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2016年6月26日 (日)

涙、壊れているけれど⑦

だから、どうした

 

ここんとこえらくブログ書いてんじゃナイ、躁転してんじゃナイの。と、書かなかったら書かなかったで心配し、書けば書いたで心配し、で、で、心配してどうすんのかというと、心配するだけで、ナニかしてくれるのかというと、どうでもイイと、だいたい他人というのはそんなもんですから、で、で、ひょいと出会ったりすると「私、心配してたのよ」と、だからどうなのと、訊き返したくなるんですよ。

躁転というより想転、北村想が転がってると思えばイイじゃナイですか。そういうのは、単なるファン心理と何もチガワナイ。自分がイチバンだと思ってるだけで、何がイチバンなのか知らないけれど。

だいたい私は、いわゆるうつ病、あるいは呼称が変わっての双極性障害については、現在の医療を全否定することにしてまして、つまり、そこからもう一度始めないとダメだと、まあそんなふうに考えてんです。抗生物質が人工的につくれるようになってから、薬剤会社の黴捜しは終わりました。新しい抗生物質(黴)をみつけたら、会社は十年安泰といわれたのはむかしの話で、いまは抗生物質とはいわずに総称して抗生剤と称します。その代替品になったのが、抗鬱剤です。最初にSSRI(商品名・ソルボックス)が医療で使えるようになったとき、このときのキャッチ・フレーズが「天使のやすらぎ」(だったか、とにかく、そんなの)だからねえ。で、SNRIが次いで出てきます。この中に商品名パキシルというのがあって、これを処方された患者に異常行動がみられるということが、業界(医療界)で囁かれ始めます。ところが、問題はパキシルだけではなかったんですな。ノルアドレナリンはともかくセロトニンという、いわゆるSNRIのSです。こいつがうつ病患者には正常分泌されていないので(そのへんの構造は略しますが)、クスリで補充しちゃえという、だいたい医療とか科学は、ヒジョウに単純にものごとを考えます。私なんか、多いときはこのセロトニンが主剤のトレドミン(他にノルアドレナリンを含有)を一日100㎎服用してました。しばらくして、自律神経失調症みたいになったので、それに対して医師はレキソタンを調剤投与します。これ、依存症になって今でも飲んでますが、いまの主治医にいわせると、自律神経失調症で、このクスリを出す医者はいないということで、それはともかく、この辺りですでにセロトニン症候群に突入していたと、そ~いうワケ。

六十を過ぎて、症状が痛みに変容します。んで、こないだ、内科の主治医に、鎮痛剤が効かない話をしたら、鎮痛剤が効かないときに投与する麻薬成分が入っているんだけど、モルヒネには及ばない(ガンの痛みには効かない)、つまりボルタレンよりは効果のあるトラムセットというのを出してくれたんですが、これ、抗鬱剤と同時服用するとセロトニン症候群に陥るおそれがあると、(ネットの)注意書きにあったんで、それじゃあってんで、というか、ここで、初めて、セロトニン症候群という最近騒々しいsyndromeがなんであるのか調べてみたんです。そうしたら、何だ、ここ5年以上、辛かった症状がズラっと、まるで禿げヅラのように並んでいる。現在25㎎まで落としている抗鬱剤を、もう全廃しようと、これ、おそらく一時にやめるとたぶんタイヘンだろうからと、二週間かけて、半分まで落としました。カラダの変化に注意しつつ、アト一週間程度で全廃する予定で、めでたく、トラムセットが服用出来る、あの痛みから解放されると欣喜雀躍、近畿地方の天気は曇り、していたら、クスリを減らし始めてから痛みそのものが軽減し始めた。

だから、どうすんの、と。疲労消耗衰弱して減っていた体重も60㎏までもどった。しかし、長年のセロトニン症候群からスッと逃れられたワケではナイ。もっと長年のうつ病が治ったワケではナイ。ハムレット症候群(これは私が名付けた、朝起きて数時間は、自殺念慮との闘い、生きるべきか死ぬべきかが待っている)は、まんまだからねえ。

さてと、ですからね、「どうなんのかねえ」じゃナイのよ、ね。どうにもなんないから、ここは「どうしようかな」が正しい。以前にも書きましたが、釈迦のスゴイところは、「こりゃあ、生病老死ってのは諦めるしかナイな」と、結論した上で「では、どのように諦めればイイのか」と考えたことなんです。イエスのように「天国」に逃げることもなく、「八正道」とか、「十二因縁」とか(あんなのは、のちの上座(小乗)仏教のつくりごとなんですが)、そういうことはいわない。ただ、「中道」と述べた。これを英米人にもワカルようにいうと「good timing」です。むかしふうにいえば「宜しく計れ(謀れ・図れ・測れ)」です。いまふうにいうなら「あれでもナイしこれでもナイなら、適当にやればイイ」です。簡単にいうなら「時宜」です。従って、「色即是空 空即是色」の「空」というのは空間概念ではありません。「時間概念」です。でないと、『般若心経』は読み解けません。これを「無」と混同してご託を述べている坊主は、みんなインチキです。嘘つきです。「色即是空、物質や心はみなこれ無である」・・・アホッと、喝入れておきましょ。「物質、心象、およそこの世にあるものは時間によって変容する。時間はこの世にある物質、心象を変容させる」これが正しい読み方です。では、〈時間〉とは何か。「重力エネルギーが姿を変えたもの」としか、いまの私には答えることは出来ませんけど。簡単にいうと「時が過ぎていく」というコトバを物理学的にいえば「重力波が運動(作用)している状態」ということになります。

 

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