途端調風雅⑦
エンサ~こらやっと
釈迦はこの世界が何であるのか、考えるのをやめた。たとえ、世界がどんなものであっても、そうでしかナイのだから、仕方がない。これを「不問」にした。来世や死後の世界(Afterlife)も、そうしている。
釈迦が考えたのは、/では、この世界に、人間はどう関係するのが正しいのか/だ。
では人間とは。という当然の問いがやってくる。
そうして、「そういうものなんだ」と、結論した。世界と人間についての答をlinearすると、「そうでしかナイところに、そういうものなんだ」が生きているということになる。
つまり、釈迦は欧米の哲学者たちが畏れたように「虚無」を開述したのではナイ。全肯定したのだ。ともかく認めてしまわないとしょうがナイものは、認めるしかナイ。これは後に「四諦」と称される。そこまでなら、凡人坊主にでも出来る。釈迦は、そうして、そののち、「否定」を始めた。自己と世界を否定していくにはどうすればイイか。ここから彼の真の闘い(修行)が始まる。これは、キルケゴールの説いた「絶望の絶望」や、アルベール・カミュの表現した「反抗」とよく似ている。(似ているだけで、同義というワケではナイ)。
現代のこの浮世(せけん)・・・〈社会〉といってもイイけれど、私には人間が〈社会〉などという高尚な(hyperな)システムを共有しているとは思えない・・・をmass
communicationでは「閉塞」というコトバで掴もうとしているが、ほんとうにそうか。閉じているか。塞がっているか。否、私にはそうは思えない。そういうふうにいうならば、開き方(開かれ方)がマチガッテいる(マトモではナイ)。そういうふうに開いてはイケナイのに、そう、開いてしまった。そう、開くとどうなるか。おそらく怨嗟(ルサンチマン)が飛び出す。
ニーチェをちょいと持ち出してくることにいたしますけども。
/キリスト教道徳や,そこから生まれた近代市民社会のヒューマニズムや人権の思想は、弱者の強者に対する恨みや復讐心を道徳として表した奴隷の道徳なのである。/(思想の科学研究会「新版哲学・論理用語辞典」)
/また偽りは復讐し得ぬ無力を『善意』に変え、臆病な低劣を『謙虚』に変え、命令者に対する屈従を『従順』(その方が屈従をお命じになると、彼らが言うところの者――彼らはその者を神と呼ばわる――に対する従順)に変える。弱者の歯牙なさが、その目に余る臆病さまでが、戸口に立ち尽くしていること、やむなく待たざるを得ないということが「寛容」などという都合のよい名を冠せられ、また徳でもあると見なされている。復讐し得ないということが復讐を望まないこととされ、おそらくは赦しとまで見なされている/。
/全ての高貴な道徳が、自己自身への勝ち誇った肯定から生じて来るのに対して、奴隷道徳は始めから“外部”“他者”“自己でないもの”に対して否を言う。そしてこの否が奴隷たちの[せめてもの]創造的行為なのである。この価値付与の眼差しの転回 - 自己自身へと立ち返らずに外部へと向かうこの必然的な方向 - はまさにルサンチマンに属するのである。奴隷道徳は成立するためには、いつもまず対立した外部世界を必要とするのであり、生理学的に言うなれば、そもそも行為するためには外的な刺激を必要とするのである。- 彼等の行為は根本的に反応 [反感]なのである/『道徳の系統』
これらは、ニーチェのキリスト教への痛烈な批判なのだが、現代、いまの世情、世間、そのものと酷似してやしないか。
世間は閉塞なんかしてないぞ。「怨嗟でいっぱい」なのだ。キリスト教とは何の関係もナイが、奴隷道徳によって、互いに潜在的な〈反感〉を腹の底に抱えている、という具合だ。
これは、そうなんだから仕方ない。肯定しようではないか。で、さてと、どうやって釈迦のように、この「そうなんだから仕方ない」を〈否定〉すればイイんだろうか。
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