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2016年7月

2016年7月21日 (木)

my favorite song

可愛い子供たち 二人で何をしているの

男の子 女の子 二人で何をしているの

赤いレンガを積んでるの

ひとつひとつ 積んでるの

遠くのお空にとどくまで 

ひとつひとつ 積んでるの

どうして お空に積んでるの

お空のむこうの天国に

とどくように 積んでるの

教えてあげるよ、子供たち 可愛い子供たち

どんなに高く レンガを積んでも 天国にはとどかない

なぜなら お空の遠くには 天国はないからさ

それなら お空のむこうには 何があるの教えてよ

教えてあげるよ 子供たち

あの お空の向こうには

お空があるだけなんだよ

だったら この 赤いレンガをどうしよう

教えてあげるよ 可愛い子供たち

赤いレンガで おうちを建てなさい

そこに 二人で住みなさい

赤いレンガのおうちに 二人で住みなさい

そうしたら 子供たち

いつか二人は大人になって 愛しあえるだろ

それから二人はどうなるの

教えてあげるよ 可愛いお二人さん

そこで こどもを つくりなさい

そこで こどもを育てなさい

するとわかるよ 可愛いお二人さん

そこが 天国だということが

それから二人はどうするの

その 天国を 守りなさい

この世の地獄から

涙、壊れているけれど・24

ドラマツルグ

 

シス・カン文学シアターvol3の稽古が始まった。

初日、顔合わせ、読み合わせ、衣装採寸。

読み合わせ一回で、寺十演出、「じゃあ、今日はこれで」とトル。これは何もceremonyなんかではナイのだ、寺十の脳髄では、読み合わせの一回で、誰にどのような演出をすればいいのか、戦略が一応描かれているワケなのよ。

今回のヒロインは、舞台virgin。ヒロインにとくに集客動員がありそうでもない、かつ初舞台の二十歳チョイの娘を持ってくるというのは、シス・カンの社長(producer)は、この文学シアターについては、ギャンブル症候群になっているとしか思えない。まさに博打、一天地六。

二日目、読み合わせ。のっけが、その少女の長めのせりふからスタートするのだが、つまりそういうprologueがあって、幕が上がるのだが、寺十、一幕に進まない。少女のせりふで「はい、ストップ」。ここからが寺十演出の真骨頂。まず、その初舞台女優に「どうして、女優になろうと思ったの」と、人生相談まがいの質問からゆっくりと〈演技というものはどういうものか〉をレクチャーするところへと、入っていく。私たちも初めて聞くそのvirgin女優の茨道。「それで、もう、ヤルことなかったから死のうと思ってたら、スカウトされて」と、こういう、固有の人生の核を寺十、絶対に手放さない。その人生をこの芝居のヒロインの人生に重ね合わせるまで、手を抜かない質問がつづく。「このヒロインの少女は、どうしてコンタクトが嫌いで眼鏡をかけているんだろう」と、その娘に〈考えさせる〉のだ。ともかく、答はいわない。「眼鏡って、何だろうね」、考えさせる。これはどの役者についてもそうなのだが、考えさせる。~台本を読む~ということは、どういうことかという、それ、ヤッてんのね。

つまり、ブレないcharacterを(ふつう役作りとかいいますが)、その場で考えさせながら創っていく。単純に個々人が勝手に考えるのではなく、役と役との関係の中で、その上で考えさせて、創っていく。ちなみに、冒頭一枚の少女のせりふに対する質疑応答は休みなく90分。そりゃそうですよ。Virginなんだから。初舞台なんだから。「演技というのは上手にやんなくてもいいの、じゃあ、どんな演技がイイ演技なんだろ」と、私ならレクチャーしてしまうのだが、寺十は、そういうことはいわずにそういうことをねじ込んでいくのヨ。役者を手込めにする演出家もいるけれど、寺十はまったくドラマツルグが違う。強姦を和姦にしちゃうのよねえ。他の役者さん、待たされて辛いだろうけど、これ、傍で聞いてるオレなんかもう、面白くてタイヘン。Virgin女優の初舞台娘が、次第に芝居というもの、演劇というものにのめり込んでいく様子がワカルから、ワクワクなのよ。目つきがオドオドから、興味津々のキラキラになっていくのを観て思わず、ニコニコ。

 

とばかりはしてられません。

五時間半の稽古二日目を終わり、やっと帰途。メトロに乗る。意識混濁してんのがワカル。こうなったら倒れてなるかの意地だけで、新幹線に座って、辿り着いた思いで血圧だけ測定してみれば、150をこえてる、下がこれまた110の大特売、脈拍は125ときた。

セロトニン症候群とその離脱症状との合わせ技で、日々、痛みと痺れの中で生きてんのが不思議なんだけど、スゴイね人間てのは、性欲(というより生殖欲かな)亢進して、なんでもイイ、誰でもイイってワケでもナイけど、ちょいと好みのタイプを観ると、孕ませたくなるんだねえ。牡の本能ってやつかねえ。

2016年7月16日 (土)

涙、壊れているけれど・23

宣戦布告の美奈子さん

 

斎藤美奈子さんのホンはしさしぶりです。ご無沙汰してました。『学校が教えないほんとうの政治の話』最新刊です。2016/07/10初版ですから、ついこないだです。体裁は〈学校が〉とタイトルにあるように、選挙権が18歳からになった、そんで、きみら、きみらにいいたいことがある。です。しかし、それはあくまで体裁、建て前。これは美奈子さんの〈宣戦布告〉です。誰に対して、何に対してか。

一読すればワカリマス。このホンを「えらく薄っぺらいなあ」と失笑する連中がいるはずです。いえいえ、ホンは書籍としても新書で207ページ、薄くはありません。内容が表層的、表面的、大雑把で薄っぺらい、と鼻で笑うものどもが在るのはマチガイありません。しかし、薄っぺらいのは、このホンの内容ではアリマセン。このホンに書かれた「政治」というもの自体がほんとうに「薄っぺらい」のです。私たちに、このホンはその薄っぺらさを教えてくれます。そうしてそれは、ガッコではじぇったいに教えてくれないことです。

~政治に「中立」はありえない~と、のっけはここからです。そうして「あなたはどっちなの」と迫ってきます。美奈子さんはエピローグでいいます。「したり顔で、いまはもう右だ左だというイデオロギーの時代ではない」「ほんまかいな」「いささかむっとした私はつい口をすべらせた」「だったら右だ左だという本を書いてやらあ」「すべてのスタートは〈こんちくしょう〉です」。

