっても、その境界はかなりあいまいで、大名も「大」とつくような族は、さほど多くはなく、現在の市町村程度の藩も少なくなかった。これらは、小大名などという妙な呼び方をされたりしている。しかし、この頃の賃金は米だ。コメダといってもコーヒーではナイ。とはいえ物々交換ではナイので、「札差」という商人が登場してくる。この札差に貧困大名は銭の前借りをするなんてことがある。従って凶作になれば、借金はかさむ一方ということになる。

さて、本論にもどって、そういう点からみれば、『超高速参勤交代リターンズ』は、まるで理想郷のお伽話ということになる。虚構はそれでもイイのだ。このお伽話映画には、かの正統の巨人、ギルバート・K・チェスタートンのいったように「お伽話には必ず教訓がひそんでいる」というコトバがピッタリだろう。チェスタートン曰く、その教訓とは「小さなものが巨悪を倒す」というのが一つでんな。

オワリに一言、この映画を「ベタだ」という御仁とは、金輪際、決別する。私にとってはbetterだから。(創作を批評するのに「ベタだ」という紋切り文句を用いる批評者とも決裂する)

この映画は、「ベタだ」という紋切り文句を完璧に〈くつがえしている〉。

2017年3月27日 (月)

うた(某有名故人作詞家のマネです)

 

日暮れ道

 

むかしのことを 歌にすれば

あいつが 笑ってる

オレもつられて 笑っている

そんなむかしの 歌になる

 

いまから五十年 前

あいつもオレも笑ってた

そんな時代に 遊んでた

日が暮れるまで

 

いま

口にすれば ことばはみんな愚痴になる

あいつと もいちど 笑いたいけど

あいつ どこ いった

 

ゆうべ 夢みた あいつのことを

あいつは やっぱり 笑ってた

あれから あれから 

オレも あいつも 五十年

あいつ どこで どうしている

 

ふえかえれば やけに さみしい

日暮れ道だけ みえる

2017年3月25日 (土)

修行無常

 

OMS戯曲賞vol.23 感想。

大賞、佳作、選評、選考経過掲載の、いつもの本が送られてきた。

そこで、胆(ハラ)に残ったコトバだけを、失礼ながら無断ながら、転載させて頂く。

乞容赦。

 

/演劇はほんらい、人間の身体という唯一無二の存在、そして決して「これ」という形では差し出せないけれども、ひとりひとりの中に確実に、かつ豊かに存在しているそれぞれ固有の精神世界というふたつの具体性に依拠した表現です。

演劇こそが、他者を、自分とは別のもうひとつの身体と精神世界をはらむ存在として、入れ子構造の物語の中にではなく、現実世界の中にもっとも深く追い求めることが出来る作業であるということを忘れてはいけないと思います。

内部の「わたし」ではなく外部の「わたし」への想像力を凝らすこと、もって自戒の弁とします/(選評より)

大賞作品『悪い癖』(福谷圭祐)の作品について

/確信犯として×を付けた。三重構造で外部がないことを徹底してやっていて完成度は高い。徹頭徹尾自己言及的で、頭のいい人。世代の越境をやらなきゃいけない。挑発したほうがいいと思い、安易に理解を示さず、一番よくできている戯曲だが、あえて×にした。外部がないのはダメと言い続けないと。愛想よく相手に近づくが本気で対話せず、関心が自分達に剥いている風潮に呑み込まれてしまう/(選考経過より)

/芝居を始めて50年になりますが、若い人の芝居を理解するふりはやめよう、今年からいやな頑固爺になる役割を担います/(同)

 

すべて、佐藤信さんのコトバだ。キチンと自らの仕事の〈足下・足元〉を観据えた発言だと、感じた。(足下と足元のチガイは、単純には身体下の面積の範囲をあらわすが、この空間性は「精神世界」・・・私は〈心的精神世界〉というふうに用いますが・・・において時間的、情況的に拡張される)

信さんの戦闘宣言と、作品として佳作の『また夜が来る』(橋本健司)だけは、収穫だった。

 

2017年3月24日 (金)

最後の一匙

 

