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如何なるものも歴史には遺らない。何故なら、歴史それ自体が消滅してしまうからだ。
演劇は、今後は、文学としての戯曲(書かれた劇)としての発展、生成、が、いずれ「読まれる劇」という文学として、新しき分野を確立するだろう。
「演じられる劇」は、「観るもの」としては、次第にその必要性を希薄にしていく。何故なら、観手にとって「私は何をみせられているのだろう」という〈不充分〉な隷属性の支配が拡張されていくからだ。簡便、端的にいえば、観劇の多くは、観手にとって、「手応えが無い」という感想につきる。
「読むことが出来、観て、手応えのある〈芝居〉を創造していかなくては」
ひじょうに、単純なことだが、演劇、舞台、芝居、は、「観客」が観ることによって成立する。これは、観客にシンパシーを求めたり、観客サービスに腐心せよといっているのではナイ、ことは、いうまでもナイ。むしろ、100人中、一人の観客の心身を震撼させることが出来れば、残りの99人はどうでもイイ。(実は、これは、手塚治虫さんの70年代のコトバで、もちろん、手塚さんはマンガについて語っている)
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