ほんとうならこの〈こんちくしょう〉のアトには「もんくのあるヤツは、くるならきやがれっ」とつづくんだと思います。

そこで、「えー、お釈迦様はどっちでもない中道というものを」という仏教者はアホですね。美奈子さんははっきりと「政治には」といいきっているからです。

じゃあ、私はどっちなのか。私のような渡世のものにも、中立はありません。ただし、いつも右、いつも左でもありません。草鞋をぬいだ親分が右なら右、左なら左になります。白を黒だといわれたら、白は黒です。私どもの大親分は、天皇陛下です。それが、おい、誰が絵を描いとんじゃ。改憲勢力が有利に立ったら、今上天皇が「生前退位」を希望、ときた。皇后陛下も、ともに、いまの日本国憲法はヨシとされている。ジャマモノは消せか、上等じゃないの。天皇の戦争責任、ありますよ。私はあると考えています。しかし、それは、1946年の「人間宣言」で「現人神」を自己否定することによって、一応のケリはつけられ、その後の平成天皇、皇后の平和的活動において、まさにその粉骨砕身の罪責活動において涙ぐましく、償われていってるじゃん。

用意周到、だよなあ、現状権力。まず第一次安倍内閣において、「教育基本法」を改正、ここから「愛国教育」が復活する。第二次の2013年は「特定秘密保護法」ときて、ヤバイ連中は、ひっ捕まえられるようにする。そうして、2014年が「集団的自衛権」だ。個的自衛権で出来ることを大袈裟に、「積極的平和主義」たあ、よういうたもんや。オレは、自衛隊は違憲だとは思ってません。9条にも抵触していないとかんがえている。日本国憲法は自衛権まで否定していません。「戦争放棄」とは、9条に示されているように、「国権の発動による」戦争の放棄だからです。日本国は法治国家ではないんですよ。法がひとを治める国ではナイんです。それは、中国あたりの国家権力のことざんしょ。日本は立憲国家です。人権が国家、法、より上位にある国です。

この間に、マスコミ、報道は「規制」と「恫喝」によって骨抜きにされる。鬱陶しいインテリは、公明党が自民党に代わって手を下す。(だって、選挙の確定得票確保以外に、公明党が出来ることって他にあんのかよ)。

そうして、いよいよ改憲だけど、すぐにはやりません。すぐにやったら、いくらなんでも国民は訝しむのに決まってる。「調子にのるな」といわれるに決まってる。自民党、そんなにバカじゃありません。じゃあ、いつやんの。東京オリンピックがあるじゃありませんか。2020年です。国民はお祭騒ぎだ。その浮かれさなかに、やっちゃうね。それまでの四年間は、改憲のための世論誘導。誰だって四年かけられりゃ、洗脳されますよ。そいで、オリンピックだ、ワーイ、なんだから。憲法、いいじゃん、ついでだ、めでてえうちに、捧げツツ。

こういう趨勢、風潮、傾向に、美奈子さんは「宣戦布告」したんだと思います。貧者の一灯ならぬ、物書きの一筆。です。

余命僅かになったというものの、地獄をみながら死にたくはナイんで、さて、さて、だ。難しいパズルです。

2016年7月15日 (金)

涙、壊れているけれど・22

シェキニンシャ 出てこいっ

 

いよいよ世間も気がつき始めたみたいですね。近隣に二階建ての大きな書店、あるんですが、私は書店では本は買いません。けれど、見学にはいきます。そうすると、いま、世間の方々がどんなものに興味をお持ちなのかがワカル。

最初は「こころの風邪」なんていわれていた「うつ病」が、とんでもナイ、エイズやデング熱より恐ろしいという告発本が幾種類か平積みされだした。何が恐ろしいって、要するに医療関係者の〈無知〉とマチガッタ治療。それによって患者は壊れる、人生はパーになる。

私、40年患ってますが、治らない。けっきょくセロトニン症候群になっちゃって、いまセロトニンの減薬を苦行中。

ついこないだ、火曜日、主治医と9㎎の一日二回で、なんとかうまいこといきそうですな、てなミーティングをしたばかりなのに、たしかにうまいことバランスをとってたのに、ゆんべ、いきなり、キツーイ離脱症状がきて、ウディ・アレンの映画(DVD)観てたんだけど、どうも様子が変、話がワカラナイ、気分が悪い、これは、と、血圧を測ったら、上がってる、頻脈110。意識はハッキリしているんだけど、なんだか貧血しているように、集中が出来ない。そのうち意識も薄濁(てな熟語になっていく)。

救急車呼んでも、病態を説明するのが面倒だな。しょうがねえな、セロトニン3㎎投与、βブロッカー25㎎投与。これでダメならそれまでだ。そこで、気になったのが、来週月曜のシス・カンパニー稽古初日。もちろん、東京に行く予定。これ、本番も観られないのかな。ここで倒れたら無理だろうな。デートはどうなる。あの娘、楽しみにしてたのに、すまないな。

よし、まず、この病態について書いて、いざとなったら、それを救急病院でみせて、それで、医師の反応を観て、知識の具合を推察して、こいつはアカンと解したら、逃げて帰ろう。と、パソコン打鍵してんだから、執念ですね。

ふらつきながら、三回トイレいって、ともかく何か出せば少しはマシかと。でも出ないね。

これからいろいろと、私の関係している催しあるのに、そうか、残念無念。

横になるとよけいにひどくなるから、椅子にもたれて、ちょっとマシになって、試しにビデオの続きを観始めたら、また、クラクラクラ。ほんと、死ぬってのは吸って吐いてだなあ。

生きてますけど。

2016年7月14日 (木)

涙、壊れているけれど⑳

終わるんじゃなく消えるんだよ

 

永六輔さんには同世代という意識が薄いので、その死についての痛みはナイが、ザ・ピーナッツ、妹のユミさんもお亡くなりになって、4年ほど前に姉さんのほうのエミさんが他界されているので、これは、キツイわ。「しゃぼん玉ホリデーっ、なにがなんだかピーナッツ」という声は、いまでも聞こえてきます。

75歳、まあ、女性としては早いほうじゃないのかねえ。余命計算しても、アト5~10年くらいはあったんじゃないのかなあ。しかし、七十代のザ・ピーナッツを観たいとはとうてい思えない。こういうところって、美形だった女性って損だよなあ。

で、どんどん昭和が、私(たち)の時代が終わっていくてなこと思ったけど、どうも、チガウんだな。「終わる」んじゃナイのよ。そう、「消える」の。「消えていくの」私(たち)の時代が。うん、消えていくの。そこで、なるほどそうなのか、時代というのはその当時の世相、世間ではなく、当時生活した、固有、個人が所有、背負っていたものなのかと、初めて気づいた。タトゥー(刺青)のように背負ってんだ。(いまどきの若い子や外人さんがやってるあのババチイ、汚いデザインいれずみ、あれ、なんとかなんないのかね。刺青って美しいもんですよ。日本の芸術文化ですよ。あんな焦げ跡みたいなもんじゃアリマセン)。

