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2017年2月 9日 (木)

夢幻の函 Phantom share 28

私としては、レイさんとハルちゃんの蘇生を試みることにする。あれだけの宗教派閥が共生、共有してきた函館だ。どこかで蘇生術の研究をしている輩か族がいるやも知れぬ。と、私は比目魚いた。比目魚じゃねえだろ、閃いただろ。でも、比目魚も焼いて食っちまえ。

 えーと、黒ミサとかやってるとこはござんせんか。山田風太郎さんふうの、怪異な寺社はござんせんか。都筑道夫さんの伝奇小説ふうの屋敷はござんせんか。

 こういうとき、探しているものとはまったく関係のナイものが出没するのも夢の方程式だが、つまり、関数が等号(=)でむすべないということなのだが、比目魚だけは等価形態と相対的価値形態が等合していたようで、比目魚を焼いている雲水くずれ(だいぶんに汚い雲水、だからまあ、逆に信用出来るかも)が現れた。

「坊主が魚なんかを食っていいのかね」

 私は皮肉のつもりで、そう訊ねた。

「魚というても、これは布施だからの。それは拒むことなく受けねばならない。五種浄肉の一つということじゃな」

 なるほど。仏教は方便が多いからな。

 と、思った私のココロを観透かしたかのように、

「方便というのも方便での。釈尊がそれを〈方便〉としたので、ああ、方便かと修行者も信者も思うワケじゃな。しかし、方便が〈法〉ということも釈尊はおみ通しだったワケじゃの。嘘も方便というが、方便は嘘ではナイ。まっこと、うまく出来とるナ、仏教というものワ」

 だいぶんに年季の入っている坊主のようだ。たぶん、禅宗なんだろうけど。

「曹洞宗のくずれ坊主で、三休と申す」

 訊く前に答えた。千眼力とやらの神通力でもあるのかしらん。

「つまり、マルクスの最もアヤシイところは、『資本論』の最初のところ、そうそう、第1部「資本の生産家庭」/第一編 商品と貨幣/、あれね、交換価値形態から貨幣を導き出すところでな、あれは、あたかも、価値形態を等号でむすんでいくことによって、貨幣を導いているようにみえるのだが、実はその逆だ。もともと貨幣という交換価値形態を導くためにやっとることだから、貨幣が導かれるのはアタリマエなんじゃな」

 あるようだな、千眼通。

「マルクスがどれだけ数学とやらに通じていたかどうかは、知らん。しかし、拙僧の乏しい数学理解程度でも、あの等価形態と相対的価値形態をやたらとイコールで並べるのはどうかと思う。とはいえ、そうしないと肝腎の貨幣は出てこないからなあ。交換価値が同じだから、イコールで並べる。そのとき〈交換価値〉には/貨幣に変換したときの価値/というものがすでに含まれている。あれらは、物々交換による交換価値ではなくて、貨幣に変換したら、という前提が秘密のうちに入り込んでいる。ここは狡いのか、マルクスが数学について無知だったのか、その何れかじゃな。ともかくも、あの方程式はアヤシイ」

 ただの千眼通の年季じゃねえな、この坊主。

「まあ、比目魚、食え」

 あっどうも、いただきます。

「それに、マルクスによると、労働それ自体には価値はナイことになっとる。つまりは労働の対象化こそが価値ということだな。ところが、それはそれでマチガッテはおらんのじゃが、そのまんま認めてしまうと、ちと面倒になる。なんとならば、曹洞宗の修行は生活そのものだからな。労働も飯の食い方、つまり箸の使い方ですら修行じゃ。これらに価値がナイといわれては、修行が成り立たん」

 ますますもって、いや、もうマルクスはイイよ。

「まあ、そんなことは拙僧の解きたいことではナイ」

「御坊は、何の答を求めてらっしゃるんでござんしょうか」

 比目魚をご馳走になったので、態度を変えちゃう。

「簡単にいうと、/何故、ゴータマ・シッダールタが彼の苦悩を引っ提げて出家、彼の場合は、王子であるという享楽も家庭も棄てての出家なんじゃが、そうしなければならなかったか/だのう」

 だのう、といわれても、私の堕脳では、ナニをいわれているのかワカラナイ。

「あたかもそれが、運命のように、釈尊自身が否定した因果のように、突発的に、偶発的に、インシデンタルに、だ。誰でもよかったんじゃナイのかなあ。なのに、では、何故、シッダールタだったのか。彼でなければならなかったのは、何故か。そうなると、『法華経』の「如来寿量品」でも信じなければならなくなる」

「曹洞宗は、『法華経』を認めていないんですか」

「そうではナイと拙僧は思っている。『法華経』は要する/修行に分け隔てナシ/というスローガンだからの。開祖、道元の『正法眼蔵』は少なからず、『法華経』の影響がみられるように思う。何処ここということは、劣学の拙僧には指摘は出来んが」

「『法華経』というのは、あの大パノラマ劇場ですね」

「大パノラマじゃが、いうておることは、たった一つだけじゃ。さっきもいうたように/修行すれば誰でも仏になれる/これだけ」

「なんか、ナンかのcatch copyみたいですね」

「『法華経』を記したのは、かなりの智恵者、優れた学僧か、碩学の僧だろう。単数か複数か、拙僧の考えでは複数のものによってかなり意図的に書かれたと思われる。意図的にというのは、仏教の情況における問題をいっきに解決しようという目論見がみてとれるところからワカル。ま、しかし、問題はシッダールタだが」

 うーん、

「それはですね、御坊、こういうことじゃナイんですか」

「どういうこと」

「いっぱいいたんですよ、シッダールタみたいなのが、当時、ゴロゴロと、で、その中で彼が何とか成功したんですよ、悟りとかに。アトのものは全員失敗したので歴史に残らなかっただけ」

「それは、拙僧も、そう考えた。では、何故、シッダールタが成功したのか。こうなると、堂々巡りの自動律、同義反復になってしまう」

 そりゃ、まあ、運命、いや、仏教は運命論じゃナイからなあ。

「因果応報は、釈迦牟尼の考えではナイ。あたかもそうであるように後生が取り違えたんじゃが、さまざまな出来事には、つまり結果には原因が在る、というのはバラモンの考えだ。釈迦牟尼は、それに反撥して、結果にはどんな原因も無いと、こう解いた。つまりラプラスの悪魔の否定を物理学よりも数千年早くみつけたんじゃな」

 じゃあ、あれかい、

「そう、それだね。仏陀の思想は、いまでいう量子力学に最も近い」

 私もエライ夢をみてるな。

「そうすると、」

「そうそう、いわゆる〈縁〉という在って無きが如くのような結びつきじゃな」

 どうも、夢の中まで、私の悪い癖、論理癖、理屈が蔓延ってきそうなので、話題転換することにした。

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