無料ブログはココログ

« 涙、壊れているけれど⑰ | トップページ | 涙、壊れているけれど⑲ »

2016年7月10日 (日)

涙、壊れているけれど⑱

キチ がいい

 

毎月一度か二度、帰郷したときは、実家の近隣の神社で御神籤を引くのが習慣になっていて、たいてい、(一回100円なんだが)二度引いて、その中間をとるようにしている。納得がいくときは、一度。あまり良くないのを引いたからといって二度引くワケではナイ。良すぎるのもどうかと思うから、二度。で、「吉」がイイ。

やはり気になるのが「恋愛」で、極端にいえばアトはどうでもイイ。要するに女運でしょ。

「愛情を信じなさい」「ためらわず告白せよ」「将来、幸せになる」と続いているので、ここはもう、どうにもならないものは神頼み、書かれたとおりにしている。

私の場合年齢的な問題も大きいので、春を待ってはいられない。といって、焦ってカス掴んでたら、もう取り返しがきかない。そこで、「犬も歩けば棒にあたる」で、あたるを幸い、「果報は寝て待て」で、焦らず果報を待つ、と、バランスとタイミングでやってみている。まあね、恋愛にならなくてもイイんですよ。傍に女性の影でもありゃね、それで上出来。

神社へのお参り、ありゃねえ、「お願いごと」が先に立っちゃダメ。「祈願」「誓願」というのは、賽銭投げて、鈴鳴らして、手を打って、〈誓う〉のが正しい。「誓いを立てる」ワケです。そこまでは自力。アトはおまかせで他力なんです。だいたい、10円や100円で願い事が叶うワケがない。1000円でも1万円でも一緒。だいたい賽銭というのは、祈願成就したときに、ほんとうはお礼のためにするもので、願い事を銭で契約するものじゃアリマセン。誓い、自力です。願い、他力です。私なんか神社でも「自燈明・法燈明」やってんだから。何度も書きますが、「自燈明」を「自らを燈明とせよ」というのは誤訳ですよ。ほんとうは「自ら燈明としたものに向かって行きなさい」あるいは「自らの燈明と出来るものを求めなさい」です。そういう修行をしなさいなんです。で、「真理(法)となる燈明を求めなさい」なんです。これがアーナンダ(阿難陀)の聞いた釈尊の遺言(いごん)です。釈迦入滅のとき、傍にいたのはアーナンダだけです。ですからアーナンダは釈迦の遺言を聞くことになった、というより、釈迦に訊いたんです。釈迦が自分はもう死ぬだろうっていうもんだから、アーナンダ、当然の如く「師匠に死なれたら、そのアト、私たち、私はどうすればよいのでしょうか」と訊ねたんです。そこで、釈迦が応えたワケです。修行の在り方を釈迦は阿難に伝えたんです。「如是我聞」の「我」とは主にアーナンダを示します。これを、最初の結集(そこいらの弟子たちで阿羅漢以上の地位のものが、釈迦のコトバをまとめるという作業)のときに、正直に阿難くん、いうたもんやさかい、そら都合が悪おまっせ。まとめなアカンのに「自燈明」では、まとまるもんもまとまらない。そんでもって、哀れ、阿難くんは、仏教史上では悪人扱いされることになります。

つまりぃ、ほんとうの仏教(釈迦の教え)は、すでにここで終わっています。もちろん、これは私の学問した釈迦の思想においてのことですけど。

と、いうことはいまの仏教はおしなべて、インチキとまではいいませんが、釈迦の思想とは関係ありません。とはいえ、このアーナンダのコトバに耳を傾けた連中もあるにはあったんです。それが、禅宗に伝わったのではないかと仏教史は考えているようです。何故なら、〈悟り〉というものは、他宗派には存在しません。法然や親鸞が悟ったなどという話はありません。空海も最澄も、日蓮もです。(彼らが偽物だといってるんじゃありません。彼らなりの自燈明でしょうから)

恋愛も、「自燈明・法燈明」であります。「あんたが好きになったもんに向かっていきなさい」そうして「ほんとうの愛なるものを求めなさい」でございます。私はなんべんも挫折しておりますが、たかが六十三年の修行です。修行はまだまだ続けてよろしやんか。恋愛修行、六十四年目に入ります。諸法無我・・・これは、次回。

 

« 涙、壊れているけれど⑰ | トップページ | 涙、壊れているけれど⑲ »

仏教・宗教」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/558792/63895762

この記事へのトラックバック一覧です: 涙、壊れているけれど⑱:

« 涙、壊れているけれど⑰ | トップページ | 涙、壊れているけれど⑲ »