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2016年10月18日 (火)

百姓日記⑤

 

人生は三度笠ではナイ

 

三度笠というと、渡世人、博徒の旅人姿を映像化してしまうが、ほんとは飛脚が使った傘で、映画テレビの時代劇股旅物に出てくるヤクザの旅人の旅姿は、現実にはあんな粋なものではナイ。もっと目立たぬダサいものだ。(目立たぬように旅するんだからアタリマエ)。

~人生が二度あれば、ああっ人生がっ~と歌ったのは、井上陽水だし、「これが人生か、よし、もう一度っ」と賜ったのは(「永劫回帰」てなふうにいわれてますが)ニーチェだけれど、ニーチェの場合の永劫回帰の根拠は、単純な物理学、生物学によるエビデンスで、つまり時間は永遠につづくのだから、生物学的に人間(自分)は何度も生まれる(回帰する)可能性が在る、ということなのだが、時間は重力と等価なので、それは残念ながら叶わない、と私の論理はいう。いま在る宇宙が、まんま、再度誕生、出現することは、確率論的には限りなく0に近いと考えてよい。

たとえば、「三度目の正直」を負として考えるとする。人生が三度あるとする。しかしながら、人類はやはり三度滅亡するのが「正直」なところだし、そんなことは、いまの世界情勢を鑑みても明らかなことだから、何べん人生があっても、さほど変わるものなどナイ。世界情勢でなく個人生活なんだからと、多少の情を含めて負ではなくプラスと考えても、一度「失敗したなあ」と悲嘆に暮れた人生ってのを三度もやる気力などあるかねえ。

元劇団員が口癖のように「何が幸せか、いろいろと辛いことはあっても、北朝鮮の貧民に生まれなかったということだけでも、ものスゴイ幸せだと思う。オレは父親として子供にいい聞かせていることは、それだけ」といっていたが、5秒にひとり、子供が死んでいるのが、世界の実情だ。北朝鮮の貧民でなくても、生まれるということが幸せかどうか、ね。

私の住処の両隣は、かたや若い男性、かたや若い女性、が入居しているに関わらず、名前も職業もワカラナイ。月に一度くらいは顔をチラ観することはあるが、要するに、現代、街、生活というのはそういうものだろうと、さほど気にはしていないに関わらず、出かけるときに女性のほうの住処の表を通ると、台所のすりガラスごしに、「もみじおろし」のチューブの箱や、マジックリンのスプレーなどがみえると、『じみへん』みたいに、なんでかホッとはするのだ。両隣、若いひとだから、生活はpoorだろう。こんな家賃のマンション暮らしだもんな。(家賃のわりには、バブル時代の鉄骨ワンルームだから、結構、間取りなんかはいいんだけどね)。データを信じるならば、いまの大学生、あるいは新生活者の両親の賃金は、私がその年齢であった当時より20%低いのだそうだ。どこまで信憑性があるのかどうか、ちょっと声高にはいえないが、女子大生のアルバイトに風俗が増えているらしい。学資稼ぎらしい。大学の学費は高騰しているのだそうだ。私なんかてんぷら(ニセ学生)を二年やらせて頂いて、そんな時代だったから、得したのかなとも思う。しかし、売春やら、ブラック企業のアルバイトまでして、卒業して、〈生活〉を始めてみれば、それはそれで、キツイんだからなあ。「賢く」生きろとは、よういわん。賢く生きようとして失敗すると、「ああ、アホなことした」と気持ち沈むからなあ。だから「狡く」だ。テキトーに狡く生きる。ただし、その営為が他者を犠牲にしているのならダメ(なんでかというと、他者に悪いからというのではなくて、それは自分の気分が塞ぐから、負担になるから、という狡い考えなのだが)、んで、そうしたら失敗しても「狡くはなかったんだ」からいいか、で済むという「狡い」の幾重にもなった生き方やな。誰かて、確定申告するときには、多少のズルはしてる気になる。(けっこう、それは狡いのではなく、カシコイ節税だったりもするのだが)。

まあ、ともかく、人生は一度でエエわ。

 

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