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2016年7月 5日 (火)

涙、壊れているけれど⑭

ロクヨン

平均余命とは、その年齢の人が平均してあと何年生きるかという統計値です。 平均寿命とは、0歳の平均余命です。 平成17年の統計値によれば、73歳男性の平均余命12.34歳で、これは「73歳まで生きた人は平均して85.34歳まで生存している」ということを意味します。

平均余命早見 - 暦くん.COM

てのがあって、本日64歳になった私の余命はアト18,88年(約19年)、つまり83歳あたりまでということらしい。釈迦は弟子三人に「人間の寿命をいうてみなはれ」と質し、最後に答えた弟子「吸って吐いてでしょうか」に対して「そのとおりや」と答えたといわれる。私は、こっちのほうが正しいように思う。何故なら、いまどきの世の中、この世間、道を歩いているだけ、レストランで飯を食っているだけで、次の瞬間には、単純なものでは暴走してきた車、政治的なものでは無差別テロで死ぬし、ちょっとハイキング的山登りにいって水蒸気噴火で死ぬし、ディスクワークをしていて、なんや頭が痛いなあと気分が悪くなってきたらくも膜下出血で死ぬし、何処で何で思いがけず死ぬか、ほんとうううううにワカランからだ。

とはいえ、可能性としては、83歳まで生きられぬワケでもナイのだが、両親の老けゆく姿を観てきたものとしては、八十代は勘弁してもらいたい。七十代ならなんとか踏ん張れるかなと、アト十年程度生きてみてもイイが、最近は、死亡診断書には書けないが、餓死というのもある。つまり銭の切れ目が命の切れ目というやつネ。私のばあい、経済余命としては、2017年12月まではいまの生活は続行可能。それから以降、maxで17ヶ月はなんとか可能という計算はしているが、ここに健康余命を含むと、セロトニン症候群と離脱症状のほうも改善はしてきているが、2020年くらいでもうイイかなと思ったり、いやあ、一休禅師は、森女を孕ませたのが七十七歳だから、出来るならそれもオモシロイかもと、欲を出したり、いままでの経験でいくと、このへんでイイんじゃないかなと覚悟すると、都合と事情が出来て、自分の意志だけではナントモならなくなったりする。そうなってくると、なんだかんだといっても、先は知れてるんだからと、面倒くさくなって、どうでもイイわ、と、判断停止に陥る。

盟友たちが多く非業の死を遂げてしまったので、生き残りとしては、というか死に損ないとしては、ぶざまにでも生きていくのが使命というか、そうでもしないと先に逝った無念の連中に悪い気がして、心苦しく死ぬのもイヤだしなあ、とため息。そこで、最近は一つの基準として、「歩く」のが不自由になったら、そこで勘弁してもらおうと、そのあたりに、軟着陸させている。

たしかにかつて、若い頃というほどでもナイが、〈死〉を恐れたことはあった。(誰だってあるでしょう)。いま、さほど死を恐れないのは、といっても、いきなりナイフや拳銃を突きつけられたら身を守るだろうけど、もう充分に生きたという疲労感、厭世観、退屈のせいなんだろう。とはいえ、千石イエスのおっちゃん(そんな事件のことなんざ、もう世間は遠に忘れてるでしょうけど)のように信者の女性から「おっちゃん、私、死にたいねん、一緒に死んでくれる」といわれて「ああ、ええよ」と、いえるほど、達人ではナイしなあ。せめて「ええけど、ちょっとその前に、日野菜で茶漬け食わせて」と、いえるようになりたいネエ。(死ぬ前に食べたいものは、と訊かれると、私は即答で、日野菜の茶漬けといいます)。

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

                             

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