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2016年6月

2016年6月30日 (木)

涙、壊れているけれど⑨

世去れ 世去れ と

 

achako hanabisi1 週間前

これはレッキとした日本の歌謡曲であって演歌ではないんです。「夢を」は「ユメヲ」であって「ユウメヲ」ではない。「燃ゆる」は「モユル」であって「モオユル」ではない。伊藤久男先生の歌を参考にせずに、勝手に歌うからこうなるのです。はい、出直してください。/

 

これは、森昌子さんがカバーして歌っている『あざみの歌』(You tube)にたいして、ごく最近(一週間前とあるので)つけられた、「ケチ」「イチャモン」「もんく」「批評」「訓戒」「諫言」「批判」「教示」でしてね、私はこのひとのことは何も知りませんよ。こういうのを近頃は「上から目線」とかいうんでしょ。それですましゃあイイんですけど、この文言はコトバとして、私、throughすることは出来ません。こういう人間は殺したいとも思うんですが。まあ、殺したいのは単に思うだけだから、とにかくは、この文言の何処がオカシイのか、少し考えてみましょうか。

はっきりいうと、こういうコトバの用い方、嫌いなんです、私。というか、このひとが外人ならしょうがナイと思いますが、この文言は、正確な日本語とはいえません。

・・・「これはレッキとした日本の歌謡曲であって演歌ではないんです」・・・これを〈述語〉表現というふうにいうとします。つまり主語(主体)がナイか、あるいは不明、あるいはあやふやです。「これは」というのは主語にみえて、そうではナイ。ここでの「これ」は、もちろん『あざみの歌』です。そうすると「『あざみの歌』はレッキとした日本の歌謡曲であって演歌ではないんです」になります。では、「レッキ」なんですけど、これは「れっきとした」の「れっき」でしょうけど、「れっき」は岩波国語辞典によると「歴」の促音変化だということなんですが、「歴とした」ではワカンナイだろうから、と、さらに平仮名よりも、強調を狙って「レッキ」と片仮名にされたのだと思われます。いずれにせよ、「歴」ですから、「由緒正しい」という意味です。そうすると「『あざみの歌』は由緒正しい日本の歌謡曲であって演歌ではないんです」になります。そうなると、「演歌」というのは、由緒が正しくナイ、つまり日本の歌だかどうだかワカンナイ歌ということになります。そうすっと「『あざみの歌』は由緒正しい日本の歌謡曲であって、日本の歌だかどうだかワカンナイ歌ではナイ」ということになります。命題を証明していくと、そうなるんだから、しょうがナイ。「演歌」が、日本の歌ではナイ歌になっちゃうんです。従って、「夢を」は「ユメヲ」と由緒正しく歌わなくてはいけない。「ユウメヲ」は日本語ではナイから。「燃ゆる」は「モユル」であって、「モオユル」では日本語ではナイ。伊藤久男先生とか、は文脈上、殆ど関係アリマセン。/勝手に・・(略)・・・はい、出直してください。/は、コトバを変えれば「おととい、きやがれっ」ですね。

ここまで書いて来ると、主語(主体)はハッキリしてきます。achako hanabisi というひとが、主語(主体)です。ですから、文言の最初に「私が思うに」か、「私が知る限りにおいて」「私の考察によると」と、付くはずです。付けねばなりません。何故なら、「演歌」が日本の歌でないかどうかは、この主体(主語)の単なるドクサ(思い込み)ですから。

ところで、東京には「アチャコ・プロダクション」という事務所が未だに存在します。従って、このアチャコ・ハナビシは、商標(あるいは著作権)上、ハンドルにつかうのは、法規上、問題があるおそれも考えられます。

ついでながら、ある例を提示します。『人生の並木道』は、ディック・ミネさんの歌った歌謡曲だと思われますが、「なあくううなあ いもおとおよお いもとおおよおお なくうなあ」と、こんな感じで歌われるんですが、私の調べた限りにおいて、この小節は楽譜に、音符で書き込まれています。つまり、ディック・ミネさんが、勝手に節回しをつけているのではナイのです。そうしますと、『人生の並木道』は「レッキ」とした歌謡曲と称していいものなんでしょうか。『人生の並木道』はもとから、由緒正しくない日本語による作詩、作曲なんでしょうか。

歌、歌謡曲、流行歌、は、演歌だろうが、popsだろうが大衆のものです。好きなように歌えばイイじゃナイですか。

おとといどころか、おととしくらいから出直してください。

2016年6月29日 (水)

涙、壊れているけれど⑧

ズルズルと、しかし押し上げろ

 

/生きるちゅうのは引きずることです。ズルズルズルズル引きずっていくことですよ。ズルズルズルズル音をたててみっともないですよ(『人間交差点』「扉」・・・弘兼賢史(画)、矢島正雄(原作))/