塾のレクチャーで、戯曲の塾ですから、昭和の時代の俳優、女優、歌手、芸人の名前出しますよね、うーん、知らないんだよ、塾生が。これはgeneration gap じゃありません。勉強してないだけなんだ。私だってディック・ミネさんが『人生の並木道』歌うの、リアル・タイムで聞いたことナイもの。と、書いた瞬間、ちょっと待て、大東亜戦争において、太平洋戦争では、日本軍はアメリカと戦っているのだが、日本軍が中国大陸で戦った相手って誰なんだ、と、ふと疑問に思ったら、容易に答えられない自分に唖然とした。なんだ、オレも勉強不足じゃないか。たしか、蒋介石の国民軍とは戦ってたよな。けど、八路軍てのは共産ゲリラで、こっちのほうが手強かったんじゃなかったっけ。で、国民党の中国軍との関係はどうなってたんだっけ。だって、この9月に中国のほうじゃ、「攻日戦争勝利の記念パレード」をこともあろうに、あの天安門広場でやるらしいじゃん。なあ~んかねじれてんなあ。

ということで、ともかく調べました。その結果はここに記すとややこしいんで、記しませんが、概ね、八路軍は共産軍としてゲリラ戦術を展開していたようです。とはいえ、国民党の軍の組織下にあります。で、ゲリラ戦術ですので、(こちらは行きつけ毛沢東がヘッドですが、司令官ではありません。それは別におります)こっちのほうが手強かったようです。としか答えられないのは、諸説紛々あるからで、だいたい、中国戦線の戦闘というのは、ハッキリ歴史的事実として残っていないことのほうが多いワケ。そりゃ、あんた、『源平盛衰記』のようには、いきませんよ。

さてと、うん、勉強してませんね。だから、慰安婦問題とかゴチャゴチャいわれるんでしょう。「性奴隷」って、ピンク映画のタイトルみたいにいわれてるけど、そんじゃあれかい、いまのフーゾクのお姉さんや、アダルト女優は、ありゃ「性奴隷」かい。それが年間400億円も稼いでらっしゃるのかなあ。奴隷ってただ働きじゃナイの。

えーと、そういう話をしたかったんじゃないノヨ。消えていくんですよ、時代が。オレだって死んだら、一つ時代が消えるんだから。偉そうにいってんじゃナイのよ。もちろん、オレの時代が消えるってことですよ。ああ、ため息。

ちょっと恋でもしにいこうっと。

2016年7月12日 (火)

涙、壊れているけれど⑲

死ぬことに平等などナイ

 

第24回参院選があって、与党が勝って、権力は磐石、つまり「アベノミクス」は正しかったらしく、にしては、なんだかいろいろな矢を、安倍総理は何本か射たらしいけど、で、当初は庶民大衆にその成果による影響が出始めるのはしばらくアトで、時間がかかるというようなことをニュースやバラエティなんかで耳にしたけど、だいぶ時間は経ってると思うんだけど、特に変わったことはなく、不況で貧乏で、失業者いっぱいで、仕事なくて、けど、与党が勝ったんだから、「アベノミクス」は正しいと有権者は判断したんだろうし、これからは「積極的平和主義」になって、現政権による改憲はマチガイなくあるだろうし、それにも有権者は賛成したんだから、そうすると、私は政治には素人だけど、こういう芝居なら創れるなと思ったことをいうと、この不況とか、貧乏人を救済するには、「積極的平和主義」といのは都合がイイので、食い詰めたひとは、みな、自衛隊に入れるようにすればイイ。徴兵というのではナイ。貧困救済だ。自衛隊マルヒ部隊。このマルヒは秘密の「ヒ」なのではなくて、もちろん「貧困」の「ヒ」だ。もちろん、「弾除け部隊」だから、さほどの訓練など必要ナイ。「囮部隊」だから、カッコだけつけとけばイイ。とはいえ、貧乏人の中にも頭脳明晰、あるいは体技優秀なのもいるだろうから、そういうのは選抜して、まともに訓練して、適材適所。そうすると、いろいろと経済問題も解決するだろうし、というのは、戦争というのは銭になるのだ。銭になるから、世界のあちこちでやってんですよ。正義とか主義主張とか思想とかは、アトヅケでよろしい。武器は売れる。瓦解した町を建築しなおすのに、土木産業が必要になる。葬儀屋は儲かる。兵隊さんたちのためにフーゾクも必要だろうから、そのての店もハンジョウする。兵隊さん飯食うから、食材産業も潤う。情報科学戦争だから、そのてのIT産業も金回りがよくなる。なるほど「アベノミクス」というのは「積極的平和主義」とガッチリ手を組んでの戦略だったか、それなら有権者も賛同するよな。

「しかし、ひとが死ぬんですよ」ひとなんて、毎日死んでるし、誰だっていつかは死にますよ。「あなた、あなたの入れた一票に責任持てますか」「あのね、日本国憲法第三章、国民の権利及び義務、第十五条4項読んでごらん。一票にはなんの責任もナイってこと、ワカルから」「つまり、貧乏人は死ねというのっ」「チガウ、チガウ、死ねなんて誰もいえないよ。死ぬしかねえなあ、と、そう思うだけよ」

まあ、オレなんか、余命を考えたら、別にどうってことないんだけど、これからの若い人はちょっと気の毒だとは思うね。 

と、そういう芝居、ね。でも、オレは創らないよ、こんな誰もがかんがえつきそうで、誰でも創れそうな芝居なんて。

なんだかなあ、老い始めてから、地獄みなきゃなんないのかよ。後味悪いねえ。もちっと頑張ろうかなぁ。せめて犬死にしないように。

2016年7月10日 (日)

涙、壊れているけれど⑱

キチ がいい

 

毎月一度か二度、帰郷したときは、実家の近隣の神社で御神籤を引くのが習慣になっていて、たいてい、(一回100円なんだが)二度引いて、その中間をとるようにしている。納得がいくときは、一度。あまり良くないのを引いたからといって二度引くワケではナイ。良すぎるのもどうかと思うから、二度。で、「吉」がイイ。

やはり気になるのが「恋愛」で、極端にいえばアトはどうでもイイ。要するに女運でしょ。

「愛情を信じなさい」「ためらわず告白せよ」「将来、幸せになる」と続いているので、ここはもう、どうにもならないものは神頼み、書かれたとおりにしている。

私の場合年齢的な問題も大きいので、春を待ってはいられない。といって、焦ってカス掴んでたら、もう取り返しがきかない。そこで、「犬も歩けば棒にあたる」で、あたるを幸い、「果報は寝て待て」で、焦らず果報を待つ、と、バランスとタイミングでやってみている。まあね、恋愛にならなくてもイイんですよ。傍に女性の影でもありゃね、それで上出来。

