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2016年11月27日 (日)

百姓日記⑪

思考の半片

 

 

おでんの季節だ。具材によく使われる「はんぺん」は「半片」とか「半弁」「半平」てなふうに書く。この名称はわりに歴史順序があって、「かまぼこ」は、練り魚食品が竹の輪状態であったので「竹輪」と称され、それを二つに真っ向唐竹割り、これを板に貼り付けたので「蒲鉾」と呼ばれ、つまり「鉾」だってんだけど、半分にしたから、似た素材のもので、「鉾」ではナイものは「半片」となった。

以上、雑話終わり。

最近、近辺に女性がいないので、退屈極まりなく、たかが「あばらの骨」とはいえ、秋刀魚だって丸かじりすると、骨も美味いのだから、要するに不味い日常で、人間、暇になるとろくなことは考えないのだが、性犯罪に走るよりはマシだろうというワケで、以下のことを考えている。

〇時間と重力を考察するには、やはり量子力学が必要だ。ああ、面倒だけど、量子力学のやんなおしだぁ。

〇ふつうのヒトが悟りを得て仏になるには、どう考えても寿命が短すぎる。(だいたい、釈迦牟尼仏の次に仏陀になることが約束された菩薩(修行者)である弥勒菩薩でさへ、56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされてはいるが、で、いま何をしているかといえば、兜率天で修行しているのだ。ここで、この数値が大袈裟でその100分の一だとしても、人類としてのヒトが生きられる年数ではナイ)。そこで、菩薩だろうが、ヒトの男女だろうが、成仏(仏になることが出来る)と説いている「法華経」のサンスクリット原典が最近発見され、和訳が終わったのが本になったので、そいつをベンキョーしている。

こういうことをしていると、たいてい横道に逸れて、演劇関係の論理へとshiftしてしまう。

量子力学の「相互作用」においては、対象と対象は「1対1対応しない」のだ。これは示唆に富んでいる。相互作用というのは、「電子を一個飛ばしてフィルムに到達する、この測定」という、つまり「作用」なのだが、これが、私を長年悩まし続けたもので、フィルムというのも物質であるのなら、到達は、測定結果ではなく、電子とフィルム素材による反応なんじゃないのかと、つまり結果ではなく途上なんじゃないかと、その一点の納得を得るためにいったいどんだけ銭つこうて、ぎょうさん本読んだか、銭と時間を返せといいたくなるところなのだが、この問題は、エライ物理学の外人の学者も日本の学者もやっぱり悩んでいたんだよね。量子力学の「相互作用」からどんな示唆を得られるかというと、対象である二人の〈役〉があって、せりふを交わしても、「対応しない」場合がある(あってもイイ)ということが戯曲では多いという、ところだ。これは日常でもそうなんだけどね。

もう一つ。めったやたらと現れる「プランク定数」について。これねえ、ほんとに至る所に登場すんだけど、おまえ何なのよといつも思ってたのよ。まあ、難しい説明を書きつらねてもワカンナイだろうから、簡単にいってしまうと、「量子力学においては、物体から放射される電磁波は連続的なものではなく、不連続な〈飛躍〉のエネルギー量子」で、その定数をいうんだけど、戯曲において、は、せりふの〈飛躍〉がオモシロイのだから、なあるほど、私自身が常々、ウィトゲンシュタイン言語学が演劇には不向きだと主張していたエビデンスはこれだよねと、こんなところで納得しているのだ。

と、ここまで書いて、そうだよ、これ『恋愛的演劇論』書いてた当時も勉強したところだよナ、と、いやあ、思考というのはなかなか記憶になりにくいんだなあ。半片にしかならないんだなあ。これは歳のせいじゃねえんだ。

で、アト二つ半片、これは欠片かも知れないが、

〇マルクスの『資本論』の価値形態論、「貨幣」についての、相対的価値形態と等価価値形態から貨幣を求めるあの論理は、イコール(等号=)の使い方が数学的に欠陥を持っているんではナイだろうか。これについては新たな疑問だから、ちょっと考えてみるワ。

〇私にとってadolescence というのは、私の〈病態〉だなあと、最近しみじみ思いますワ。つまり、アドレッセンス症候群ネ。ときどきその世界に入り込んじゃうのだナア、六十四歳になっても、十六歳の世界にふんわりとネ。こないだも、(以下personなので略)

そうしてオマケ、

〇環境が同じなのに、うつ疾患になるものと、そうでナイものがあるとするならば(実際そうなのだけど)、うつ病の因子は自己自体としか考えようがない。とすれば、論理的には、これは自己疎外であって、さらに原生的なものなのだから、純粋疎外ではナイ。よって〈死〉という自己消滅によってしか完結(治癒)しない。死ぬということは治癒する(生きる)ということではナイので、これは矛盾だ。つまるところ、うつ疾患というのは〈自己矛盾〉ということになる。この矛盾がヘーゲル的なのかスピノザ的なのか、いいかえれば、「実矛盾」なのか「可能矛盾」なのか、いまのところ解明出来ない。もし、希望があるとすれば、スピノザ的な「可能矛盾」であれば、何らかの〈止揚〉によって、解決の糸口がつかめると思われるのだが。

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