いない、いない、いない、のだからしょうがナイ。つまり世界(宇宙)は、いない、いない、いないの世界に変容したのだから、私を表現している世界もチガウし、私が表現している世界もチガウ。いつか私が「いない」になったら、また、世界(宇宙)も変わるだろう。

たしかに、生きるというはズルズルと引きずっていくことにはチガイナイ。「いない」ということはもう引きずらなくていいのだから。

だが、生き残った私(たち)は、ナニを引きずる。と、これが問題じゃないの。そう思うんだけどねえ。現存する芸人における歴史上最高のギャグは、間寛平さんの「引きずり女でございます」だとあちきは考えてるからね。みっともない、たしかにそうなんだけど、あの完全に意味のナイ、というより、この世のものではナイ、あのギャグ。神も仏も凍りつく、あの・・・まあ、いいですよ。とにかくスゴイということで。で、ズルズルズルと、生きるということの何か、いやそのものを引きずっていくんだと思います。しかし、私は芸人じゃありませんから、カッコイイことの一つもいわないといけない。だから「しかし押し上げろ」です。押し上げていきます。何の意味もナイのに。足がズルッ、ズルッズルズルズル、といきまさあね。それでも押し上げていく。意地なんですから、意地でささえる夢すらなくなって、なお、意地なんですから。

てなこと書いて、カッコイイんですが、さっき、晩飯のおかずに買ったシュウマイを台所でパックのふたを開けたとたん引っ繰り返してしまって、一個は食える状態ではなかったものの、四個、拾って食いました。どういうワケか、近所のコンビニスーパーのデリカが美味いんです。ロース豚カツなんてサイコー、これが二枚で200円かな。きっと食べることの好きなひとがつくってんだと思います。ソーメン、贅沢して、「揖保の糸」二把。んなことやってる生活者ですから、な~にが、「生きるちゅうのは引きずることです。ズルズルズルズル引きずっていくことですよ。ズルズルズルズル音をたててみっともないですよ」なもんか。て、ところでしょうねえ。シューマイ引っ繰り返しているほうが、よっぽどみっともナイんだから。

 

本日、精神科の主治医とミーティング(診療なんですけど、どうも私という患者とは、そんなふうになりますねえ)しまして、結論は、セロトニン症候群だと、決まりました。決まったから治るというもんでもナイんですけどね。

要するに十数年前の、名古屋で通院していた精神科医の誤診です。セロトニン症候群を男性更年期障害と思い込んで、抗鬱剤はそのまんま、自律神経の安定に効果がある(と、当時はガイドラインでそうなっていた)レキソタンを投薬したんですね。おかげで、私は、ずううっと、微熱、頻脈、下痢、目眩、要するにセロトニン症候群で苦しんできたというワケで、ともかく、まず、こいつを何とかスル。ということで、三週間かけて、一日25㎎服用していた抗鬱剤(セロトニン含有)をゼロにしました。かつては、多いときは一日100㎎服用してましたからねえ。

いまのdoctorが悔やんでました。「そうか、しまったなあ、あのとき、前の医師が何故レキソタンを投与したか、理由をもっとキチンと訊くべきでした」。このdoctor、のそういう診療態度が好きですね私。だって、そうでないと医学(科学ですからね)の進歩はナイですよ。医療ガイドラインに沿って、というか、それに頼ってだけの治療が多すぎます。

セロトニン症候群は、何とかなりそうなんですが、うつ病が治ったワケでなく、今夜は久しぶりに痛みが出ましたワ。しかし、「ワカッタ」ということは私にとってはとて重要なことなんです。私、ワカルまで考えるほうなんで。

ですから、これからは、闘い方も変わります。世界は変わった。いない、いない、いない、ときた。今朝、新幹線でdoctorの診療に向かうとき、初めて、いないいないいない、ことについて、その世界に対して涙がこぼれました。いないのか、でも、ズルズルズルと押し上げナイとなあ。シューマイ引っ繰り返さないように気をつけないと。

2016年6月26日 (日)

涙、壊れているけれど⑦

だから、どうした

 

ここんとこえらくブログ書いてんじゃナイ、躁転してんじゃナイの。と、書かなかったら書かなかったで心配し、書けば書いたで心配し、で、で、心配してどうすんのかというと、心配するだけで、ナニかしてくれるのかというと、どうでもイイと、だいたい他人というのはそんなもんですから、で、で、ひょいと出会ったりすると「私、心配してたのよ」と、だからどうなのと、訊き返したくなるんですよ。