神社へのお参り、ありゃねえ、「お願いごと」が先に立っちゃダメ。「祈願」「誓願」というのは、賽銭投げて、鈴鳴らして、手を打って、〈誓う〉のが正しい。「誓いを立てる」ワケです。そこまでは自力。アトはおまかせで他力なんです。だいたい、10円や100円で願い事が叶うワケがない。1000円でも1万円でも一緒。だいたい賽銭というのは、祈願成就したときに、ほんとうはお礼のためにするもので、願い事を銭で契約するものじゃアリマセン。誓い、自力です。願い、他力です。私なんか神社でも「自燈明・法燈明」やってんだから。何度も書きますが、「自燈明」を「自らを燈明とせよ」というのは誤訳ですよ。ほんとうは「自ら燈明としたものに向かって行きなさい」あるいは「自らの燈明と出来るものを求めなさい」です。そういう修行をしなさいなんです。で、「真理(法)となる燈明を求めなさい」なんです。これがアーナンダ(阿難陀)の聞いた釈尊の遺言(いごん)です。釈迦入滅のとき、傍にいたのはアーナンダだけです。ですからアーナンダは釈迦の遺言を聞くことになった、というより、釈迦に訊いたんです。釈迦が自分はもう死ぬだろうっていうもんだから、アーナンダ、当然の如く「師匠に死なれたら、そのアト、私たち、私はどうすればよいのでしょうか」と訊ねたんです。そこで、釈迦が応えたワケです。修行の在り方を釈迦は阿難に伝えたんです。「如是我聞」の「我」とは主にアーナンダを示します。これを、最初の結集(そこいらの弟子たちで阿羅漢以上の地位のものが、釈迦のコトバをまとめるという作業)のときに、正直に阿難くん、いうたもんやさかい、そら都合が悪おまっせ。まとめなアカンのに「自燈明」では、まとまるもんもまとまらない。そんでもって、哀れ、阿難くんは、仏教史上では悪人扱いされることになります。

つまりぃ、ほんとうの仏教(釈迦の教え)は、すでにここで終わっています。もちろん、これは私の学問した釈迦の思想においてのことですけど。

と、いうことはいまの仏教はおしなべて、インチキとまではいいませんが、釈迦の思想とは関係ありません。とはいえ、このアーナンダのコトバに耳を傾けた連中もあるにはあったんです。それが、禅宗に伝わったのではないかと仏教史は考えているようです。何故なら、〈悟り〉というものは、他宗派には存在しません。法然や親鸞が悟ったなどという話はありません。空海も最澄も、日蓮もです。(彼らが偽物だといってるんじゃありません。彼らなりの自燈明でしょうから)

恋愛も、「自燈明・法燈明」であります。「あんたが好きになったもんに向かっていきなさい」そうして「ほんとうの愛なるものを求めなさい」でございます。私はなんべんも挫折しておりますが、たかが六十三年の修行です。修行はまだまだ続けてよろしやんか。恋愛修行、六十四年目に入ります。諸法無我・・・これは、次回。

 

2016年7月 9日 (土)

涙、壊れているけれど⑰

たかが とんびを

⑮で、「たかが歌手」って書いたでしょ。ああいう文言については、~いや、そのひとは歌に命を懸けてんだっ~、て反論あってもイイんですよ。けどね、大衆なんて、みんな食うことに命を懸けてんの。誰だったか、あんまり有名でもナイ哲学者(というか、哲学教えていたガッコのセンセくらいかな)がね、マルクス主義が興隆していた時節です、そんな時代にですね、ふと、ね、「階級闘争とか、資本家の搾取とか、労働者の運動とか価値とかいうけども、要するに、食えなくなると人間てのは死ぬしかナイから、けっきょくのところ、死ぬのがイヤだから、働いてんじゃないのかな」と、遠慮がちに述べたことがあったんです。そりゃそうだなあと、当の時代のインテリはみなさん、そう思ったろうけど、口には出さなかった。ところが、後々にですね、これが、「構造主義」「ポスト構造主義」の発展の糸口になるんです。

レヴィ・ストロースはサルトルと論争して初めて勝ったんです。逆にいうと、サルトルはマルクス主義者として、レヴィ・ストロースと論争したんだけど負けたの。負けたら、著作は売れなくなって、ジャーナリズムの仕事もなくなって、失業して、けっきょく「おれ、飢え死にしちゃうよ、助けてくれ」って、ボーヴォワールに手紙書いてんですけど、飢え死にではなくて、病気で死にましたけどね。んで、論争に負けたといわれてますが、専門家にいわせると、レヴィ・ストロースのサルトル攻撃(『弁証法的理性批判』を批判したらしいんですけど)は、トンチンカンで、サルトルも反論のやりようがなかったというのが、ほんとうのところじゃないかといわれてますね。つまり、貧乏くじ引いたワケだよね。

レヴィ・ストロースが、主著で何をいったかといえば、文化や歴史は欧米(この場合はヨーロッパ)だけにあるものではナイ、とまあ、そういうただけですワ。だから、このヒトの著作には『悲しき熱帯』とか、なんつうか、ヨーロッパ文明、文化や歴史以外のところをfieldworkして書いたってのが多くて、それが強みなんです。なんで〈強み〉かというとね、たとえば、ハイデガーにしても、人間というのは、他の動物とチガッテ、環境(カントがcategoryとして分類したようなモノですが)を、本来のものではないように使うことが出来るんだ、と、(これは、アリストテレス哲学に対する批判なんですが)早い話、パソコンのディスクトップで、他人の頭をぶん殴ることだって出来ると、だから現存在てなふうに呼称してんですが、それらの哲学は、つまるところ総て物理学でいうところの思考実験にしか過ぎないんです。理屈ではアリストテレスを批判してますが、実際にディスクトップで頭をぶん殴らせたワケじゃアリマセン。目の前にいろんな道具や果物でも、なんでもいいや、並べて、さあ、この人間はそれをどう使うか、なんて実験なんてやった例はナイ。ところがfieldworkはそれをやる(というか観察する)んです。

驚くべきことにチンパンジーなんかは、ヒトですから、ジャック・ラカンの提唱理論の「鏡像段階」と似たようなことをして、鏡の中に映っているのは「自分だ」と認識するという、観察もなされてます。つまり「自我」を鏡で認識出来るワケ。

