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2016年10月 6日 (木)

百姓日記③

まぼろしの地図をひろげて北帰行

 

〈夢〉というものは、実現すると達成感なり充足感なりがあるものだと、ごくふつうにそう考えていた。ところで、私の場合、たぶん常人とはチガウせいなんだろうけど(超能力者とか、天才とかではナイ、いうなれば社会不適応者かね)、実現するたびにやってくるのは〈喪失感〉だった。つまり、プラモデルでも、折り紙でも、つくって出来上がってしまったら、それでオワリ。知恵の輪でも、外してしまったらオシマイ。私はじぶんをエライひとではナイが、少しはスゴイひとだと思い込んでいたが、実際はじぶんの思い込みほどではナイようで、そのように世間に認知されてはいないんだということに、還暦を四年を過ぎてやっと気がついた。

子供の頃読んだ乱歩さんの『少年探偵団』シリーズは面白かったが、どうしても私は二十面相贔屓で、いつかこの人物の伝記を小説に書こうと思った。で、書いた。映画化もされた。だから・・・

名古屋に出てきたとき、名古屋の演劇の卑屈さに嫌気を感じて、必ず東京で通用する演劇を創って東京で上演してみせると決意した。で、そうした。だから・・・

演劇論のあまりの幼稚さにがっかりして、いつか科学的な演劇論を記してみるぞと思い立って、三十年かかって、『恋愛的演劇論』というromanticなタイトルの単行本を出版した。だから・・・

単純なことをいうなら、劇作家で食っていこうと思った。そうしてる。だから・・・

思い上がっていいますが、私は私の生涯をかけての夢なり、目的なり、つまり、「やりたいことと、やらねばならぬこと」の9割はやっちゃった。だから・・・

だから、やることがなくなって、退屈になってしまった。

そこで、へそ曲がりの私は、やりたいと思ったこともナイことをやってみようと考えた。

それが「旅」だ。

私はグルメどころか、世界の三大料理とか、日本各地の名物料理とか、そういうものにはなんの興味もナイ。行列の出来るラーメン屋にも行ってみたが、たしかに不味くはナイが、毎日通うてな気にはなれない。日影丈吉老師はアテネ・フランセでフランス料理のコック修業のひとびとにフランス語を教えていたが、老師はこんなふうなことを書いている。「いくら美味いといっても、店屋ものは店屋ものの域を出るということはナイ」

子供の頃から風呂が好きでなく、カラスの行水といわれた。大人になっても温泉に行きたいと思ったことはナイ。それでも、あちこちの温泉に行ったりしたのは(正月三が日は温泉というのが数年あったけど)、女性はどういうワケなのか温泉が好きみたいで、これは嫁さんサービスで、私のように三回も結婚していると、誰も行かないような温泉をまず探す、これだけは楽しみだった。

素人考古学者だったりしたら、卑弥呼の墓をあちらこちらに探し回ったかも知れないが、そこまでのめり込むことはなかった。

要するに私は「旅をする」ことが、身も蓋もなくいえば「キライ」なのだ。

劇団をやっていた頃は、巡業てなことを何年もやったが、観光をしたことはナイ。劇団員たちにとっては、巡業は楽しい。飲めるものは、各地の酒、肴。北海道、九州、いやあ、廻りましたが、私は常に翌日の舞台のことを考えていなくてはならない。だから、劇場から遠く離れたことはナイ。これが旅行嫌いに輪をかけた。

で、もとえっ。

「やってみたくもナイこと」をやることにした。

で、下北半島恐山へ行ってみた。

/亡き母の真っ赤な櫛を埋めにいく恐山には風吹くばかり/(寺山修司)

寺山さんのお母さんは、寺山さんが亡くなるときもたしか生きてらしたはずだから、前半は創作なのだが、風はたしかに硫黄の臭いのきつい風が強く吹いていた。

/仏教のインチキみたさにやってきた恐山には風吹くばかり/

と、私なら詠む。

だいたい、釈尊は「霊魂不説」と述べている。のに、仏教に霊場などというものが存在することが、現代テキ屋仏教の(といって、大昔から仏教はテキ屋仏教だったんだけど)現前たる(目の当たりに出来る)証のようなもんだ。

本尊は地蔵菩薩なのだが、ナニ菩薩にせよ、菩薩というのは修行をしてやがて如来になるモノだ。釈迦如来の場合は、シッダールタの伝記物語があるので、ああそうねえ、修行というのはこうなのね、と時間的にもワカルのだが、こっちの事実を信ずると、時間認識が狂うのも事実で、ふつう、菩薩が修行して成仏するには、十億年やそこらではすまない、気の遠くなる時間がかかるらしいから、と、すると、その菩薩は修行を開始する前は人間であったハズがなくなってくる。そんな大昔には人間は存在しないからだ。

こういうことは、臨済宗一休や、曹洞宗道元はよくワカッテいたようで、それなりの持論でそこんところは克服してらっしゃる。

まんず、仏教のインチキ暴きに旅したワケではナイので、もう理屈はこねないが、しかし、旅行中、私はずっと「オレは何のためにに旅をしているのか、それは、旅というのが何なのかをかんがえるためだ」という、社会不適応者特有の理屈思考は持っていた。

今回ワカッタこと。

 旅はタイヘン疲れる。

 やってみると案外出来る。

以上。

 

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