躁転というより想転、北村想が転がってると思えばイイじゃナイですか。そういうのは、単なるファン心理と何もチガワナイ。自分がイチバンだと思ってるだけで、何がイチバンなのか知らないけれど。

だいたい私は、いわゆるうつ病、あるいは呼称が変わっての双極性障害については、現在の医療を全否定することにしてまして、つまり、そこからもう一度始めないとダメだと、まあそんなふうに考えてんです。抗生物質が人工的につくれるようになってから、薬剤会社の黴捜しは終わりました。新しい抗生物質(黴)をみつけたら、会社は十年安泰といわれたのはむかしの話で、いまは抗生物質とはいわずに総称して抗生剤と称します。その代替品になったのが、抗鬱剤です。最初にSSRI(商品名・ソルボックス)が医療で使えるようになったとき、このときのキャッチ・フレーズが「天使のやすらぎ」(だったか、とにかく、そんなの)だからねえ。で、SNRIが次いで出てきます。この中に商品名パキシルというのがあって、これを処方された患者に異常行動がみられるということが、業界(医療界)で囁かれ始めます。ところが、問題はパキシルだけではなかったんですな。ノルアドレナリンはともかくセロトニンという、いわゆるSNRIのSです。こいつがうつ病患者には正常分泌されていないので(そのへんの構造は略しますが)、クスリで補充しちゃえという、だいたい医療とか科学は、ヒジョウに単純にものごとを考えます。私なんか、多いときはこのセロトニンが主剤のトレドミン(他にノルアドレナリンを含有)を一日100㎎服用してました。しばらくして、自律神経失調症みたいになったので、それに対して医師はレキソタンを調剤投与します。これ、依存症になって今でも飲んでますが、いまの主治医にいわせると、自律神経失調症で、このクスリを出す医者はいないということで、それはともかく、この辺りですでにセロトニン症候群に突入していたと、そ~いうワケ。

六十を過ぎて、症状が痛みに変容します。んで、こないだ、内科の主治医に、鎮痛剤が効かない話をしたら、鎮痛剤が効かないときに投与する麻薬成分が入っているんだけど、モルヒネには及ばない(ガンの痛みには効かない)、つまりボルタレンよりは効果のあるトラムセットというのを出してくれたんですが、これ、抗鬱剤と同時服用するとセロトニン症候群に陥るおそれがあると、(ネットの)注意書きにあったんで、それじゃあってんで、というか、ここで、初めて、セロトニン症候群という最近騒々しいsyndromeがなんであるのか調べてみたんです。そうしたら、何だ、ここ5年以上、辛かった症状がズラっと、まるで禿げヅラのように並んでいる。現在25㎎まで落としている抗鬱剤を、もう全廃しようと、これ、おそらく一時にやめるとたぶんタイヘンだろうからと、二週間かけて、半分まで落としました。カラダの変化に注意しつつ、アト一週間程度で全廃する予定で、めでたく、トラムセットが服用出来る、あの痛みから解放されると欣喜雀躍、近畿地方の天気は曇り、していたら、クスリを減らし始めてから痛みそのものが軽減し始めた。

だから、どうすんの、と。疲労消耗衰弱して減っていた体重も60㎏までもどった。しかし、長年のセロトニン症候群からスッと逃れられたワケではナイ。もっと長年のうつ病が治ったワケではナイ。ハムレット症候群(これは私が名付けた、朝起きて数時間は、自殺念慮との闘い、生きるべきか死ぬべきかが待っている)は、まんまだからねえ。

さてと、ですからね、「どうなんのかねえ」じゃナイのよ、ね。どうにもなんないから、ここは「どうしようかな」が正しい。以前にも書きましたが、釈迦のスゴイところは、「こりゃあ、生病老死ってのは諦めるしかナイな」と、結論した上で「では、どのように諦めればイイのか」と考えたことなんです。イエスのように「天国」に逃げることもなく、「八正道」とか、「十二因縁」とか(あんなのは、のちの上座(小乗)仏教のつくりごとなんですが)、そういうことはいわない。ただ、「中道」と述べた。これを英米人にもワカルようにいうと「good timing」です。むかしふうにいえば「宜しく計れ(謀れ・図れ・測れ)」です。いまふうにいうなら「あれでもナイしこれでもナイなら、適当にやればイイ」です。簡単にいうなら「時宜」です。従って、「色即是空 空即是色」の「空」というのは空間概念ではありません。「時間概念」です。でないと、『般若心経』は読み解けません。これを「無」と混同してご託を述べている坊主は、みんなインチキです。嘘つきです。「色即是空、物質や心はみなこれ無である」・・・アホッと、喝入れておきましょ。「物質、心象、およそこの世にあるものは時間によって変容する。時間はこの世にある物質、心象を変容させる」これが正しい読み方です。では、〈時間〉とは何か。「重力エネルギーが姿を変えたもの」としか、いまの私には答えることは出来ませんけど。簡単にいうと「時が過ぎていく」というコトバを物理学的にいえば「重力波が運動(作用)している状態」ということになります。