とはいえですね、レヴィ・ストロース時代のfieldworkは、いまとチガッテ、甚だ稚拙なものだったらしく、レヴィ・ストロース自身、それほど厳密にfieldworkなんてしたワケではナイということは、現在の哲学の常識です。

けれども、彼が提唱した「構造と体系」は、ミシェル・フーコーなんかにも影響を与えてます。これはですね、難しくはよういわんけんど、マルクスなんかの歴史主義的世界観とはチガウ、歴史への切り込みなんです。ですから、さっきのサルトルとの論争にもどりますけど、レヴィ・ストロースはサルトルに「実存、なんやねん、それ。そんなもんたいしたことあれへん。問題は、自身がどんな構造の中にいて、構造の中でどう変容していくかや。この変容にはシステム(体系)があんねん」と、こういったんです。

これは、マルクス主義唯物史観に対する、圧倒的批判でした。サルトルは「あいつのいうとることは、ブルジョア哲学の最後で最大の挑戦であり、しかし、難敵や」としかいえることがなかった。そりゃそうでしょ。システムなんかが存在するとしたら、弁証法はアッパッパです。たとえば「生物は弁証法的に進化してきたのか、あるシステムによって進化してきたのか」という大問題になるんです。

ああ、ちょっと離脱症状から逃れる時間が持てた。チガウことに集中してナイと、キツウてたまらんからな。

2016年7月 8日 (金)

涙、壊れているけれど⑯

なるほど、朝日か

 

『悪人』をDVDで観て、たぶん、原作はイイんだろうと思ったし、映画だって真面目につくってんだから、悪くないはずなんだけど、どういったらイイんだろ。これ、弘兼憲史さんの『人間交差点』くらいの尺で、さらさらっと読んでたら、胸に迫る感動もんだったろうなと、つまりね、あのね、チャーシューメン頼んだら、フルコースの中華料理が出てきて食わされたみたいな、そんな感じなんですよ。あれだけ贅沢なキャスティングすれば、どんな監督が撮ったって、そこそこの映画にはなりますよ。みいんなハマリ役だし、そのうえ、キチンと演技されてますし、とにかく上手い俳優さんばっかりだから、ね、だからね、ああこりゃよく出来た「お話し」だなあって、な~んか、職業柄そのぶん〈ウソくせえ〉という心情というんですか、嗅覚がして、コミックスの虚構ならこれで充分なんだけど、実写となると、出来すぎ創り過ぎは良くねえなと、そいで最後に流れるロール観てたら、なんだ、朝日新聞のイッチョカミかよ。そいで、すううっと納得出来ましたんっ。何がって、ナニカがですけど。同業種としていうなら、ラストシーンのタクシーの中のせりふは必要なかったなあ。女が献花する、そこで遺族とすれ違う。この映像だけで語れますよ。なのに、そこにレクチャーみたいせりふが入る。あれが、朝日新聞なんだよなあ。ちゃんと面(つら)出してやんの。

長崎が舞台か。なんだか、江戸の仇を長崎で、になったみたいで、このブログも味が良くないなあ。

2016年7月 6日 (水)

涙、壊れているけれど⑮

ロウカ と思う

 

朝っぱらから電話が入って、昨日取材で京都へ仕事で出かけていたA女史が「暑さと、また風邪を引いて・・・」今夜予定の食事会には欠席の連絡。このひとは年間300日は風邪を引いているひとだし、きっとクーラー風邪というアレだなあ。京都は蒸し暑さが尋常じゃナイから、今夜は無理だろうと昨日彼女が出かける前に予想していたので、「ああ、いいです、いいです」と返事。私よりたしか二つ上だから、気持ちは少女でも、老化は容赦なく、熱中症で倒れなかったのがなにより。

 

私のばあい、還暦を過ぎたあたりから老化というものを如実に体験してきたが、イチバン困っているのは〈耳〉なのだ。いわゆる難聴というもので、これは耳鼻科で聴力検査を受けたことがあるが、異常はなかった。けれども、あの聴力検査はあまり科学的ではナイと思う。聞こえてくるのは「音」なのだから。

いまでも、「音」はちゃんと聞こえる。(ただし、どういうワケか蝉の声はダメだ。まったく聞こえない)。ただ、低音難聴と遅延難聴というものがあって、低音難聴は、低音の「声」がワカラナイ。これはDVDを何度か戻して耳を近づけても、ワカラナイ〈声〉はワカラナイ。それと、遅延難聴は、相手が早口の場合に起こる。聴力がそれを聞き取っても、脳内で「声」に変換するのに〈0,5から2Second時間がかかるのだ。私たちは一種のテンプレートを利用するような感触で音声を記憶している部分がある。「おはようございます」は、ハッキリそう聞こえなくとも、そのように理解出来る。「おあおうさいあす」といわれても「おはようございます」と聞き取ることが出来る。しかし、早口で何かいわれると(たとえば、コンビニのレジ店員氏などは、マニュアルどおり喋っているものだから、必ず早口になる)聞き直すというより、その音を脳内で変換する操作に時間をとられてしまう。「袋はどうされますか」というこれだけのいつものコトバを早口でやられると、音は捉えられているのだが、「ううおあとおあえうか」になる。ここから「記憶」が「袋はどうされますか」を探索するのに〈0,5から2Secondかかる。たとえば「ありがとうございました」も「あとうました」といえば、たいていのひとは「ありがとうございました」に変換する。演劇の仕事で韓国に行ったとき、食事で店に入ると「アンニョンハセヨ」と店員はいっているのだが、それは予めこちらがそういう韓国語を知っているからそう聞こえるワケで、韓国語はまったく知らないスタッフのひとりは、「ちゃんと、日本人にはイラッシャイマセというんだなあ」と驚いていた。彼の耳はそう(変換して)聞いているのだ。

吉本さんが、ワードプロセッサーの(活躍した時代に)キイボードについて、文字数はもっと少なく出来るという提案をされたことがあった。まず「あいうえお」は、そのままで、次の「かきくけこ」は「くぁ、くぃ、くぅ、くぇ、くぉ」と、すれば、か行は「く」だけで済む。同じように、さ行は「す」だけだ。た行は「と」だけ。と、まあ、これは、『涙、壊れているけれど⑨』で慰み物にしたアホに対しての、音声としての言語のレクチャーにもなっているかな。つまり、・・・「夢を」は「ユメヲ」であって「ユウメヲ」ではナイ・・・のではナイ。正確に音声言語論的に扱うと「夢を」は「ィウムェウォ」であり、「燃ゆる」は「モユル」ではなく「ムォイゥルゥ」になる。これが「歴(れっき)とした」日本語の音声言語の特徴だと考えてイイ。プロの歌手に対して、「出直せ」というからには、それなりの言語学を勉強してからにしたほうがイイ。エビデンスもなしに、伊藤久男センセとかいう、たかが歌手に「勝手に」寄り添って、聞きかじり学問しかナイ、チンピラふぜい、三下インテリのバラケツが、ゴロまくから、私の精神疾患の症状のaggressiveに慰み物にされるのだ。