『四十九日のレシピ』(映画版・2014・永作博美主演)は、囲碁に例えるなら、ヨセ終盤までのリードを、たった一石で逆転され、コミ分が出せずに負けた、と、いうような印象の映画だった。囲碁ではそういうことがよく起こる。要するに「蟻の一穴、千丈の堤を破る」だ。原作にもあるのだろうけど、良平(石橋蓮司)の姉、珠子(淡路恵子)は、ホンの段階で落とせばよかったと思う。このキャラクターのinputoutputが仇になった。ほんとうに終盤アト10分までは、これも囲碁コトバでいう「勝ちました」だったんだけどなあ。

レンタルを観たアト、購入するかどうか、悩みに悩んだけど、けっきょく買った理由は、カメラアングルと、ワンカット、ワンカットの映像が、静止画としても美しいと感じたからだ。また、そのsceneにおける俳優の演技も実にイイのだ。ただ、主要なmotifとなっている、川の存在が、伸び悩んだまま一気に萎縮して、それまでのsequenceも凡庸なものに感じられてしまうという、ほんとうに惜しい映画だった。「四十九日のレシピ」はレシピの最後の一匙の匙加減を間違えたといってイイ。

ヒロインの永作博美は、この女優がキライ、イヤダというひとはいない、などと評価されているだけの、永遠の少女(童顔ということなんですけど)だが、演技の実力も、これまた誰しも認めるところだし、石橋蓮司の衰えを知らぬ名演技は、充分に納得がいくものだし、なんつうても、よくぞ、あの二階堂ふみという、熱演専門のアバズレをここまで、ゆるく演技させたという監督の演出はおみごとだった。ただ、珠子の淡路恵子に対する配慮と遠慮が、この映画の堤を崩してしまった。そやから、ホンの段階でなあ・・・、あのね、やっぱり、ホンは重要です。それを痛感しましたワ。

そういったプラスとマイナスからいろいろ勉強になりました。そんで、DVD買いました。

2017年3月23日 (木)

遅き夢みし

 

試写会や映画館で映画を観られないものだから(目がイケナイので)、前者からすると、みたい作品を観るのにほぼ1年、後者でなら1年半かかる。つまり、DVDの新作か、旧作で観ているので、「遅ればせながら」になるワケで、旧作の場合は2年以上前のものを観ることもしばしばなのだが、これはこれで、ほうほう、あの頃(もう2~3年前は〈あの頃〉なのだ)はこんなふうな傾向の映画が流行っていたんだなあ、と思い起こせよ梅の花。だから、旧作の邦画を観ると、途中でヤメルことが多い。ああ、そうね、なんとなくドキュメントふうで、ほんで、なんとなく長回しで、そいで、演技してません自然ふうです、で、と、思えば、芸人監督の映画でテンポが悪かったりで、このシーンは長いよ、ここはもう2カットは挟んだほうがイイと思うけど、てなふうで、それなりに勉強になりますが。園子温監督なんかは、何だか人気なんだそうだけど、ふざけ方の下品さと、ハッタリと、過去の遺産(すでにそういうことは、かつての名監督がやっている)の下手な模倣には辟易して、何本か観たけど、もうヤ~メタにした。この監督、たぶんロマン・ポルノで学習したんじゃナイかな。

で、いまツタヤは旧作50円なので、数本いっぺんにレンタルしては、観てるけど、30分でgive upが多いな。作品が悪いとかじゃなくてね、こんな映画はオレには何の価値もナイわ、と思ったらヤメルの。なんしろ、目が悪いもんで、一日に使える時間が貴重なのよ。