 

涙、壊れているけれど⑥

てんで、ばらばら

 

英国がEU離脱を国民投票で決定したんですがね、ウソみたいな話になるんだけど、英国民の半数以上が、そもそもEUとは何なのか知らなかったらしいと、これは直後のある統計で判明したとか。ね、ねってまあ、要するに「気分」なんだよなあ。ところで、その英国のスコットランドが、英国からの独立を国民投票するような気配だってんで、スコットランドは、62パーセントがEU離脱反対だったから、まあ、これは当然でしょう。

なんだか、今年はこの〈離脱〉ってコトバが流行するんじゃナイかと。「私、アナタからもう離脱します」とか、「この会社とは離脱です」とか、ね。

離脱ってのは、薬物依存のときにみられる症状なんですがねえ。苦しいですよ。特に向精神薬を突然ヤメルなんてことしたら、覚醒剤の比ではありません。私はいま二種類の薬物依存ですけど、ヤメルのに3年かかるから、ヤメルのをやめることにしているだけで、特に飲まなくてもいいクスリ、いわば非治療薬を二種類飲んでんだよなあ。

Virtual sex machine が売り出されたんだってね。あのね、開発されたんじゃナイのよ。売りよ、売り。で、どうなるかというと、要するにいままでのようにダッチワイフ人形にプラスして、そのmachineを装着すると、あの映画『マトリックス』みたいになるワケ。これで、数年後には、アダルト・ビデオ業界は壊滅するでしょう。フーゾク業界も大打撃。価格がまだ少々高いんだそうですけど、もうsexするのに相手は不要。どんなにもてない男だって、自分の好みの女性(女優とかも含む)と、ナニ出来るんだから、もう世界は不要に、というか滅びるしかナイんじゃないのかねえ。

けども、けれどもよ、これで出来るのはsexだけですから、ね。恋愛は出来ません。恋愛は生でナイと出来ない。とはいえ、恋愛ってなんだろうなあと考えると、また考え過ぎになるんですが、うーん、考え過ぎになるから、判断停止。

NHKがねえ、ラジオで、地震のときの注意点を毎日、ニュースの終わりに流してんの。

同じことを日替わりでいってるだけなんだけど、余計なお世話というより、「そんなこと、出来るワケねえだろ、バカッ」てのがあって、「普段からご近所で、役割を決め、救護班、炊き出し係、情報収集班、トイレ担当などの分担を話し合っておきましょう」って、あのね、ここはスイスじゃないっての。スイスは、常に臨戦体制に入れるような訓練してます。それやりながら、兵器産業での稼ぎが国費を支えているんだから。だいたい、隣に住んでいるのが、地球人なのかどうかってのもワカンナイのに、話し合い(大きなマンションには組合があって、そういうの、やってますが)って、話しどころか挨拶すらしないのに、あのね、要するに、私、マンションに住んでます。ワンルームとはいえ、12畳、でシステムキッチンで、バス、トイレ、洗面、独立、クローゼット付き。共益費、保証人代行費含むで5万3千円。おっ、いいね。じゃナイのよ。要するにですよ、私の感触としてはスラムと何処がチガウのって感じかなあ。巣乱(すらむ)ですよ。

こないだ、浴室の天井から、漏れがあって、業者に調べてもらったら、二階の部屋がどうしようもなくヒドイ状態で、配管からやりなおさないと(つまりぶっ壊さないと)錆がときどきは落ちるでしょう。って天気予報じゃナイんだから。 

ほんとに誰が住んでんの。こないだなんか、中学生らしき子供たちが大挙して、階段降りてきて、廊下に置かれていた自転車で帰っていきました。塾でもやってんのかな。左隣は夜逃げしたみたいだしね。オレんところなんか、毎日アマゾンが来るから、なんだろうなんて思われてるだろうしね。二階の何処かが小犬飼ってて、高音でときどき吠えるから、ドキッとすんのよ。四階建てで十六室あるんだけど、大家も十六人いるの。だから、各部屋でルールーがチガウワケよ。ミシミシ、ドンドン音がするのは、何処かが牛でも飼ってんじゃナイのかなあ。

 

 

 

2016年6月25日 (土)

涙、壊れているけれど⑤

どうなんのかねえ

 

