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2017年2月20日 (月)

ブルカニロ博士の告白或いは、Document演劇の試み~表現論の実験による証明~

 

二年前から始められた私の「私の表現論」における演劇の実験は、観測した事実において成功したと考える。

此度のavecビーズ公演『And in the End~つまりそういうこと』は、私自身にとってはどういうことなのかというと、現実(演者たちの二年間の楽器演奏習得~document)という微分係数と、虚構(『And in the End~つまりそういうこと』という劇~fiction)という微分係数から求められる関数の方程式(微分方程式)が、[表現]というものを成立させるという、私の表現論を実験(舞台-上演)で証明し、さらに、「世界(此度の場合は演劇による創作が成したところの情況)は私の表現であり、私はその世界の表現の成したところの存在である」という命題をマチガイのナイものとして「証明」した。

これによって、「世界は〔現実それ自体〕で成立しているのではなくまた〔虚構それ自体〕というものが存在するのではナイということが立証されたことになる」コトバをちがえていえば、虚構は現実から産み出されるものだが、虚構はまた現実の存在に強く関与(影響)するということが実証されたことになる。

さらにべつのいいまわしでいえば「実生活を繰り込めない演劇は〔価値〕をもたない。演劇に携わって生きるならば、演劇を実生活に繰り込めない人生は〔意味〕をもたない」ということになる。

これは、経済学とは切り離して考えていい。「食う」ための演劇とは、幾ばくかの銭の取得のcategoryでは論じても無駄だとしかいいようがナイからだ。心すべきは、ここのところに在る。何で食ったってかまやしない。「食うべき」ということが実生活ならば、それが現実ならば、上記の論旨において、それが繰り込めない演劇論などは何の値打ちもナイといっているだけだ。

誤解されると困るので、もうひとこと付け加えておくと、前述の論旨は職能劇団の営為とは何の関係もナイ。もちろん、労働の価値云々はまったく問題にしていない。これは、ず~っと、私自身が課題にしてきた「現実と虚構」についての論考上にある論理以上のナニモノでもナイからだ。その点においては、「なんで演劇をやってるのか」という問いかけには、ハッキリと「食うためです」と応えることは出来る。

もちろん、私のそんな目論見に気付いた観客は一人もいないはずだ。それはアタリマエでイイのであって、観客に向けては、私は『And in the End~つまりそういうこと』という舞台をみせたに過ぎないし、役者、スタッフはその舞台をみごとにやり遂げたということに尽きるからだ。此度の公演は、そういうparallelな構造を持っての上演だったのだが、私は結果として「二兎を追って二兎を得た」ということになる。これは誇ってイイ。私にとっては、僥倖な時間だったと、感謝でイイのだ。And in the End、つまりそういうことだ。

自負と謝意を含め、なにはともあれ一応、書き留めておく。

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