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2016年8月31日 (水)

途端調風雅⑥

 発想トンビ

かつて大映のSF映画で、『透明人間と蝿男』(1957)というのがあって、これはタイトルほど荒唐無稽な内容でもなく、特撮も工夫されていて、いまでも充分鑑賞に耐える。んで、一気に本論に入ると、ヤクザと透明人間が闘うマンガ『アダムとイブ』(作・山本英夫、画・池上遼一)は、二巻で完結したが、発想の斬新さは驚くべきもので、物語の展開も見事だったのだが、量子力学を手品のタネにしたことで、殆どがおジャンになった。

山本英夫には『殺し屋1』という優れた作品があるし、池上とくれば大家なんだから読ませぬワケはナイのだが、五感の異常に鋭いヤクザたちを殺しまくる透明人間が何処から現れたかの謎解きに該るところで、応用物理学の博士号を18歳で取得、米国国防総省で量子コンピュータの研究をしていた、双子の姉妹を登場させ、まあ、天才リケジョということで、池上センセも、例の細胞問題でなんやかんやあった彼女を彷彿とさせる顔だちの女性を描いてらっしゃるのだが、ここで「量子の世界では、極端にいうと『月は見ているときだけ存在している』ということになるの」と発言させ、みていないときは「ゆらいでいる」と答えさせ、「分散して、透明な存在」で、「観測したときだけ粒として凝縮して存在を表すの」とさらに述べさせ、それは科学的実験でも立証されていて、アインシュタインも渋々認めていると、語らせる。これは、山本さんのマチガイというより、完全にデタラメなことだ。

まず「量子の世界では」というのは「量子力学においては」としなくては文脈が通らない。「極端にいうと」ではなく、この月についての発言は、実はアインシュタインがいいだしたことで、アインシュタインは「私はいま月を見ている。月はたしかにそこにある。しかし、私が月を見るのをやめれば、量子力学が正しければ、月がその位置にあるということはできない。こんな馬鹿なことを信じられるか」なんだけど、これは、波動関数によって求められる量子(たとえば電子)の状態が、確率によることについて、「神はサイコロをふらない」と噛みついたアインシュタインからすれば、物体がすべて量子で出来ているとすれば、とても納得出来る答ではナイ。

マンガ原作の山本さんはそれを踏襲しているのだが、参考資料に読んだ物理学の書籍が不味かったとしかいいようがナイ。マチガイというよりデタラメはいっぱいある。まず、月の問題と「ゆらぎ」とは何の関係もナイ。また「観測したときだけ凝縮」というのもデタラメで、量子の状態は、観測の影響をまったく受けない。観測と量子の動きとは何の関係もナイ。アインシュタインはべつに渋々認めたのではなく、ボーアとの熱烈な論争の末、これを受け入れたのだ。だいたい、科学者たるものが〈渋々〉学説を受諾するなどあり得ない。

月の問題について、ここにつらつら書いても、何だかワカラナイだろうから、結論だけ書いてしまえば、「月は、見ていなければ、そこにあるとはいえない」というのは、量子力学的に原理的な意味では、正しいのだが、現実の観測や日常経験では、ニュートン力学に入るため、まったく可能性はナイ。つまり、月も量子の固まりであることにはチガイナイのだが、その質量から考えて古典物理の法則に従うのは明白なのだ。透明人間が何処から来たかについては、マンガだから、納得するしかないが、『幻魔大戦』ほどぶっ飛んでいればともかく、現代ヤクザとの格闘というsequenceになると、少々首を傾けざるを得ない。その『幻魔大戦Rebirth』も、いいかげん、「並行宇宙」を「平行宇宙」と表記するのは恥だからヤメタほうがイイ。

 

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