さて、最近観た旧作、『凶悪』。これは凶悪というよりは、「正義の醜悪」を描いている作品だけど、監督や脚本のそれなりの力量は認めます。とても素人に出来るワザではナイ。冒頭に「事実に基づいたフィクションである」と出るんだけど、虚構というのはふつう、そういうものなんだから、こういうphraseは、断りではなく、いいわけ、に属するとわたくしはおもいます。多少マズイところがあっても「事実」なもんですから、とcoverしているようなもんだから。で、時系列のmatrixはすごくイイと思いますよ。けれど、どうしても「作り物」なんだよなあ。そりゃあ、fictionは作り物なんでしょうけど、映画は作り物なんでしょうけど、創ったほうが「上手く創った」とコーフンしているさまが伝わってくるようじゃ、観ているほうは肩がコリます。池脇千鶴さんは、田中祐子さんと並んで、このひとが出演しているのなら観ておこう、と、ついつい引っ張られる馴染みのお店みたいな女優さんですから、この程度の演技はアタリマエなんですけど、アタリマエのことなら、べつに池脇さんでなくっても、ねえ。もったいないなあ、と、思わせたら、もう創り手の負けなんだぞっ。もの食うシーン、単純に食事のシーンが数回ありますが、それをみてああ「作り物」だあ、と思いました。この監督は、自分で飯つくって食ったことはナイだろう。小津安二郎監督の映画は、食ってるシーンも多々あるけど、箸をつけてなくても、その料理の味がワカルというオズの魔法がありますから。えーと、テーマは、ジャーナリストの苦悩ですか、ふつうのサラリーマンだって、派遣社員だって、近頃ではアルバイターだって苦悩、苦労、苦吟、苦、苦、苦、苦、苦です。嘘ついても謝ったらOKは、政治の世界だけ。嘘つかないと生きていけない、嘘をうまくつけば生きていける、こんな世間だから、春になっても、いつまでも風が冷たいんだよなあ。韓国映画(ドラマではナイ)に、最近、秀作、佳作が多いのは、韓国の実社会(世間、世相)が暗澹としているから、せめて映画の中だけでもって、そんなベクトルがあるからなのかなあ。日本だってかなり暗澹としているんだけどナア。

2017年3月21日 (火)

犀は撫でられた

 

Monitorで韓国映画を観ていた。『サスペクト~悲しき容疑者』、これが132分の長尺なもんで、30分に一度の休憩予定で観ていたのだが、ともかくaction scene が長すぎる。簡明なstoryで、俳優の演技の質が高く、オモシロクなくはないのだが、いや、オモシロイのだろうけど、カーチェースの部分など、もうイインじゃないのと少々うんざりはする。まあ、これは趣味の問題で、好きなひとは大歓迎なんだろうけど。私はactionの緊張感なら、まだ香港映画のドニー・イェン方面のほうが上(上手い、上質)だなと思う。同じ韓国作品の『監視者たち』は頭脳戦なのだが、その緊張感がたまらなく良かった。これは韓国映画の勝ち(これは、日本映画に対して、いってるのです)

で、本題はここからなのだが、観ている途中で、急に苦しくなってきて、映像をstop、脈拍を測定すると、115、血圧が148-95ときた。低体温のせいかと、次は体温、おっとどういうワケだか、10分前まで35,7°だったのが、36,6°まで急上昇している。何だかワカラナイが、急場凌ぎ。Β-ブロッカーを服用。20分経過、おちついたので、再度計測、117-75、36,1°(私の平常体温は36,4°)今度は急降下。1度近い体温の乱高下は、立てばふらつく、思考のedgeはボケる。

頼れるものに電話したが、あいにく旅行中。電話したのは、病院に運べとかいうcommandをいうためではナイ。こういうのが続くことになれば、いくらなんでも「もうイイんじゃナイか」という声に誘われそうになる。「すまんな、堪忍してや」になる。そこで、かねてからの『遺言書』と『告別の辞』のfileを渡して、後始末のために通帳と判子を渡しておこうと考えたのだ。

自死する気はナイが、救急車とか、救急病院は拒絶するつもりだから、意識が朦朧としているあいだに33°まで体温が下がれば、自然死になる。朝、起きたら(というか、起きないんだけど)死んでましたになってからでは遅い。