なんなら、コトバにおける「書き体(文書体)」「語り体(話体)」「歌い体(歌謡体)」について、訓戒、教示してあげてもイイが、そうなると銭とらないとな。

2016年7月 5日 (火)

涙、壊れているけれど⑭

ロクヨン

平均余命とは、その年齢の人が平均してあと何年生きるかという統計値です。 平均寿命とは、0歳の平均余命です。 平成17年の統計値によれば、73歳男性の平均余命12.34歳で、これは「73歳まで生きた人は平均して85.34歳まで生存している」ということを意味します。

平均余命早見 - 暦くん.COM

てのがあって、本日64歳になった私の余命はアト18,88年(約19年)、つまり83歳あたりまでということらしい。釈迦は弟子三人に「人間の寿命をいうてみなはれ」と質し、最後に答えた弟子「吸って吐いてでしょうか」に対して「そのとおりや」と答えたといわれる。私は、こっちのほうが正しいように思う。何故なら、いまどきの世の中、この世間、道を歩いているだけ、レストランで飯を食っているだけで、次の瞬間には、単純なものでは暴走してきた車、政治的なものでは無差別テロで死ぬし、ちょっとハイキング的山登りにいって水蒸気噴火で死ぬし、ディスクワークをしていて、なんや頭が痛いなあと気分が悪くなってきたらくも膜下出血で死ぬし、何処で何で思いがけず死ぬか、ほんとうううううにワカランからだ。

とはいえ、可能性としては、83歳まで生きられぬワケでもナイのだが、両親の老けゆく姿を観てきたものとしては、八十代は勘弁してもらいたい。七十代ならなんとか踏ん張れるかなと、アト十年程度生きてみてもイイが、最近は、死亡診断書には書けないが、餓死というのもある。つまり銭の切れ目が命の切れ目というやつネ。私のばあい、経済余命としては、2017年12月まではいまの生活は続行可能。それから以降、maxで17ヶ月はなんとか可能という計算はしているが、ここに健康余命を含むと、セロトニン症候群と離脱症状のほうも改善はしてきているが、2020年くらいでもうイイかなと思ったり、いやあ、一休禅師は、森女を孕ませたのが七十七歳だから、出来るならそれもオモシロイかもと、欲を出したり、いままでの経験でいくと、このへんでイイんじゃないかなと覚悟すると、都合と事情が出来て、自分の意志だけではナントモならなくなったりする。そうなってくると、なんだかんだといっても、先は知れてるんだからと、面倒くさくなって、どうでもイイわ、と、判断停止に陥る。

盟友たちが多く非業の死を遂げてしまったので、生き残りとしては、というか死に損ないとしては、ぶざまにでも生きていくのが使命というか、そうでもしないと先に逝った無念の連中に悪い気がして、心苦しく死ぬのもイヤだしなあ、とため息。そこで、最近は一つの基準として、「歩く」のが不自由になったら、そこで勘弁してもらおうと、そのあたりに、軟着陸させている。

たしかにかつて、若い頃というほどでもナイが、〈死〉を恐れたことはあった。(誰だってあるでしょう)。いま、さほど死を恐れないのは、といっても、いきなりナイフや拳銃を突きつけられたら身を守るだろうけど、もう充分に生きたという疲労感、厭世観、退屈のせいなんだろう。とはいえ、千石イエスのおっちゃん(そんな事件のことなんざ、もう世間は遠に忘れてるでしょうけど)のように信者の女性から「おっちゃん、私、死にたいねん、一緒に死んでくれる」といわれて「ああ、ええよ」と、いえるほど、達人ではナイしなあ。せめて「ええけど、ちょっとその前に、日野菜で茶漬け食わせて」と、いえるようになりたいネエ。(死ぬ前に食べたいものは、と訊かれると、私は即答で、日野菜の茶漬けといいます)。

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

                             

2016年7月 4日 (月)

涙、壊れているけれど⑬

古い上着よ サヨウナラ

 

自転車でね、ちょっと繁華街のほうのスーパーに買い物にいくときもあるんですが、その日は(って、今日か)なんだか「青い山脈」って歌が口から出ちゃって、つい口ずさみながら、そうかあ、池部良(享年92歳)さんが、女生徒たちに交じって自転車乗ってたなあ、それでだなあ、と、まあ、映画は観てないけど、あの頃にはあの頃の青春があったんだよなあ、と、またアドレッセンスに酔ってました。きょうは離脱症状がイヤ~な感触だから、そういうときは、ミスタッチが多くて書くのもタイヘン。頓服の痛み止め、これ麻薬成分が入ってるからっていわれてんだけど、それにしては効いてくれないんだよな。昨日は、離脱症状が出なくて、人間というのは健康なときはこんなに気分がイイもんなんだなあと、思ったりしてたんだけどね。

で、いつも聞いてるラジオの歌謡番組の時間が来て、いつもなら昼寝を30分ばかりしながら聞くんだけど、離脱症状でけっこうキツイもんだから、ベッドでコロコロしてたら、その日は「青春歌謡の特集」とやらで、「青い山脈」が流れだして、おや、シンクロニシティかよ、と、眠れそうになかったから起き出して、これ書いてんの。

世界のあちこちで、ISが自棄になってるみたいで、ああいうのはどうなんだろうかな、殺し始めると、もう止まらなくなってしまうんだろうか。テロがもう目的化してるってふうだな。とにかく腹に爆弾巻いて、人込み入ってドカンというのは、何の訓練も要らないという、戦術もへったくれもナイ。自動小銃二、三丁持って、店で乱射というのも、カラシニコフだから、子供でも1時間の訓練(というほどのものでもナイ)受ければ、10人や20人殺せる。