こう多く、多くったって、世界の何処かで毎日戦争で殺されている人数に比べりゃたいしたことはナイんだけどね。まあ、ふつうのニチジョウとしては多いよ。

死ぬんだよな、ヒトは。それはワカッテマス。愛も孤独もワカランといったら、よくそれで「物書き」稼業がやってられるねえ、なんて顔されるんだけど、もう一つ、死ぬということについて、むかああしし、大江健三郎の『セブンティーン』読んでからしばらくは、人並みに「恐怖」というんですか、怖かったです。けれども、この死ぬが、〈死ねる〉に変容してからは、そういうことはなくなりましたねえ。ヒトは何やってもけっきょく、死ぬのなら、人生というもの、生きるというもの、その営為は徒労にしか過ぎないのではなかろうか、ということもやはり、考えました。思い悩みました。けれども、詩人で評論家の鮎川信夫さんがね、やっぱり似たようなこと思ったりしたときにね、「だから書くんだ。この世界に生まれてきたこと、生まれてきてから起こったこと、そんなのはみんなギフトなんだから、そのお返し、返礼として、書くんだ」と、「書く」ということはそういうことだと、なんかでおっしゃったか、それ、読んだかしたときに、ああ、そうなんだと納得がいきました。なるほど、それで中井英夫さんのも『虚無への供物』、つまり〈供物〉なんだなと、腑に落ちた。

ヘミングウェイが、あの〈漢・おとこ〉がですよ、「書けなくなったから、死ぬ」って自殺しました。よくワカリマスよ。『老人と海』、若いときに読んだ、ちっともオモシロクもなんともナイ。けど、六十過ぎてから読んだ。胸つまらせる名作ですよ。老人にとって「海」とはこういうもんなんだ、若いひとが、ビーチでゴーゴーなんていってるのとはまったくチガウ。偉いのかバカなのか、加山雄三さんが、永遠の若大将とかで、~う~っみよぉぉ~、なんて歌ってらっしゃいますけど、七十を過ぎてなおね。ヘミングウェイ書くところの「海」は、老人にとっては、釣り上げた魚の骨だけ持ち帰るようなところなんだ。けれど、老人はそれでイイと、それでヨシとする。この哀しみに若いときは追いつけなかった。で、やっとそれに追いついた。そうなんだよなあ。

で、どうなんのかねえ。

いや、死ぬよそりゃ。いまだってシュレディンガーの猫みたいに五割の確率で死んでんだから。けれど死ぬんじなくて、〈死ねる〉。これが人生の最後の希望、唯一の救いですよ。だからね、「非業の死」というのはどうしていいのかワカンナイね。ほんとにワカンナイのよ。

で、どうすんのかなあ。どうしたらイイんですか。一休禅師のように七十七歳で子供孕ませて(正妻にですからね。他にも一休さん、あちこちで女つくって子供生ませてますから)そいでさらに十年生きて、「狂雲記」なんて、そりゃシャレがきつ過ぎます。

だから、どうしょうかなあ。朝起きて、考えることのイチバンは、その日の飯のことです。食えるかどうかじなくて、ナニ食ったらいいかなあって、もう、面倒だから今日も湯づけにするかとか、たまには煮物でもつくるかとか、これがね、今日はどのお姉ちゃんと遊ぼうかとかだったら、もうジョージ秋山の『浮浪雲』(まだ、これ連載続いてんだってね、こないだ弟に教えてもらってびっくりしたよ)だよねえ。それなら、いいよなあ。いや、そんなにイイかね。自分が歳とったなあって、思い知らされるのがオチじゃナイの。だって、ワカンナイだもん、お姉ちゃんの話題にしていることについていけないんだもん。このオレですら、ついていけない。「これからは、頭の半分は仕事のことを、半分は女のことを考える、そういう人生をおくる」って、六十になる前に、ある女性に大見得きったら「健康的ね」と、いわれましたね。それはね、「あなたにそんなこと出来るワケないじゃん」といわれたのと同じです。たしかに、仕事アリマセン、女アリマセン。ナイものをどうやって考えればイイか、哲学だね、まったく。いいよ、そういう哲学やってみようか。

なんて、開き直ってると、比較人類学のフィールドワークにおいては、カントやニーチェ、ハイデガーなんて、とくに問題にするでもなく、ごくごくアタリマエに、つまり哲学として扱うんじゃなく、自然学として扱ってんだから、引っ繰り返りました。

ああ、疲れた。もうオワリ。

涙、壊れているけれど④

柄本さんからもらった本

 

『「絶望」の授業』というのを、サイン入りでもらったんだけど、これはその、ずいぶん前にNHKが番組でやってたのを文字に起こしたもんなんだけど、あの、ほら、出身地の小学校行って、授業ヤルってあれ。

