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2016年11月

2016年11月28日 (月)

百姓日記⑫

 

飛躍show熱気

 

何か苦肉のsubtitleだなあ。

しかし、こういうのを「親父gag」と鼻で笑う若い人は私からも鼻で笑われていると思ったほうがイイ。さて、「飛躍」だ。プランク定数の文字通りの「飛び道具」、量子エネルギーの不連続が戯曲とどう関係しているか、を、述べてみせるshowのはじまりだ。

以下に戯曲文学とはどういうものかをその〈飛躍〉を以て解説する。

 

ある満員の喫茶店(飲食店)で、相席を求めるシーン。

女が四人がけのテーブルにひとり、座っている。男がやって来る。

 

(文例・1)

男「すいません、お訊ねしますが、この席、空いているでしょうか。

女「この席ですか、ええ、空いてますが、何か。

男「この席、空いているなら、座ってかまわないですか。

女「ああ、相席ね。ええ、他に空いてることろがナイのなら仕方アリマセンね。

 

(文例・2)

男「すいません、あいにくこの店、満席で、同席させて頂いてかまいませんか。

女「相席ですか(店内を観まわして)ほんと、満席ね。

男「ダメでしょうか。

女「いいですわ。他に空いている席がナイんだから仕方ナイわね。

 

(文例・3)

男「ここ、いいですか。

女「えっ、

男「(店内を観まわして)満席なんです。

女「相席ね。仕方ないわね。いいですよ。

 

(文例・4)

男「あの、ここ、いいですか。(店内を観まわして)

女「(店内を観まわして)ええ、いいですよ。

 

(文例・5)

男「(店内を観まわして)あの、

女「(店内を観まわして)いいですよ。

 

(文例・6)

男「(いきなり向かい側に座って一礼)

女「(店内を一瞥するが)

男「袖すりあうも、

女「他生(多生)の縁、か。

 

この六つの文例で「戯曲」文学といえるのは(文例・6)だけだ、といったら、それはちょっとdrasticだといわれるだろうが、しかし戯曲というのはそういうものなのだ。

そういうことを考えない、気にもとめない自称劇作家は巷間数多溢れて群れている。(別の表現でいえば、/そういうことを勉強しない、戯曲をそういう対象としない、のに、劇作家と名乗っているヤカラはあちらこちらに、その数だけ多く、群れをなしている/)。それはそれで、面々のお計らいと、いいかえれば「そんなん勝手でええやん」「好きなことしてんのやさかい、ゴチャゴチャいわんといてほしわ」で、放っておけばイイんだけど、放っておいてるんだけど、ここにシノギがからんでくると、ちっとオモシロクネエよなになる。

劇作家になるのには資格試験はナイ。小説家にだってナイ。およそ表現に携わるもの、ゲージツ家と称されるものには、ナイ。ところで、「心理療法士」と「心理カウンセラー」と「臨床心理士」は似てはいるが、前者二つは〈自称〉でかまわない。国家資格も法規もナイので、そう名乗って仕事をしても(対象・・・患者あるいは相談者が自殺したりしなければ)罪にはならない。「臨床心理士」というのは、国家資格ではナイが、文科省認定の財団法人の認定資格なので、ある意味公的な資格だ。これを取得するには、大学院を卒業して、認定試験に合格しなければならない。医療機関に勤めようとするならば、この資格がナイと、ほぼ、どの医療機関の求人応募にもひっかからない。応募しても雇用対象とならない。雇わない。しかしながら、あえて「ほぼ」、というのは、昨今「心の病」とかが多い世相、「心理療法士」や「心理カウンセラー」てなのが、医療資格者の如くに存在するblack、あるいはdarkな相談所めいたところは少なからず、いんや、いくらでもあるからだ。

何がいいたいのかというと、「経験」というものだけのliteracyskillで、演劇なり戯曲なりを素人に教えて銭を取得している不埒な(もちろん、法規上ではなく、私においての倫理上だが)自称劇作家も多数いるということで、けれどもそれに対して憤慨しているのではなく、この渡世、乞食稼業だなあと憐憫しているだけだ。私だって、資格など何もナイ。じゃあ熱気はあるのかといわれると、これが、「不埒な」と私がいうたほうが、私以上に、けっこう熱気は持っとることが多いんやさかい、まあ、ゲージツはワカランのだ。ワカランものに於いて、「銭になる、ならない、仕事がナイ、食えない」などと、シノギをほざくのは虫が良すぎるのかも知れん。と、思えば気楽でええんやけど。「夢じゃ腹はふくれねえよ、けんどもよ、夢を売れば銭にはなるよ」と、私もそれらしいものを売ってきたからなあ。昨今、売れる夢も変わってきよりましたなあ。と、ため息してるってことかな。