四十代の頃、護身術の代わりに傭兵の訓練書を買ってきて勉強したことがあるけど、映画やなんかとチガッテ、やはり戦線の現場ってのは現実的で、いわゆる格闘術は役にたたないてなことが書かれてありました。デンゼル・ワシントン主演の『イコライザー』(アメリカ・2014)では、武器なんか何一つ持たずに敵のアジトだか事務所だかへ出向いていって、まず、部屋の様子を観察して武器になるものをシミュレーションで物色、何秒でどう動いて誰をどんなふうに倒すかもシミュレーション。で、そのとおりにヤっちゃう。この戦闘術は、傭兵の戦闘としても「敵と対峙して丸腰の場合、ともかく、まず武器になるものを探せ。素手よりは有利になる」てなふうに書かれてました。戦場においては卑怯というコトバはナイ。とも。それから、闘うときの構えなんですが、「両手をだらんと下げて、やや、前屈する」。つまり構えるなというワケです。クンフーものみたいに、あんなふうには構えない。これは柳生新陰流の素手での闘いの場合の身のとり方とまったく同じです。ちなみに、宮本武蔵はいま『刃牙道』で活躍してらっしゃいますが、書き残した『五輪書』はあらたまっていて、ツマンナイんですが、他にいい伝えた兵法によれば、相手が複数の場合、三人なら「逃げよ。殆ど勝ち目はナイ」。それ以上なら、1対1と同じで、前後左右に囲まれたら、まず、正面と相対して、間隙をぬって真後ろを斬る。この場合の残り三人は、1対1と同じ。五人以上の場合は、まず、もっとも腕の立つものから斬る。これは、テキ屋のバイトやってるときに先輩から、「相手が大勢いたら、たぶんイチバン強いのは、出番が来るのを待って後ろに陣取ってるから、そいつめがけて、とにかく食らいついてでも、そいつにダメージを与えるんや」と、教わりました。つまり、どこから崩すかということなんでしょう。

ISは、そういうことは、まったく関係ナシ。帝国日本だって、大東亜共栄圏、八紘一宇、五族共和、を信じてた軍人は多かったはずなんですが。

離脱症状が少し和らいできました。「書く」ことに熱中させてみたのが功を奏したようです。

2016年7月 3日 (日)

涙、壊れているけれど⑫

おとこ 純情の

 

森川信というと、『寅さんシリーズ・・・男はつらいよ』の初代おいちゃんなんですけど、彼がコメディアン当時、巡業でいった町、たぶん小さな町だとは思うんですが、すぐ近所にあったデパートの女子従業員を全員妊娠させたというのは、伝説になってますね。

森川信のことは、安吾もエッセイで書いてます。「スゴイ役者をみた」とか、何がすごかったのかはあまり詳しく書かれてなかったんですけど、とにかく驚いたというふうに書いてます。

神代辰巳監督だったと思うんですが、神代監督の日活(にっかつ)ロマン・ポルノはすべて観てます。ファンでしたから。映画のタイトルが何だったか、まあ、タイトルなんてテキトーでしたから、神代さんは「濡れた」ってつけるのが好きだったかなあ。マルキ・ド・サドの原作で『森は濡れた』ってのは、一日でアゲられちゃって、初日に観て正解でした。観たほうも、これ、イカれるんじゃナイかなと心配するくらいの描写でしたから、やっぱりイカれたというか、上映禁止でアゲられました。ですから、それはもう忘却の彼方で風に吹かれてるんですけど、もう一つのタイトル忘却のほうは、落語家の、前座だったか二つ目だったかが主人公で、ストーリーらしきものはまったくないんです。日本は大東亜戦争に突入しているようなんですが、主人公は、そんなことはいっこうに気にしないで、ともかく、出会った女、これすべてに手を出して、出したものは手じゃナイんだけど、ともかく手当たり次第というのはこのことをいうてな具合。なんしろ、〈何の理由もナイ〉んだもん。ちょっとすれ違ったり、道を訊かれたりした程度から、兄弟子の嫁さんとか、お手伝いさんとか、師匠の娘さんとか、片っ端からヤっちゃって、そうしたら、赤紙がきて、出征するんですが、それをバンザイしてみおくる女性たち、つまり手を出された女たちの腹がみんな大きいの。バンザーイっていいながら、女たちがみおくって主人公のモノローグが入ってオワリなんだけど、そのモノローグが「男と女はこれしかないさ」だったと記憶してんですが。戦場に出て行くのも、ちょっと買い物にいくようなシレっとした意味のナイ顔で、「これしかナイ」というのが、「要するに戦争で死ぬしかないさ」にも聞き取れて、ただ、そんだけの映画で、まるでカミュがフザケて書いたような、あるいは、石原慎太郎さんの初期の短編『完全なる遊戯』(これは、名作だと思います)のおフザケモードとでもいうべきか、これこそ、神代監督のサイテー傑作です。大好きな映画です。

アト二日で六十四歳になりますが、これまでいろんなインタビューを受けたんですけど、インタビュアーが女性のときは、「今後、やりたいことってなんですか」という質問に、「出逢った女はすべて、孕ます」と、答えると、「ほんとはなんですか」と冗談扱いされて、もちろん、一度も掲載されたことはアリマセンね。

そこで、あまりにアツカマシイのかと反省し、最近は「出逢った女はすべて」というのではなく、「気になる女は」と、これは、うんと遠慮してるんですよ。おとこ純情の愛の星の夜、なんとなく、現代の女性には孕みたい願望があり、男には孕ませたい願望があるような気がしてならない、が、如何せん「育てるのはイヤ」みたいで、「まあ、三つか、せいぜい五つくらいまでなら何とか面倒みてあげるから、アトは勝手に生きてってネェ」みたいで、そんでイイんじゃないかなと、イイんじゃないのそんで、イイよねえ。

『源氏物語』だって、要するにそういう話じゃないの。(対訳でしか読んでナイけど。イチバン人気は与謝野晶子の訳で、最低作品は、瀬戸内婆というのが、もっぱらの世評ですけどね)。

朝から二度、コンビニスーパー行きましたが、きょうのあの娘は表情が曇っていて、たぶんレディス・デーなんじゃないかなあ。てなこと考えるのは、劇団なんかの座長を長いことやってて、女優の「月」の具合ばかり心配していたからですよ。

性欲というのは、究極(つまるところ)は、孕みたい=孕ませたいという生殖の欲求ですから、この辺りは、アダルト・ビデオの傾向が、そのような作品を多く創るようになってきたところからもワカリマス。かつては結合部分をみせればよかったのが、いくらmosaicを薄くしても、そんなものは見飽きてしまって、cellrentalする場合の選択肢は、女優のタイプに依るというとこらあたりになっている。だいたい、私がそうですから。私、からみのシーンでは、モザイクの部分なんて観ないです。女優の表情しか観ない。だから、女優の喜悦がヨロシイものは、よろしいんです。それを観れば、これはワザとやってる演技(といっていいのかどうか、いわゆるウソ)だなとか、この女優さんは、ほんとにイってるなとか、その程度は、演劇を長くやってきてますからワカリマス。

男も女も、本質的には純情なんです。

2016年7月 2日 (土)

涙、壊れているけれど⑪

呉越同舟という関数における絶対値

 