いつ、そうなってもいいように、犀を撫でることにした。

と、以上は、疾病(薬害なんだけど)に対する〈消極的シフト〉。

何か〈積極的〉なpolicy technique approachはナイのか。

セロトニンの自然分泌不全。容態は、自律神経の迷走(暴走)。

セロトニンの自然分泌が生じてくれるのか、あるいは、現状のままを耐える工夫をすればイイのか。来月で断薬から六ヶ月。ここらが離脱終了の基準なのだがこの五ヶ月、体調に変化はなく、低体温という悪化がみられるだけだ。ことのほか、生じている体調不全は、自律神経系統の失調に由来していると仮定してみる(そうせざるを得ない、他、考えようがナイ)。

そこで、自律神経失調の精神医薬を探すか。そうすると、また向精神薬に依存するところに逆戻りで、私もイヤだし、主治医も賛同しないだろう。

では、医薬品以外で対症出来る可能性は何かあるか。

漢方か、鍼灸か、信仰か、超能力者探しか。犀を撫でる。賽を投げるのでもなく、匙も投げない。

午前中に仕事すると、午後は1時間程度、眼を休めるために横になる。いつものラジオ番組が流れている。「~松尾堂」、松尾貴史さんの番組で日曜の午後はたいてい聴いている。わりとお気に入りの番組。その日のゲストのひとりが医学者で、「疲労医学」という新系統の医学分野を歩いている、1960年前後の生まれだから、まだ五十過ぎくらいかなあ。これに聞き耳が立つ。あっ、犀だ。「疲労と疲労感はチガウ」という命題。たとえば、歩く走るで足に乳酸が溜まって「疲労」というのは「嘘なんです」といいきる。疲れをとるのに、「適度な運動をする」「栄養価の高いものや精力のつくものを食べる」「温泉にいく」「友人たちとお酒を飲んで、ストレスを発散」なども、すべてマチガッテいることを、実験データで確かめたらしい。老師いわく「いままで、医学は、〈疲労〉というものに対しての学問、研究を怠ってきた」「足がだるい、肩がコル、眼精疲労などは、〈疲労感〉であって〈疲労〉ではナイ」云々。

まるでユング精神医学のシンクロニシティーみたい。(私はあまりユングは評価してナイんですけどね)。この医学者は「疲労とは、自律神経の疲労です」といいきる。

で、どうすんの。

「鶏のムネ肉の成分のイミダペプチドを毎日200㎎摂取するといいんです。これは、渡り鳥が休息なしで数千キロを飛んだり、マグロが永久に泳いでいたり出来る体力に関係していて、その両方の肉(身)にも含まれています」

ペプチドとはたしか、アミノ酸の複数結合だったから、要するに分子結合してタンパク質になる、あれだな。「鶏のムネ肉」ね。マグロね。よし。

サプリにもたぶん、あるはずだ。よし、アマゾンへgo。で、サプリを買ったが、どうしてもこういうシロモノには半信半疑になる。若い頃、テキ屋をやってたせいで、どうもテキ屋商品と重なる。すでに贋物も出回っているとか書かれてある。他の似たようなサプリを調べると、あるわあるわ、高価なのがワンサカある。ユーザーのレビュー(Amazon)は善し悪しが6:4くらいで、一応食品なのだから「効かなかった」という評価はちょっとどうかと思うが、よく効く向精神薬よりはマシかなと、副作用や飲み合わせなど、調べまくって、ここは藁にすがるかと、犀を撫でた。

/犀は撫でられた。(意味、ふつうは怖くて触れたり撫でたり出来ないことをする。転じて、思いきった営為を行使する)/

翌日、電話した相手と別の相談事があったので、「昨日の電話は云々」と話したら、「私のほうが先に死ぬかもしれませんから、お返しすることになるかも」といわれた。なるほど、最近は、同時代を活きてきた知己、友人が次々戸籍を天鬼簿に移している。死ぬことに恐怖心はナイほうなのだが、癪に障るのだ。きっと釈迦もそうだったにチガイナイ。これからはその気分を/釈迦に触る/ということにする。

2017年3月17日 (金)

