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若い頃に〈いい時代〉を生きさせてもらったと思う。そのころ、読み、観て、聴いたことは、いまの私の仕事の財になっている。だから、いまは、その財にほんの少々の利子をつけて返還してているだけだ。
このあいだは、伊丹の戯曲塾の第二十期生の卒塾公演が成った。作品そのものより、塾生たちの緊張した顔と笑顔が最高の収穫だった。一期約10~12人として、200~240人の「明日来るひと」たちの半数は、すでに「今日生きるひと」になっている。
とはいえ、私自身は「むかし生きたひと」ではナイ。
六十三歳からは余生だとは思っているが、余生は延命ではナイ。また、ふつうの市井の人々なら、悠々自適な者もあるにチガイナイ。私事の恥ずかしき事情で、いまは独り暮らしに甘んじ、四十年にわたる〈うつ病〉との闘いはいまだ決着をみない。身体はかなりのガタつきで、破損個所が数多だが、精神とココロは十六歳を固持している。
もう少しアトから観ようと予定していたが、昨今の眼のイカレ具合から、ちゃんとみえるうちに観てしまうかと、『必殺必中仕事屋稼業』のDVDボックスの封印を解いた。この作品は、必殺シリーズ中、最も芸術性の高い作品で、エンターティンメントとしては、『必殺仕置人』の正・続が最高傑作とされているが、いわゆる主水もの以外の系列でいえば、『必殺からくり人』と双璧をなす、これもまた最高傑作だ。物語の内容は殆ど忘却しているが、第一話の最後のせりふ、元締めの草笛光子さんのコトバだけは記憶している。ひょんなことから、かつて棄てざるを得なかった実子を仕事人に持つようになってしまい、その彼にこういうのだ。「あなたが地獄に落ちるときは、私も一緒です」。
この作品の最終話のあまりの冷酷さに、当時の私は、震えるほどの衝撃を受けたことを、いまでも覚えている。と、同時に、ひとというものは、覚悟を迫られるときがいつかは来るのだという〈覚悟〉、覚悟の覚悟を心身に刻んだ。
今夜の晩飯は、水菜と油揚の煮物だ。
水菜もほうれん草も高値だ。その理由をいろいろと調べてみたが、ひとつだけ、なるほどと思うコトバがあった。曰く「野菜が安いというのは、ほんとうはおかしいことで、種まきから収穫までの手間ヒマを考えれば、もっと高くてもイイはずだ」
野菜も、農業から工業化へと進んでいっている。野菜がほんとうに安値で提供される日も近いとかんがえる。
この工業化は、金融にも進出し、「金融工業」という新分野の学問が、すでに実質的に動き出し、投資家の中にはそれで利潤をあげている者もある。これはヘッジファンドのように大きな儲けと大きなリスクを背負うものでなく、それなりの投資に見合った利潤と、なによりも、「良いことをすると儲かる」という、経済のコペルニクス的転換を成し遂げた。
私たちは、環太平洋の連動地震のさなかにあって、文明が一瞬にして崩壊することを、人命が簡単に損なわれることを虞れているが、生まれてきた以上、死ぬのは一回だけだ。そうしてそれは「一呼吸」のあいだに決まる。吸って吐いて、ひとの命はその長さだと諭したのは、釈尊だ。
世界は変わろうとしている。人類の視線のベクトルは一斉に、いい兆しに向いた。何も知らずに猿のように騒いでいるのは、政治家と称する詐欺師だけだ。
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