中津川演劇キャンプでも同じコードのレクチャーを観ているんだけど、これは対象が小学生。で、ポンといってしまうと、これは柄本さんの演技における〈弁証法〉なんです。でも、小学生にもワカル。というか、柄本さん自身、弁証法は勉強、たぶん、してないと思うからですね、体得してきたのが、弁証法になっちゃってるんだナ。とはいえ、戸は家にあるんだけど、この弁証法は正しいんです。スタニスラフスキー(このひとは真面目にやって間違っちゃったんだけど)よりも、ブレヒト(このひとのは、まったくの孫引き、たぶんヘーゲルを読んでいない、完全なガセ)よりも正鵠です。

でね、そのアトで、やっぱり『ゴドー』なんか演らせるの。でも、オレは『ゴドー』はまったくダメだと思ってるから、何でって、ツマンナイだもん。ふつう「わからない」といわれておりますが、私にいわせれば「ツマンナイ」。あのね、これ読むなら、太宰さんの『待つ』と、かの有名な『走れメロス』とを読めば、〈待つ〉というのはこういうもんだよ、というのがうんともっとよくワカリマス。だから『ゴドー』は大嫌い。暇つぶしにしては時間の無駄。ノーベル文学賞最大の失態。しかし、あっそうか、これ「クダラナイ」から日本の演劇業界で演じられる回数が多いのかとも思いました。クダラナイ外国(アチャラカ)戯曲、わりと日本の演劇人、好きだもんなあ。ゴーリキーの『どん底』とか、テネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』とか、どこがどうオモシロイわけっ。んっ。(アチャラカというのをドタバタ劇、ナンセンス劇、軽演劇と勘違いしている演劇業界人も多いんですが、何度もいうように、納戸は家の中なんだけど、アチャラカとは、〈アッチのほうの、つまり外国のほうのという意味のslangです〉

しかし、四十年、演劇やってると、かつ、誰も観てない屋上酒場のステージの余興コントから叩き上げ、鍛え上げられてると、論理が血肉化、思想が骨身になっているから、やっぱスゴイわ。オレ30年かけて演劇論のホン一冊書いて、威張ってたけど、かないませんね。いってることはだいたい同じなんだけど、それを小学生にもワカルようにレクチャー出来るというのは脱帽でしかありません。ここに十年の差があるんだろうなあ。

2016年6月24日 (金)

涙、壊れているけれど③

私の職業は

 

寺山さんがインタビューで「私の職業は〈寺山修司〉です」とこたえたのは、寺山さんの作品に出てくる、どんなコトバ、せりふ、詩、短歌、と比肩しても類をみない、突出した傑作で、私も「私は〈北村想〉を演ってます」というふうによく使う。

こういうのは、レクチャーをするとか、ホンを書くとか、そういうときにはすこぶるヒジョーに便利なんだけど、たとえば、昨日、一昨日は東京乾電池の芝居を観るのに、弟子の女性を同伴させたんだけど、こういうときは必ず関係が「ちぐはぐ」になって、オレは北村想を演ってればイイのだろうか、それとも、このまだ女子大生(1年留年してるけど)の前で、彼女を女性として、何か〈男〉としてあるべきなんだろうかとか、下心というのがどれくらいあるんだろうかとか、自問してみたり、ともかく劇場が大きいし、劇団も大きいので、たとえば、柄本さんの奥さんには「きょうは、塾生と一緒なんですけど、女性ですけど、塾生には手を出さないという主義でして・・・」などと、そんな主義などナイのだが、余計なことをつらつらいわないと、奥さん(角替さん)は、かつて柄本さんの浮気がバレて、スキャンダルになって、バラエティニュースがテレビで流れたときに、「よし、40インチget」と、つまり、これで、40インチ大画面のテレビジョンを買わせる理由が出来たと、宣言したほどのひとだから、そういうふうにいっておけば、~女連れだけど、深い仲というのではナイのね~と瞬時に悟る女優だから、それでこっちも安心して、となりに座らせても平気になる。とはいえ、東京の知り合いが、次々に「お久しぶり」と来るたびに「えー、彼女はその・・・」と、なんでそんなに〈関係〉を解説、説明しなければならないのだろうかと、もう面倒で、しかしながら、反面、隣に(傍に)いる彼女が、なんだか「さらし者」になっているようで、可哀相な気にもなって、それだけで自分がものすごく悪いことをしている気になって、下心どころか、上心ももうワカラナクなって、ああ、そうだよなあ、こういう現状、情況から始めなければ不条理劇というのはダメなんだろうなと、ひょいと北村想が現出したりしたりして、ますます混乱の度は高まっていくのだ。