傾城逆転

韓国では、パク・クネ大統領が弾劾、罷免。これがスンナリという引き際ではナイ。化けて出てやるとう雰囲気満タン。合衆国のトランプ大統領はあいかわらずの厚顔無恥で、いくらでも地下には抜け道があるメキシコ国境に壁つくってどうすんのと、誰かいってやれよ。北朝鮮からはケケケケッという声が聞こえてくるほどに、ヘッドが狂っていて、何の効力もナイ大陸間弾道弾飛ばすゾっなんて騒いでいる。飛ばせばイイんだ、で、太平洋上にポチャンするのを観届ければ(まあ、正確にいえば、太平洋上空で迎撃ですけど)。とはいえ、だ。

日本もまたこの国際ドタバタ劇の渦中に突入しているんだから、付き合いがよろしい。

「贔屓の引き倒し」というコトバがあるが、安倍総理大好きの右傾「森友」くんが、地雷の踏み続け。安倍ちゃんにとってはイイ迷惑だったんだけれど、ここに昭恵夫人の姑息(思いつき)なやりたい放題が露顕してきて、安倍ちゃん、総理の座が危うくなってきた。

「お前、なんで、そういうことしたんだっ」

「だってえ~」

という家庭の不幸が、権力の悲劇に発展。まるでShakespeareであります。

そこへきて、稲田防衛大臣のオロオロ発言が、国会からも防衛省からも総スカン。似たようなことを私も高校生の頃、体験している。大臣は謁見にハイヒール履いてきたとやらで、私の場合は、体育祭応援団のバックに建てる大デモ絵画にワイセツ画を描かせた首謀者(ほんとはチガウんだけどね。同級生が図書館でみつけた抽象画で、ペニスが矢印のように描いてあったのをオモシロソウだからこれいこう、と賛同しただけなんスがね)として、母親が担任から体育祭当日、呼び出しくったんだけど、その時の母親の苦言「担任のセンセとやらが、体育祭やのに、スカートにハイヒールやで。どっちがアホや」

稲田防衛相の場合は、それだけではすまない。他に森友くんの顧問弁護士をやっていたのを野党から責められて、ゴチャゴチャ否定から、やってましたと謝罪。さらには南スーダンのスー談(まあ、そういう屁のような答弁)。それでもヤメナイんだから、というか、ことは安倍ちゃんにも波及するから、安倍ちゃん、女のことで(とはいえ色事ではナイ)危うし。まさに傾城とは、よう、いうた。

 

2017年3月12日 (日)

尿酸を集めて痛し今朝の指

 

尿酸値を下げるクスリ(つまり、小水とともに尿酸を排出させる)を服用しているのだが、このクスリは新薬で有能らしいが、ともかく尿酸というのは排泄される前に一度関節に集まるのだそうだ。当然、関節は痛くなる。今朝は足の親指が両方とも痛いので(特に右足、いつもは左なのに)歩きづらく、痛風用の鎮痛剤をロキソニンと一緒に服用。

 

セロトニン症候群の離脱作用でセロトニン分泌がままならず、ただでさへ痛みが治まらないのに、疾病もfactorが二つあると、難儀、ナンギ。かたや低体温で温めねばならず、かたや尿酸を排泄させるのに温めてはイケナイのことアルよ、で、関数にならない。方程式が解けない。このばあいy=f(x)のfをfunctionからfactorに変えてのことだが、x、つまり入力(input)すべきものがいまのコトバでいう真逆なので、始末が悪い。『法華経』と『浄土教』は一緒には入れられない。なんとか『般若心経』だけでしのいでいるといったふうかな、たとえていえば。(といってもどんなたとえなのかワカランやろけど)。つまり情況論が相いれないので、本質論だけに頼っているということで、とはいえ、ほんとに頼りになるのは鎮痛剤だけだな。

きのうのうちに、茄子と鶏肉を煮ておいてよかった。一日置けば、味がしみとおるだろうと、いま鉄鍋に待機中。なんだけど、食欲ナイしなあ。まあ、小一時間もすれば空腹感もやって来るだろうと、これを色即是空、あるいは諸行無常という。お経というのは高級品ではなく、生活密着でなくてはイケマセン。難しい哲学になるときもあるが、日常生活の指針となることもあるのだ。

2017年3月10日 (金)

