百姓日記⑫
飛躍show熱気
何か苦肉のsubtitleだなあ。
しかし、こういうのを「親父gag」と鼻で笑う若い人は私からも鼻で笑われていると思ったほうがイイ。さて、「飛躍」だ。プランク定数の文字通りの「飛び道具」、量子エネルギーの不連続が戯曲とどう関係しているか、を、述べてみせるshowのはじまりだ。
以下に戯曲文学とはどういうものかをその〈飛躍〉を以て解説する。
ある満員の喫茶店(飲食店)で、相席を求めるシーン。
女が四人がけのテーブルにひとり、座っている。男がやって来る。
(文例・1)
男「すいません、お訊ねしますが、この席、空いているでしょうか。
女「この席ですか、ええ、空いてますが、何か。
男「この席、空いているなら、座ってかまわないですか。
女「ああ、相席ね。ええ、他に空いてることろがナイのなら仕方アリマセンね。
(文例・2)
男「すいません、あいにくこの店、満席で、同席させて頂いてかまいませんか。
女「相席ですか(店内を観まわして)ほんと、満席ね。
男「ダメでしょうか。
女「いいですわ。他に空いている席がナイんだから仕方ナイわね。
(文例・3)
男「ここ、いいですか。
女「えっ、
男「(店内を観まわして)満席なんです。
女「相席ね。仕方ないわね。いいですよ。
(文例・4)
男「あの、ここ、いいですか。(店内を観まわして)
女「(店内を観まわして)ええ、いいですよ。
(文例・5)
男「(店内を観まわして)あの、
女「(店内を観まわして)いいですよ。
(文例・6)
男「(いきなり向かい側に座って一礼)
女「(店内を一瞥するが)
男「袖すりあうも、
女「他生(多生)の縁、か。
この六つの文例で「戯曲」文学といえるのは(文例・6)だけだ、といったら、それはちょっとdrasticだといわれるだろうが、しかし戯曲というのはそういうものなのだ。
そういうことを考えない、気にもとめない自称劇作家は巷間数多溢れて群れている。(別の表現でいえば、/そういうことを勉強しない、戯曲をそういう対象としない、のに、劇作家と名乗っているヤカラはあちらこちらに、その数だけ多く、群れをなしている/)。それはそれで、面々のお計らいと、いいかえれば「そんなん勝手でええやん」「好きなことしてんのやさかい、ゴチャゴチャいわんといてほしわ」で、放っておけばイイんだけど、放っておいてるんだけど、ここにシノギがからんでくると、ちっとオモシロクネエよなになる。
劇作家になるのには資格試験はナイ。小説家にだってナイ。およそ表現に携わるもの、ゲージツ家と称されるものには、ナイ。ところで、「心理療法士」と「心理カウンセラー」と「臨床心理士」は似てはいるが、前者二つは〈自称〉でかまわない。国家資格も法規もナイので、そう名乗って仕事をしても(対象・・・患者あるいは相談者が自殺したりしなければ)罪にはならない。「臨床心理士」というのは、国家資格ではナイが、文科省認定の財団法人の認定資格なので、ある意味公的な資格だ。これを取得するには、大学院を卒業して、認定試験に合格しなければならない。医療機関に勤めようとするならば、この資格がナイと、ほぼ、どの医療機関の求人応募にもひっかからない。応募しても雇用対象とならない。雇わない。しかしながら、あえて「ほぼ」、というのは、昨今「心の病」とかが多い世相、「心理療法士」や「心理カウンセラー」てなのが、医療資格者の如くに存在するblack、あるいはdarkな相談所めいたところは少なからず、いんや、いくらでもあるからだ。
何がいいたいのかというと、「経験」というものだけのliteracyとskillで、演劇なり戯曲なりを素人に教えて銭を取得している不埒な(もちろん、法規上ではなく、私においての倫理上だが)自称劇作家も多数いるということで、けれどもそれに対して憤慨しているのではなく、この渡世、乞食稼業だなあと憐憫しているだけだ。私だって、資格など何もナイ。じゃあ熱気はあるのかといわれると、これが、「不埒な」と私がいうたほうが、私以上に、けっこう熱気は持っとることが多いんやさかい、まあ、ゲージツはワカランのだ。ワカランものに於いて、「銭になる、ならない、仕事がナイ、食えない」などと、シノギをほざくのは虫が良すぎるのかも知れん。と、思えば気楽でええんやけど。「夢じゃ腹はふくれねえよ、けんどもよ、夢を売れば銭にはなるよ」と、私もそれらしいものを売ってきたからなあ。昨今、売れる夢も変わってきよりましたなあ。と、ため息してるってことかな。
嗚呼、みんごとなる飛躍であります。