嗚呼、みんごとなる飛躍であります。

2016年11月27日 (日)

百姓日記⑪

思考の半片

 

 

おでんの季節だ。具材によく使われる「はんぺん」は「半片」とか「半弁」「半平」てなふうに書く。この名称はわりに歴史順序があって、「かまぼこ」は、練り魚食品が竹の輪状態であったので「竹輪」と称され、それを二つに真っ向唐竹割り、これを板に貼り付けたので「蒲鉾」と呼ばれ、つまり「鉾」だってんだけど、半分にしたから、似た素材のもので、「鉾」ではナイものは「半片」となった。

以上、雑話終わり。

最近、近辺に女性がいないので、退屈極まりなく、たかが「あばらの骨」とはいえ、秋刀魚だって丸かじりすると、骨も美味いのだから、要するに不味い日常で、人間、暇になるとろくなことは考えないのだが、性犯罪に走るよりはマシだろうというワケで、以下のことを考えている。

〇時間と重力を考察するには、やはり量子力学が必要だ。ああ、面倒だけど、量子力学のやんなおしだぁ。

〇ふつうのヒトが悟りを得て仏になるには、どう考えても寿命が短すぎる。(だいたい、釈迦牟尼仏の次に仏陀になることが約束された菩薩(修行者)である弥勒菩薩でさへ、56億7千万年後の未来にこの世界に現われ悟りを開き、多くの人々を救済するとされてはいるが、で、いま何をしているかといえば、兜率天で修行しているのだ。ここで、この数値が大袈裟でその100分の一だとしても、人類としてのヒトが生きられる年数ではナイ)。そこで、菩薩だろうが、ヒトの男女だろうが、成仏(仏になることが出来る)と説いている「法華経」のサンスクリット原典が最近発見され、和訳が終わったのが本になったので、そいつをベンキョーしている。

こういうことをしていると、たいてい横道に逸れて、演劇関係の論理へとshiftしてしまう。

量子力学の「相互作用」においては、対象と対象は「1対1対応しない」のだ。これは示唆に富んでいる。相互作用というのは、「電子を一個飛ばしてフィルムに到達する、この測定」という、つまり「作用」なのだが、これが、私を長年悩まし続けたもので、フィルムというのも物質であるのなら、到達は、測定結果ではなく、電子とフィルム素材による反応なんじゃないのかと、つまり結果ではなく途上なんじゃないかと、その一点の納得を得るためにいったいどんだけ銭つこうて、ぎょうさん本読んだか、銭と時間を返せといいたくなるところなのだが、この問題は、エライ物理学の外人の学者も日本の学者もやっぱり悩んでいたんだよね。量子力学の「相互作用」からどんな示唆を得られるかというと、対象である二人の〈役〉があって、せりふを交わしても、「対応しない」場合がある(あってもイイ)ということが戯曲では多いという、ところだ。これは日常でもそうなんだけどね。

もう一つ。めったやたらと現れる「プランク定数」について。これねえ、ほんとに至る所に登場すんだけど、おまえ何なのよといつも思ってたのよ。まあ、難しい説明を書きつらねてもワカンナイだろうから、簡単にいってしまうと、「量子力学においては、物体から放射される電磁波は連続的なものではなく、不連続な〈飛躍〉のエネルギー量子」で、その定数をいうんだけど、戯曲において、は、せりふの〈飛躍〉がオモシロイのだから、なあるほど、私自身が常々、ウィトゲンシュタイン言語学が演劇には不向きだと主張していたエビデンスはこれだよねと、こんなところで納得しているのだ。

と、ここまで書いて、そうだよ、これ『恋愛的演劇論』書いてた当時も勉強したところだよナ、と、いやあ、思考というのはなかなか記憶になりにくいんだなあ。半片にしかならないんだなあ。これは歳のせいじゃねえんだ。

で、アト二つ半片、これは欠片かも知れないが、

〇マルクスの『資本論』の価値形態論、「貨幣」についての、相対的価値形態と等価価値形態から貨幣を求めるあの論理は、イコール(等号=)の使い方が数学的に欠陥を持っているんではナイだろうか。これについては新たな疑問だから、ちょっと考えてみるワ。

〇私にとってadolescence というのは、私の〈病態〉だなあと、最近しみじみ思いますワ。つまり、アドレッセンス症候群ネ。ときどきその世界に入り込んじゃうのだナア、六十四歳になっても、十六歳の世界にふんわりとネ。こないだも、(以下personなので略)