6/30で、抗鬱剤(セロトニン含有)を全廃したのだが(これをふつう断薬という)、名古屋のクリニック時代に1~2週間で、それが出来たのは、それに変わるクスリの投与があったからで、ということにウッカリしていたワケでもナイんだけんど、三週間での減薬はちと無理だったようで、昨夜、強い離脱症状があって、方針転換は余儀なく、もっとslow 時間をかけて離脱症状が消えていくのを待つことにした。

離脱症状といっても、幽体離脱ではナイ。幽体離脱なら、かなり前に半分だけ経験したことがある。半分は抜けた。それを前々嫁に話したら、そういう危険な場合はちゃんと電話してと叱られたが、幽体離脱している途中でどうやって電話すればイイのだろうか、そのときは気がつかなかった。まだガラ携さへナイ時代なのに。と、こんな調子の文章になるのは、いま古屋兎丸の『Π(パイ)』を読んでるせいだな。林、待ってろ、次はきみのところにこのフザケた名作を届けるからな。(で、『人生スイッチ』のメールは届いたのかな)と、こんな調子のコミックスなんだけど、前回、前々回と、談志家元のマネをしてブログでアホ二人慰み物にしたので、バチでもあたったのか、罰(バツ)はキリスト教をはじめ、さまざまな宗教の戒律にみられるが、「バチがあたる」というのは罰を呉音読みしているワケで、// 末子音を持つ入声には「チ」が使われることが多い。従って、バチ」は「バツ」なのだ。ちなみに漢音では「ツ」だから「罰」は「バツ」と読む。もっとも、東北地方の訛りでは「おめえ、そんだらことすてるど、バチがあたるど」とは、あんまし関係ナイと思う。と、まあ、こんな調子のコミックスなんだ。

ところで、セロトニン症候群を治癒させるためには、セロトニン含有の抗鬱剤は服用出来ないので、その減薬をしているのだが、そのために離脱症状が起きる。これはこれで、痺れ、だるさ、息苦しさ、痛みと、けっこうキツイのだが、いまのところは、呉越同舟ということで、このセロトニン症候群と離脱症状の関数の絶対値がなかなか決まらない。つまり、セロトニン症候群と離脱症状の座標を決める偏角sineθが手探りなのだ。だから、当分は呉越同舟の、鬱陶しい情況がつづくだろうが、セロトニン症候群のほうはだいぶ治まって、いつもならこの時期、水下痢や微熱や頻脈に悩まされているところのだが、それがナイだけ、方針の正しさは感じる。これも一重に、もう少しはいい戯曲を書いて、いいオマンコがしたいという、生命のゲノムのアフリカ的段階を経験したいという願望によるのだろう。というふうな感じのコミックスなんだけどネ。いままでの古屋さんのマンガの中では、オレは、こういうフザケたのがイチバン好きだな。なんか諸星さんの『栞と紙魚子』シリーズみたいでさ。

 

我が病は精神疾患なれば、狂気。気とはenergieのこと。しからば、狂気も時には要。

色即是空、空は時間。時間とは重力の変容。色即ち宇宙を支配するは重力の変容。消滅するも膨張するも重力次第。狂気思惟したること。

「私は、信じていない者以外は、ちゃんと信じている」

 

涙、壊れているけれど⑩

そうは、おもはない

 

/一見、何も起こらないと見える舞台の上で、笑えることがいろいろおこる。それは俳優自身の「老い」だ。度忘れ、息切れ、足のしびれ、のどの渇き、セリフを忘れた綾田俊樹に、ベンガルが優しく冷静に、「(芝居を)返しましょうか」といったのもおかしかった。ストーリーも面白い。「老い」をさらけ出しているところも面白い。だけど私は、えらそうにこう言いたいの。

 「ポール・サイモンをごらんなさい」

ポール・サイモン74歳にして、新しいことに取り組むアグレッシブな作品を出したばかりである。私はあの時、睨まれたことを忘れていない観客だ。やっぱり、客と、老いと、たたかってほしいのだ。

albinstigの日記2016-06-27

劇団東京乾電池創立40周年記念本公演 『ただの自転車屋』

 

で、私はそうは思わないんだなあ。むしろ、ポール・サイモンのaggressiveな作品とやらに、なんだか、うら悲しさを感じますね。74歳でaggressiveてのは、「最近キレる老人が多い」のと、どんだけチガイがあるのってことですよ。 

うーん、あのね、40年、40年だ。40年前の演劇(小劇場演劇と、のちに、あくまで、のちに、ですよ、称される演劇ね)が、どんな無謀と覚悟を強いられ、社会的に認知もされず、しかし、やっぱりなんか意地があったんだナ。闘ってきたと思うんですよ。人生棒に振って(というか人生から棒に振られて)、疲弊して、なおかつ、まだやろうってんだから、いまさら「老いをさらけだして」なんかいないよ。「さらけ出して」ましたかねえ、連中。私には、お地蔵さんとか仏さんが、三人して遊んでいるようで、ああ、これを還相(げんそう)というんだなあ、なんて思いながら観てたけどなあ。40年、ブレてないという自分たちの表現を、命削って、粉骨砕身、とはいえaggressiveなんかに力むことなく演ってましたよ。彼らの、役者としての、〈意識過程〉としてはそうだったんじゃないかな。けれども〈自然過程〉としては、身体は老化してますよ。アタリマエじゃないですか。だいたい、劇団東京乾電池の姿勢というのは、あるいは柄本明さんの姿勢というのは、「闘わないという、闘い方もある」じゃないんですかねえ。柄本さんに最も近い思想を持つ先達を思い浮かべると、キェルケゴールでしょ。そうじゃないですか。「絶望しろ」なんていった哲学者ですよ。その先駆者ですよ。それ以前に釈迦は「諦めろ」といってますけど。何度も書きましたが、釈迦は「では、どのように諦めればいいのか」と考えた。キェルケゴールは「絶望というのは何か」と問うたわけで、いずれにせよ、「諦めないと真理はみえてこない」「絶望しないと真理には出逢えない」というところから始めたんじゃないかな。

私はこの方(albinstigさん)のことも前回の方どうよう、知りません。たくさんお芝居観る時間の余裕と銭があるひとなんだなあというくらいですかね。まあ、「好好老」なんてのは、理想であって、そう現実に存在するもんじゃナイでしょう。むしろ、日本語の「頑固爺」のほうが多いんじゃナイかな。愛称として頑固爺はイイんでしょうけど、私なんか長生きすれば、そうなるに決まってるから。ですから、ポール・サイモンも後者のほうで、そうおっしゃってんでしょう。でなきゃ、このひと、ただの「子供」「エゴイスト」あるいは「世間知らず」「痛い目にあったことがナイ」「掃き溜めインテリ」かな。

すいませんね、私もaggressiveなもんで。

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