枯れても花の咲かんとぞおもふ

考えに考え、いわゆる思索に明け暮れてもみたが、けっきょくワカランものはワカラン。

突然、忽然、アッ、てなぐあいにワカルとき、コト、があるのかも知れないが、それならそれで、とくにどうでもイイや。

いわゆる〈道〉などというものはナイ。武道、芸道、とかく〈道〉などというものを付けて、それを「極めん」とスルのが人の道とやらいうが、「極麺」とかいうインスタントラーメンと大差はナイ。生きるしか仕様がナイから生きているまでで、それでは虚無だろうてんで、キリスト教は「天国」を創造したし、仏教は「悟り」を設定した。かたや信仰で、かたや修行で、それ自体が方法ではなく目的になる。そうするしか他、無かったろうと諦念するしか、こちとらにすべはナイのだ。「あの世」のことなど考えても所詮は答えは出ないと釈尊は弟子に諭したが、そこで、弟子は、では「この世」とは何です、という質し方ではなく、なぜ、現に在るこの世は穢土なのかと問うてみればよかったのだ。そうしたら、それを克己するために修行あり、としか釈尊も応えようがなかったろう。修行というものこそ、「方便」なのだから。(「浄土」というのは、鎌倉仏教からこっち広まった他力本願で、そらまあ、穢土があるなら浄土もあると説くのは、簡単なことだとは思うが、釈迦牟尼ではなく、阿弥陀如来、大日如来と、仏の数が増えていくというのが、何だか家元制度のようで、あまりオモシロクナイ。ついでながら、浄土宗、真宗では『般若心経』は唱えない。絶対他力の宗派にとっては、般若心経は自力の経典になる。このあたりで、わたくしとは解釈に隔たりがある。菩薩が出てきたからって、そう排他的になることはナイと思うけど)。

 

オモロウて、やがて哀しき舞台かな、なんてのを生きてきたので、まあ、それで終わるしかナイわなあと、なんだかワカランのに生まれて、なんだかワカランのに死んでいく身の上は、誰しも同じ。

 

昨今、「ヤサグレ」というのを、なんだか語感からヤクザっぽくグレているというふうに解している連中がいるが、ヤサグレるというのは「宿無し」のことで、今晩、寝るところすらナイという、路頭に迷った姿なのだ。そんなにカッコつけていうものではナイ。

路頭に迷わぬようにするには、わたくしのヨウに荒野をリヤカー引っ張って歩くしかナイのだ。あっちはどっちやワカランし、どこへいってもどこでもナイのが、わたくしの全情況なのだから。そうなのだ。荒野を彷徨うのではなく、地球のほうから廻ってくるのにまかせて、ただ、ただ、ゆくだけでイイのだ。ちゃんとワカッテるじゃナイか。

しかしまあ、半壊した心身で、明日の飯の献立なんぞを考えるときに、どうしてちっとばかし、悦びがあるのだろうか。/食うことの思案ができるありがたさ/というものかな。この冬を越した豆苗が半分以上枯れながら、それでも花を咲かせた。こいつは、オレより偉いナ。何にも考えず、何も思わずに、ただ、無心、ココロなど無いのに、活きることをやめようとしない〈自然〉は、我が小さな居庵にあっても、やはりスゴイのだ。

それをスゴイと感じる、わたくしの心情と身上だけを、わたくしはいまのところ信頼していて、あながちマチガイはナイだろう。

それにしても、先に逝ったものたちよ、きみたちはいま何処に在る。逢いたいな、逢えるよな。この身の辱を雪ぐでもなく、積もり積もった穢れのままに、そのときを、ただ、待っている。

2017年3月 6日 (月)