で、あんまり彼女の顔をじっと観るのも失礼だろうけど、視線を外しっぱなしにするのも失礼だろうから、時折、チラっと観ればいいのだが、これも北村想になってしまうと、凝視、観察に入ってしまうからヤッカイなのだ。実に簡単なメイクで、金太郎というよりは、桃太郎タイプなのだが(顔だちが)、べつにホンモノの桃太郎を観たことはナイから、それはまあ、metaphorで、 身長は私より約1センチ高いので、彼女もそれはワカッテいるらしく、歩くときにやや、前かがみになるようになるように努力しているようで(と、ここでも北村想は発動しているのだが)「前かがみにならなくてイイから」と訓戒したりして、それは私の思い込みかも知れないけど、たぶん、思い込みではナイ。やっぱりそういうふうな気持ちで歩いてはいたらしい。ただ、救われたナと思ったのは、彼女の持ちものが、小さなバッグパックと、手持ちの帆布袋だけで、そういうシンプルなのはいいねえと、とても気が楽になった。

私はこうみえても、こんな職業をやっていても、知ってる女性は一桁で、うち、三人とは結婚しているし、三人とは結婚するつもりで付き合っていて破談になっているのだから、女性と〈遊ぶ〉ということが、出来ない。出来ないというのは、どういうことかというと、よほど躁転していない限り、たいてい過敏性腸炎になって、水下痢になる。だから、ほんとうの意味で〈出来ない〉のであって、せっかくだから、赤煉瓦にでも行きますかね、と、デートのようなことを朝食のアト、企んで、いざ出発(の前に三度も自室のトイレに座ったんだけど)してみると、雨の朝、横浜の港の公園、赤煉瓦と、ロマンが転がっているはずが、やはり水下痢で、(便は出ないのだが、水溶液が、肛門から漏れ出るのだ)公園に着くやすぐにトイレに駆け込んだりして、ああ、オレの下心は何処へいったのかと、あちこち探さなければならないくらい、そういう気持ちも失せてしまっていて、赤煉瓦は、単なるお店の集合体になっていて、11時にならないと開かないのだ。浜の蒸し暑さは尋常ではなく、セロトニン症候群で倒れても、肛門から水が溢れだすだけだから、下心はとうぶん無理っ、、、タクシー拾ってホテルに帰ってきて、なんで、きょうに限ってこんなアスペルガーみたいに書き散らすのか、ヒマだからですよ。なんか、他に意味とか、理由とか、あると思って読んでましたか。それなら、スンマセン。

涙、壊れているけれど②

対岸の火事、対岸までの距離感

 

トランプ氏のこととか、北朝鮮の弾道ミサイルのこととか、中国のナニ考えてんだかのこととか、朝、イートインに朝食をとりに行く数分の町の風景の中にみつけることは不可能だなあと、なんでなんだろうと、で、台風の天気情報のように、「えーと、どうやら戦争になりそうです」なんてことをラジオだか、テレビだかのニュースバラエティ番組がいいだして、「へーえ、そうなんだ」とか、さほどビックリでもなく、当然でしょみたいに聞き流すんだろうなあ。そういう日常なんでしょうねえ。日常がニチジョウになってきていて、火事ですっていわれても、「えっ、対岸って、ここのことだったの」って、春の小川でもはさんでいる程度の対岸までの距離に、これもビックリではなくて、「いやあっ、知らなかったなあ」みたいにおもうんでしょう。

 

東京に二日ばかり行って、名古屋に帰ってくると、名古屋の人口密度にほっとします。

私、「ひと酔い」するほうですので。宿泊を横浜馬車道にして正解でした。渋谷とか新宿とか、毎朝、廃墟(廃墟は好きなんですけど、そういう廃墟じゃなくて、ゲリラと政府軍との戦いで、みんな逃げ出したようなそんな街、だから廃街かな)になっていて、『モダンタイムス』のトップシーンのほうが活気があったんじゃないかなと、妙な風に吹かれます。

いつものコンビニ・スーパーで、とにかく飯かなと必要なものを買い物して、それで、食ってからちょっと昼寝して、もう一度コンビニに(たぶん、晩飯の献立が早く決まったので)でかけると、レジに、いつものお嬢さんがいて、「どうして今日、午前中、来なかったんですか」と、プンといわれたので、「来ましたよ」「あら、私、休憩だったのかな」「いや、いましたよ。別のレジに」「プン。昨日、一昨日と来ませんでしたね」「昨日、一昨日は東京だよ。オレも仕事してんだから」「ふーん、仕事ねえ」「東京からしか、仕事がこないからね」「でしょうねえ」って、これって、コンビニレジ嬢と、する会話なのかなと、こんな調子だから「今日、何時上がり」「〇時」「そんなら、〇時にイートインで待ってるから、オレんところでちょっとヤってく」「そうしようかなあ。でも、妊娠させたりしないでね。私、まだ就職先決まったワケじゃナイんだから」

