涙、壊れているけれど⑤
どうなんのかねえ
こう多く、多くったって、世界の何処かで毎日戦争で殺されている人数に比べりゃたいしたことはナイんだけどね。まあ、ふつうのニチジョウとしては多いよ。
死ぬんだよな、ヒトは。それはワカッテマス。愛も孤独もワカランといったら、よくそれで「物書き」稼業がやってられるねえ、なんて顔されるんだけど、もう一つ、死ぬということについて、むかああしし、大江健三郎の『セブンティーン』読んでからしばらくは、人並みに「恐怖」というんですか、怖かったです。けれども、この死ぬが、〈死ねる〉に変容してからは、そういうことはなくなりましたねえ。ヒトは何やってもけっきょく、死ぬのなら、人生というもの、生きるというもの、その営為は徒労にしか過ぎないのではなかろうか、ということもやはり、考えました。思い悩みました。けれども、詩人で評論家の鮎川信夫さんがね、やっぱり似たようなこと思ったりしたときにね、「だから書くんだ。この世界に生まれてきたこと、生まれてきてから起こったこと、そんなのはみんなギフトなんだから、そのお返し、返礼として、書くんだ」と、「書く」ということはそういうことだと、なんかでおっしゃったか、それ、読んだかしたときに、ああ、そうなんだと納得がいきました。なるほど、それで中井英夫さんのも『虚無への供物』、つまり〈供物〉なんだなと、腑に落ちた。
ヘミングウェイが、あの〈漢・おとこ〉がですよ、「書けなくなったから、死ぬ」って自殺しました。よくワカリマスよ。『老人と海』、若いときに読んだ、ちっともオモシロクもなんともナイ。けど、六十過ぎてから読んだ。胸つまらせる名作ですよ。老人にとって「海」とはこういうもんなんだ、若いひとが、ビーチでゴーゴーなんていってるのとはまったくチガウ。偉いのかバカなのか、加山雄三さんが、永遠の若大将とかで、~う~っみよぉぉ~、なんて歌ってらっしゃいますけど、七十を過ぎてなおね。ヘミングウェイ書くところの「海」は、老人にとっては、釣り上げた魚の骨だけ持ち帰るようなところなんだ。けれど、老人はそれでイイと、それでヨシとする。この哀しみに若いときは追いつけなかった。で、やっとそれに追いついた。そうなんだよなあ。
で、どうなんのかねえ。
いや、死ぬよそりゃ。いまだってシュレディンガーの猫みたいに五割の確率で死んでんだから。けれど死ぬんじなくて、〈死ねる〉。これが人生の最後の希望、唯一の救いですよ。だからね、「非業の死」というのはどうしていいのかワカンナイね。ほんとにワカンナイのよ。
で、どうすんのかなあ。どうしたらイイんですか。一休禅師のように七十七歳で子供孕ませて(正妻にですからね。他にも一休さん、あちこちで女つくって子供生ませてますから)そいでさらに十年生きて、「狂雲記」なんて、そりゃシャレがきつ過ぎます。
だから、どうしょうかなあ。朝起きて、考えることのイチバンは、その日の飯のことです。食えるかどうかじなくて、ナニ食ったらいいかなあって、もう、面倒だから今日も湯づけにするかとか、たまには煮物でもつくるかとか、これがね、今日はどのお姉ちゃんと遊ぼうかとかだったら、もうジョージ秋山の『浮浪雲』(まだ、これ連載続いてんだってね、こないだ弟に教えてもらってびっくりしたよ)だよねえ。それなら、いいよなあ。いや、そんなにイイかね。自分が歳とったなあって、思い知らされるのがオチじゃナイの。だって、ワカンナイだもん、お姉ちゃんの話題にしていることについていけないんだもん。このオレですら、ついていけない。「これからは、頭の半分は仕事のことを、半分は女のことを考える、そういう人生をおくる」って、六十になる前に、ある女性に大見得きったら「健康的ね」と、いわれましたね。それはね、「あなたにそんなこと出来るワケないじゃん」といわれたのと同じです。たしかに、仕事アリマセン、女アリマセン。ナイものをどうやって考えればイイか、哲学だね、まったく。いいよ、そういう哲学やってみようか。
なんて、開き直ってると、比較人類学のフィールドワークにおいては、カントやニーチェ、ハイデガーなんて、とくに問題にするでもなく、ごくごくアタリマエに、つまり哲学として扱うんじゃなく、自然学として扱ってんだから、引っ繰り返りました。
ああ、疲れた。もうオワリ。
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