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2016年7月 2日 (土)

涙、壊れているけれど⑩

そうは、おもはない

 

/一見、何も起こらないと見える舞台の上で、笑えることがいろいろおこる。それは俳優自身の「老い」だ。度忘れ、息切れ、足のしびれ、のどの渇き、セリフを忘れた綾田俊樹に、ベンガルが優しく冷静に、「(芝居を)返しましょうか」といったのもおかしかった。ストーリーも面白い。「老い」をさらけ出しているところも面白い。だけど私は、えらそうにこう言いたいの。

 「ポール・サイモンをごらんなさい」

ポール・サイモン74歳にして、新しいことに取り組むアグレッシブな作品を出したばかりである。私はあの時、睨まれたことを忘れていない観客だ。やっぱり、客と、老いと、たたかってほしいのだ。

albinstigの日記2016-06-27

劇団東京乾電池創立40周年記念本公演 『ただの自転車屋』

 

で、私はそうは思わないんだなあ。むしろ、ポール・サイモンのaggressiveな作品とやらに、なんだか、うら悲しさを感じますね。74歳でaggressiveてのは、「最近キレる老人が多い」のと、どんだけチガイがあるのってことですよ。 

うーん、あのね、40年、40年だ。40年前の演劇(小劇場演劇と、のちに、あくまで、のちに、ですよ、称される演劇ね)が、どんな無謀と覚悟を強いられ、社会的に認知もされず、しかし、やっぱりなんか意地があったんだナ。闘ってきたと思うんですよ。人生棒に振って(というか人生から棒に振られて)、疲弊して、なおかつ、まだやろうってんだから、いまさら「老いをさらけだして」なんかいないよ。「さらけ出して」ましたかねえ、連中。私には、お地蔵さんとか仏さんが、三人して遊んでいるようで、ああ、これを還相(げんそう)というんだなあ、なんて思いながら観てたけどなあ。40年、ブレてないという自分たちの表現を、命削って、粉骨砕身、とはいえaggressiveなんかに力むことなく演ってましたよ。彼らの、役者としての、〈意識過程〉としてはそうだったんじゃないかな。けれども〈自然過程〉としては、身体は老化してますよ。アタリマエじゃないですか。だいたい、劇団東京乾電池の姿勢というのは、あるいは柄本明さんの姿勢というのは、「闘わないという、闘い方もある」じゃないんですかねえ。柄本さんに最も近い思想を持つ先達を思い浮かべると、キェルケゴールでしょ。そうじゃないですか。「絶望しろ」なんていった哲学者ですよ。その先駆者ですよ。それ以前に釈迦は「諦めろ」といってますけど。何度も書きましたが、釈迦は「では、どのように諦めればいいのか」と考えた。キェルケゴールは「絶望というのは何か」と問うたわけで、いずれにせよ、「諦めないと真理はみえてこない」「絶望しないと真理には出逢えない」というところから始めたんじゃないかな。

私はこの方(albinstigさん)のことも前回の方どうよう、知りません。たくさんお芝居観る時間の余裕と銭があるひとなんだなあというくらいですかね。まあ、「好好老」なんてのは、理想であって、そう現実に存在するもんじゃナイでしょう。むしろ、日本語の「頑固爺」のほうが多いんじゃナイかな。愛称として頑固爺はイイんでしょうけど、私なんか長生きすれば、そうなるに決まってるから。ですから、ポール・サイモンも後者のほうで、そうおっしゃってんでしょう。でなきゃ、このひと、ただの「子供」「エゴイスト」あるいは「世間知らず」「痛い目にあったことがナイ」「掃き溜めインテリ」かな。

すいませんね、私もaggressiveなもんで。

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