そういう妄想に瞬時にかられて、レム睡眠時にみた夢のようにして消えていくのも、精神疾患のせいではナイという気がするのです。

その夜の、結論です。「ともかく〈いい加減〉に生きるのがイイ。とはいえ、〈いい加減〉に固執するのもイケナイ。と、考え過ぎるのが、もっともイケナイ」

2016年6月23日 (木)

涙、壊れているけれど① 

雄吉さんのこと、「ただの自転車屋」のこと

 

そりゃあ、四十年近く向精神薬飲み続けてきたんだから、脳だって壊れますよ。精神は壊れてるといってもイイ。でも、心的にはまだ大丈夫だ、という気はしてますね。

こないだ、雄吉さんが亡くなった時刻というのが、夜中の3時25分なんだけど、オレね、その夜中の3時25分だか27分だかに、突然、覚醒、つまり目が覚めちゃったのよ。なんなんだこんな夜中に、しかも、ぼんやりとではなく、ハッキリと。時計みたら、3時25分だか27分だかその辺りだった。で、しょうがナイから、酒呑むかと、ウイスキーのソーダ割り二杯、十勝ブランデーを一杯呑んで、寝た。起きて、昼過ぎだよ。小堀くんから、訃報が入ったの。で、3時25分だっていわれたんだけど、そのときは、まったく聞き流してたんだなあ。で、ふいに思い出したんだ。あれ、オレ、起きたよなあって。この辺りが精神は壊れているんだけど、心的にはまだ大丈夫だという根拠かなあ。そうか、あれ、雄吉さんが、ワカレの盃してくれたんだと。そういう体験は以前にもあったから、すんなりそう思いました。あのね、幽霊とか、心霊とか、そういう存在は、全然信じてません。でも、そういう出来事って、あってイイとココロは思うんです。ココロが思うことは信じることにしてんの。

 

劇団東京乾電池の『ただの自転車屋』ゲネと初日観ました。ゲネのほうがバタついてて、オモシロカッタ。本番って、どうしても「うまくやんなきゃ」「ちゃんとやろう」って、思うからなあ。でも、どっちもヨカッタです。柄本さんが、ゲネ終わってすぐに感想訊きにきたんだけど、あのね、柄本さんでも芝居の出来は気にすんのよ。アタリマエじゃん、役者なんだから。演出してんだから。世間じゃ、柄本さんのこと誤解して、このひとは芝居の出来不出来なんかどうでもイイと思ってるヒト、だと、そんなふうに評してる、の、いるんだけど、そりゃあ、チガウ。で、オレの感想「あのね、仏さまが三人、遊んでたようにみえた」、これには柄本さんも、柄本さんも首ひねってたけど、オレにはそうみえました。そんだけ。

2016年6月21日 (火)

断片

/重力と時間は関係する。ブラックホールがその例だ。重力の無いところでは時間は生じることはない。

加速度、微分、逆のベクトル。/

/なにもそうかたを つけたがらなくてもいいではないか なにか得態の知れないものがあり なんということなしに ひとりでにそうなってしまう というのでいいではないか 咲いたら花だった 吹いたら風だった それでいいではないか/


 

/アインシュタインなどの学者たちからは「神はサイコロを振らない」とボーアたち量子力学に批判を加えますが、ボーア自身も「アインシュタインよ、神が何をなさるかなど、注文をつけるべきではない」と反論した有名な言葉が残っています。/

/世界を自らのものに〈表現〉⇒規定、しなおせ。

そう簡単に世界は表現出来ないだろうが、そこからの逆の規定(従属)に反抗するには、加速した表現しか方法がナイ/

/走れ、愛を知らぬ子よ/

/重力そのものが時間です/

/コトバは分かち合うものです。
 
他者と、そうして自分と。/

/コトバを量子として考えると、コヒーレンスな自己組織化された混合状態と、コヒーレントな純粋状態に置き換えられる。後者は波の重なり合う状態ベクトル、だが、コトバの分かち合いとは、こうした状態ベクトルをいう。不二の法門。コヒーレントとは、まさに、このことだ。
 
以上の命題を量子力学として、観測理論的に、証明すればイイ。/

/昼行灯としての固有と、仕事人としての固有。合わせ鏡も数は二つ。

たとえ、無限(さまざま)を映そうとも、実体は二つ。/

/還相は〈チンパンジー〉となることだ。/

/積分とは、分けて積むのではナイ。分けて埋めるが正しい。
 
けだし状態ベクトルとは、重ね合わせだ。微分の対語は、こちらが正しい。

微積分は、アルゴリズムにおける逆算(表裏)ではあるが、概念としては〈対〉とはいえない。/

 

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