そうしてオマケ、

〇環境が同じなのに、うつ疾患になるものと、そうでナイものがあるとするならば(実際そうなのだけど)、うつ病の因子は自己自体としか考えようがない。とすれば、論理的には、これは自己疎外であって、さらに原生的なものなのだから、純粋疎外ではナイ。よって〈死〉という自己消滅によってしか完結(治癒)しない。死ぬということは治癒する(生きる)ということではナイので、これは矛盾だ。つまるところ、うつ疾患というのは〈自己矛盾〉ということになる。この矛盾がヘーゲル的なのかスピノザ的なのか、いいかえれば、「実矛盾」なのか「可能矛盾」なのか、いまのところ解明出来ない。もし、希望があるとすれば、スピノザ的な「可能矛盾」であれば、何らかの〈止揚〉によって、解決の糸口がつかめると思われるのだが。

2016年11月23日 (水)

百姓日記⑩

 

手塚治虫さんの大予言

 

 

当たってしまったんだから畏ろしいとしかいいようがナイ。

ロボットが開発される。人間の労働をロボットがやるようになる。そのぶん人間は楽になる。という楽観的なSFに対して手塚さんは、ロボットと人間の闘いを描いた。つまり、労働をロボットに奪われて、失業した人々と、何の罪もナイ、ロボットとの戦闘だ。

これ、いまの世相そのまんま。

『鉄腕アトム』の最終話の悲惨さをみよ。救いようのナイ、手塚さんのペシミズムの行き着いたところだ。いうなれば、ブラック・ジャックに勝利したキリコのあの逸話のように。

おおよそのことを機械(あるいは電化製品)がやることになって、しばらくはバラ色だった。主婦の仕事は軽減した。冷凍食品と電子レンジがあればずいぶん事足りる。それを批判するインテリも多いけれど、少なくとも私の生活も電子レンジ抜きではやっていけない。さらにオーブン・レンジがくっつくとなれば、クックパッドみながらたいていのものは料理出来る。いまさら七輪で何が出来る。だから、現状、主婦の料理の腕の善し悪しは包丁の使い方(扱い方)くらいだ。糟糠の妻の時代は終わった。おふくろの味も幻想に過ぎなかったことは、なんとまあ、統計調査で歴然としている。あなたの母親の母親の時代、もっとも食べたかった、美味しいと思った料理は「コロッケ」だったんだよ、きみ。

さらに母親の母親が味噌汁をつくっていた割合は、極めて低い。そうして、母親の世代、もっともご馳走だったのはカレーライスで、誕生日のpartyといえば、必ず登場したのがカレーライスなのだ。

生活からビシネスに視線を移そう。ビジネスも楽になった。ノートパソコンの登場で、雇用しなければならなかった労働者は激減した。人間を雇わなくてもイイという部分が多くなったので、当然、賃金を支払わなくて済む。要するに、たいていのことはノートパソコンがやってくれるので、ヒトがやることといえば、歩いての営業くらいだ。会社もofficeも不要。(とはいえ、名刺とゴルフの心得は必要なんだけどね)。独り暮らしも楽だ。交通系カードがあれば、コンビニ・スーパーで、買い物は完結する。なんしろ、生鮮食品まであるんだから。飯はイート・インで食えばイイ。たいてい笑い話になるのが、モーニングにせよ、昼の弁当にせよ、コーヒータイムにせよ、さて、水をと思ったとき、「そうか、水も買わなきゃいけないんだ」という事実。水はタダでは飲めなくなった。

かつてマグドナルド興隆の頃、あそこのハンバーガーは猫の肉を使っているという噂を流したのが、どんな業者だったのかは知らないが、マック(マグド)はすぐに材料を公表した。これと同じことがつい最近(いやいまでも)コンビニ弁当は、一週間放置しても腐らないという「都市伝説」になっている。保存料にソルビン酸が使われているかららしい。しかし、これはまったくの嘘だった。たしかにソルビン酸は使われているが(コンビニのサンドイッチなどは、現在不使用)、これは普遍的に食品に用いられている保存料だし、コンビニ弁当(の中の個々の食品にはもちろん使用されているものもある)は、それでもなおかつ、その量を100分の一まで少なくして、店頭にはたいてい二日の消費期限でしか弁当を置かなくなった。流通時間を考慮して、だいたい72時間耐久保存のようだ。(ただし、おでんはちょっとオカシイらしい・・・おでん屋にいわせるとだけど、具材が浮くというのは妙なんだそうで、あれはおでんではナイと明言しているおでん屋さんもいる・・・)。

