『月山』読後感
ご当地では日曜日の11時だったか、アットFMで作家の小川洋子さんがpersonalityをやってらっしゃる、ちょっと長ったらしいタイトルなので、いつもそれは聞き逃すのだが、内容は、つまり、小川洋子さんお薦めの読書、一冊。私はかけ流しなので、気にとまったものだけは聞くんだけど、今週は森敦さんの『月山(がっさん)』を途中から聞いて、といっても、しっかり聞いたワケではないのだが、ふと、読みたくなったので、アマゾンの古本マーケットに注文、読んでみた。
これは記憶にある一冊で、というのも、森敦さんが、これで芥川賞を受賞されたとき、六十二才だったからで、そういう年齢のひとも芥川賞って受賞するんだと、当時、そんなことを思ったけど、当時は興味がなくて、読まなかった。
此度、読んでみたくなったのは、なにやら番組内での解説が、生と死についてで、全体、よくワカラナイところが面白いということだったからで、そういうの好みだから。
長編というより、中編に近いものだったから、それに河出書房新社の単行本は活字が大きくて読みやすかったし、読めない漢字はテキトウに読んだから、一日で読めた。
で、やっぱり私は戯曲、劇作のほうに進んで良かったと思った。こういう小説は、善し悪しがワカラナイ。正直にいえば、これは折口信夫(これ、しのぶ、と読みます)の模倣で、とはいえ、圧倒的に折口信夫のほうがオモシロイ。まあ、折口さんはどちらかというと、古典エンタメだからなあ。
リアルタイムで読んでいたら、まったく読後感は変わったろうと思うのだが、この手のcategoryは、すでに日本のcomicに凌駕されていると思う。こういう感触のマンガは、ある程度、いまの日本では量産されていて、かつ質のイイものも多い(はずだ)。
私の読み方が誤読だとして、いうと、『月山』は、オチが悪い。こういうふうに落とす、決着させるか、とガッカリしたワ。それと、これは著者が何十年も放浪生活をおくった経験をもとに書かれているのだろうけど、そういうものは、当人(作者)は実際に目にしてきたものだからスイスイいけるのだが、読者としては、edge(輪郭)の鈍いspotlightの中の像を観るようで、私の脳髄ごとき想像力では、なかなか全体と部分の像が〈美しく〉きりむすんでくれないのだ。スカ屁のような風太郎さんを読んでいるようで、この小説を味わうほど、まだまだ私は成長(成熟)していないようだ。セロファン菊の女にしても、situationの描写とその女との関係の描写が、「おっさん、これは、古い、くさい、安い、の三拍子や」といいたくなるのだ。
これねえ、いっそのこと、近藤ようこさんが、マンガにしてくれたらなあ、と願う次第。