往くも還るも ワカレテハ

二十一年に及ぶ(及ぶのかどうか、それは思うヒト次第だろうけど)伊丹の戯曲塾(『想流私塾』)に一応の区切りをつけて、後進に任せるカタチとなった。

つい先日、その最後の卒業公演を(監修)観て、最終講義のとき、influenzaで出席出来なかった飲み会(打ち上げですな)に参加はしたが、セロトニン症候群(ほんとは薬害)の断薬後の離脱症状の最後の抵抗(で、あってくれればいいのだが)、低体温状態がここ二ヶ月は続いていて、それでも、平常体温にもどる日も多くなり、とはいえ、mentalな現場に入ると、セロトニンの自然分泌がままならない低体温状態が生じ、その日も平常体温から五分ばかり下回った、乗り物酔いでもしているような体調だったが、体調不良なんぞは、ここ数年、いやいや、鬱疾患になってから慣れっこになっているので、私の直接の最後の塾生たちに、一席ぶって、席を濁して、しかし、二時間持たせることは難しく、100分ばかりで限界を感じての退席となった。

そのアト、hotelにもどってから、跡継ぎの師範に電話で、感想を少し述べておいた。ホンと演出についてはたいていのことは、宴席で語ったが、妙に印象に残る女優が二人いて、これは両極端な演技を用いるのだが、というのも、ひとりはその天性の素材の良さが産んだものだろうし、いまひとりは、かなり舞台慣れしていて、容貌やstyleも、いま流行りの団体さん少女歌手の中にいそうな雰囲気で、どちらも三十才手前といったところだと思うが、いまが〔花〕だということはマチガイなく、それぞれ、その〔花〕はタイセツに自らが育てていかねば、摘み採られたり、あるいはアト五年もたてば、ただの「おばはん」になるのではないかという危惧も持った。

かつて、唐十郎老師は、「世の中でイチバンおそろしいのは、〈少女フレンド〉を小脇にして歩いている老女だ」(ちっと脚色、入ってます)と、のたまいたるが、この〔特権的肉体〕もひさしく舞台に姿を現すことはなくなった。

 

注)〈少女フレンド〉とは、かつての少女マンガ雑誌。〔特権的肉体〕とは、唐老師独特の「風姿花伝」論。

 

偶然だが、つい先だって『あやしい彼女』(2014年公開の韓国映画『怪しい彼女』を、『舞妓 Haaaan!!!』『謝罪の王様』などの水田伸生監督がリメイクしたコメディー。73歳の頑固な女性がひょんなことから20歳の姿に戻り、失われた青春を取り戻していく姿を描く。ヒロインの20歳時を多部未華子が、73歳時を倍賞美津子が演じる。多部による1960年代から1970年代のヒット曲の熱唱あり。日本公開は2016年・・・ネットから一部編集コピぺ)をDVDで観たが、illusionを超えて、fantasyとして成立しているこの二時間の映画には泣いてしまった。(多部未華子ファンだから・・・comedienneとしての彼女が好きでしてレンタルしただけなんだけど)。この映画で〈泣く〉ということは、そうか、とことんオレも老いてきたなと認めざるを得ないのが悔しいが、昨今、持病のアドレッセンス症候群で、夢想のうちに、若い娘に懸想しかけて失敗するてなことが多々あるので、いや、アブねえアブねえとは思いつつも、近頃は若者より少々黄昏た御仁がもてる傾向ありと風聞を耳にして、身体さへなんとか具合良くなってくれば、いくらでも恋をしにいくぜ、と、嘯いたりしている。

 

さてと、本論を少し書いておく。

二十一年もやってきたので、「たいへんだったねえ」とか「おつかれさまでした」とか、「よくやったねえ」とか、よ~するに、私が何か感慨深げになっているだろうという慰めと労いの交じったコトバを多く頂戴したのだが、それが、私の資質なのか、何かの疾患なのか、残念ながら「感慨」など何もナイというのがほんとうのところなのだ。まったく、二十一年の「感慨」など無い。在るという感触ならば、この二十一年のあいだに、多くの同志を得たという、さて、いよいよまた闘えるぞ、という、奇妙な昂奮に似たワクワク感だ。

ここまで、世界(国際情勢)がcomic(マンガというよりポンチ絵だな)になってくるとは誰が想像したろうか。

いやあ、世界は荒野だ、我がリヤカーはどこまでも、ゆくのだ。Hamletを従者にDon Quijoteが、ゆくのだ。そういうオモロイ演劇のハジマリだ。

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