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2016年11月23日 (水)

百姓日記⑩

 

手塚治虫さんの大予言

 

 

当たってしまったんだから畏ろしいとしかいいようがナイ。

ロボットが開発される。人間の労働をロボットがやるようになる。そのぶん人間は楽になる。という楽観的なSFに対して手塚さんは、ロボットと人間の闘いを描いた。つまり、労働をロボットに奪われて、失業した人々と、何の罪もナイ、ロボットとの戦闘だ。

これ、いまの世相そのまんま。

『鉄腕アトム』の最終話の悲惨さをみよ。救いようのナイ、手塚さんのペシミズムの行き着いたところだ。いうなれば、ブラック・ジャックに勝利したキリコのあの逸話のように。

おおよそのことを機械(あるいは電化製品)がやることになって、しばらくはバラ色だった。主婦の仕事は軽減した。冷凍食品と電子レンジがあればずいぶん事足りる。それを批判するインテリも多いけれど、少なくとも私の生活も電子レンジ抜きではやっていけない。さらにオーブン・レンジがくっつくとなれば、クックパッドみながらたいていのものは料理出来る。いまさら七輪で何が出来る。だから、現状、主婦の料理の腕の善し悪しは包丁の使い方(扱い方)くらいだ。糟糠の妻の時代は終わった。おふくろの味も幻想に過ぎなかったことは、なんとまあ、統計調査で歴然としている。あなたの母親の母親の時代、もっとも食べたかった、美味しいと思った料理は「コロッケ」だったんだよ、きみ。

さらに母親の母親が味噌汁をつくっていた割合は、極めて低い。そうして、母親の世代、もっともご馳走だったのはカレーライスで、誕生日のpartyといえば、必ず登場したのがカレーライスなのだ。

生活からビシネスに視線を移そう。ビジネスも楽になった。ノートパソコンの登場で、雇用しなければならなかった労働者は激減した。人間を雇わなくてもイイという部分が多くなったので、当然、賃金を支払わなくて済む。要するに、たいていのことはノートパソコンがやってくれるので、ヒトがやることといえば、歩いての営業くらいだ。会社もofficeも不要。(とはいえ、名刺とゴルフの心得は必要なんだけどね)。独り暮らしも楽だ。交通系カードがあれば、コンビニ・スーパーで、買い物は完結する。なんしろ、生鮮食品まであるんだから。飯はイート・インで食えばイイ。たいてい笑い話になるのが、モーニングにせよ、昼の弁当にせよ、コーヒータイムにせよ、さて、水をと思ったとき、「そうか、水も買わなきゃいけないんだ」という事実。水はタダでは飲めなくなった。

かつてマグドナルド興隆の頃、あそこのハンバーガーは猫の肉を使っているという噂を流したのが、どんな業者だったのかは知らないが、マック(マグド)はすぐに材料を公表した。これと同じことがつい最近(いやいまでも)コンビニ弁当は、一週間放置しても腐らないという「都市伝説」になっている。保存料にソルビン酸が使われているかららしい。しかし、これはまったくの嘘だった。たしかにソルビン酸は使われているが(コンビニのサンドイッチなどは、現在不使用)、これは普遍的に食品に用いられている保存料だし、コンビニ弁当(の中の個々の食品にはもちろん使用されているものもある)は、それでもなおかつ、その量を100分の一まで少なくして、店頭にはたいてい二日の消費期限でしか弁当を置かなくなった。流通時間を考慮して、だいたい72時間耐久保存のようだ。(ただし、おでんはちょっとオカシイらしい・・・おでん屋にいわせるとだけど、具材が浮くというのは妙なんだそうで、あれはおでんではナイと明言しているおでん屋さんもいる・・・)。

閑話休題。

「しばらくはバラ色だった」と先述したのは、つまりは「バラ色じゃネエよな」、になってきたからだ。「楽になっ」てはいないのだ。なんだか辛くなったのよ。働くことも、職にありつくことも難しくなった。働いても貧乏で、「稼ぎに追いつく貧乏」ばかりになった。マスコミはこれを〈格差〉という。じゃあ、いったい何の、どんな〈格〉に差がついたというのだ。どういう理由(ワケ)で。

少し前までは、いまの貧乏は、貧乏だから家が買えないので車でも買うか。てな具合の貧乏で、むかしのように今日食う米がナイなんて貧乏ではナイ、なんていわれていたが、昨今は、その、今日食う米がナイという貧困、貧窮になっちゃった。韓国なんかの若者の貧窮は深刻で「3放世代」が増大、自殺も増えている。「3放世代」というのは、「恋愛・結婚・出産」を放棄せざるを得ない世代のことで、いやこれは人ごとではナイぞ。

私とて、いわゆる「老後」はヤメタ。六十四年生きてきたんだから、もう、生きられるところまでだなと、楽観すればそうなるが、悲観的にみれば、アト3年持てばヨシで、だからといってこの3年を慎ましくさらにもう3年延ばしたところで、なんかオモシロイことあるか。六十四が六十八になっても似たよなもんだよなあ。

若い女性はもちろん好きだが、六十過ぎると真面目に相手してくれる娘さんなんてよほどの運か縁か円がナイとダメだしな。それにどうしても、「明日来るひと」を「昨日生きたひと」が扱うとなると気が引けるのだ。結婚は三回して離婚も三回したから、ヨシ、じゃあ、今度はgirl friendを三、四人てのはどうかと思うのだが、どうも私はそういうタチ(資質)じゃないから、困ったもんだ。年の差婚てのは、先立つものがナイとね。こっちが先立つんだから。

まあ、いま生きている理由は、

〇死ぬのはツマラナイ。(なんだ、人生ってこんなもんなのとアホラシクて死ねやしない)

〇美味いラーメンと、美味しいお肉(この場合は比喩で女性のことも含む)が食いたい(これも比喩になるが、sexのことに限定していっているのではナイ。つまりは恋情全般をいう)。

〇ひょっとして世界が滅びるのが観られるかも知れないという、ワクワク感がある

からでござんす。

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