閑話休題。

「しばらくはバラ色だった」と先述したのは、つまりは「バラ色じゃネエよな」、になってきたからだ。「楽になっ」てはいないのだ。なんだか辛くなったのよ。働くことも、職にありつくことも難しくなった。働いても貧乏で、「稼ぎに追いつく貧乏」ばかりになった。マスコミはこれを〈格差〉という。じゃあ、いったい何の、どんな〈格〉に差がついたというのだ。どういう理由(ワケ)で。

少し前までは、いまの貧乏は、貧乏だから家が買えないので車でも買うか。てな具合の貧乏で、むかしのように今日食う米がナイなんて貧乏ではナイ、なんていわれていたが、昨今は、その、今日食う米がナイという貧困、貧窮になっちゃった。韓国なんかの若者の貧窮は深刻で「3放世代」が増大、自殺も増えている。「3放世代」というのは、「恋愛・結婚・出産」を放棄せざるを得ない世代のことで、いやこれは人ごとではナイぞ。

私とて、いわゆる「老後」はヤメタ。六十四年生きてきたんだから、もう、生きられるところまでだなと、楽観すればそうなるが、悲観的にみれば、アト3年持てばヨシで、だからといってこの3年を慎ましくさらにもう3年延ばしたところで、なんかオモシロイことあるか。六十四が六十八になっても似たよなもんだよなあ。

若い女性はもちろん好きだが、六十過ぎると真面目に相手してくれる娘さんなんてよほどの運か縁か円がナイとダメだしな。それにどうしても、「明日来るひと」を「昨日生きたひと」が扱うとなると気が引けるのだ。結婚は三回して離婚も三回したから、ヨシ、じゃあ、今度はgirl friendを三、四人てのはどうかと思うのだが、どうも私はそういうタチ(資質)じゃないから、困ったもんだ。年の差婚てのは、先立つものがナイとね。こっちが先立つんだから。

まあ、いま生きている理由は、

〇死ぬのはツマラナイ。(なんだ、人生ってこんなもんなのとアホラシクて死ねやしない)

〇美味いラーメンと、美味しいお肉(この場合は比喩で女性のことも含む)が食いたい(これも比喩になるが、sexのことに限定していっているのではナイ。つまりは恋情全般をいう)。

〇ひょっとして世界が滅びるのが観られるかも知れないという、ワクワク感がある

からでござんす。

2016年11月10日 (木)

百姓日記⑨

選挙参謀の勝利

 

 

「ヒラリー・クリントンに勝てる唯一の方法、戦略があります」

と、ドナルド・トランプの選挙参謀は切り出した。

「よろしいですか、あなた、ドナルド・トランプ氏には徹底してheel(プロレスにおける悪役)を演じて頂きます。政策論争などではとうてい経験豊な彼女には勝てません。むしろ、女性に嫌われるイヤなヤツを演じつつ、オバマ8年の執政における不満を反吐のように吐き散らして下さい。大統領になるためには、選挙に勝たねばなりません。大統領になってからの政略はいくらでもありますが、大統領になる方法、戦略はこれ一つです。選挙民の30代以下の半分以上はクリントンに投票するでしょう。しかし、五十代以上の70%はあなたに投票する、これが私の読みです。数でいえば、その票のほうが圧倒的に多いんです。庶民大衆は、世界平和よりも、きょう食べるパンがこの8年のあいだにどう変わったかにしか興味を持ちません。それらの群衆はあなたの吐き散らすものを汚いと思いつつも、必ず潜在的に共感します。いわば、感情を一時的に動かせれば、私たちは勝てます。もちろん、私たちはあなたの名前からのjokeではありませんが、強いcardを二枚、選挙直前に準備します。一つは、フィリピン大統領、ロドリゴ・ドゥテルテを煽動して、アメリカに造反させます。群衆は思うでしょう。オバマはフィリピン大統領などに舐められているのか。もう一つは、韓国の女性大統領、パク・クネの失墜です。女性大統領の脆さをみせつけます。打って付けの情報(card)を私たちはここで切ります。やっぱり女はダメだ、と、脈絡も根拠も曖昧なのに、ただ〈女〉の大統領のimageだけを結びつけるでしょう。大統領になってしまえば、上院、下院で優勢な共和党が全面的にあなたに味方するでしょう。ドナルド・トランプ氏、あなたは共和党からさへも嫌われるようなheelを演じて下さい。共和党党員は、逆に危機感に団結しますよ。私への報酬ですか。それは、普通、適宜な額で結構。アトで問題にならないように。私は正当な手段で、金を先物取引しますから。あなたが大統領になると、必ず、金の価格は高騰するでしょうから」

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