劇評『PORTAL』(作・林慎一郎、演出・松本雄吉、林慎一郎)
2016/03/13於、京都ロームシアター15:00
いま、都市論めいたものを戯曲、演劇で表現しようとするならば、その時間性は空間性によって変容されたところの時間性をもって描かなければならず、逆に、空間性を描こうとすると、時間性によって変容されたるところの空間性を解いた上で、説かねばならない。さらに、都市論は〈劇〉という表現において、都市〈生活〉論に昇華されねばならない。
都市をみつめる眼差しを〈記憶〉という心象を頼りに、生活の定住と移動を往還させ、「都市の地図」はかくも緻密に大胆に、そうして正確に概念を置換されて、林慎一郎の脳髄において、作品『PORTAL』として刻み込まれた。これが、神なるものの突きつけたゲームに対する応手であろうに、さらに、その結果として、神も知らぬ、ひとの〈哀しみ〉すら浮き彫りにしてしまった。この傾向のさまざまな演劇において、これ以上の完成度をみせた舞台を、私は他に知らない。
林慎一郎の〈ハイ・イメージ〉論ともいえる、このシリーズのこの先の課題は、この都市生活幻想の中に、今回、かいまみせる程度だった〈対幻想〉を如何にして対峙させていくかにつきる気がする。
私も、林慎一郎のいう「ヤコブの梯子」の螺旋階段を昇っていくつもりでいたが、イイワケがましく述べると、長年の忌まわしい疾病のために、いまや精も根も尽き果てた。けれども、林慎一郎の成さんとしている〈仕事〉のおかげで、肩の荷をひとつ降ろすことが出来たというのが正直な気持ちだ。林慎一郎は伊丹想流私塾の塾生から師範へと、つまりは流れだけでいえば、私の弟子スジということになるが、鳶が鷹を生むとはまさにこのことをいうのかと、苦笑している。
松本さんは、よくぞ、林をツカマエテ下さった。松本さん無くば、林も私の退屈と暇つぶしに付き合ったに終わったにチガイナイ。
あたしゃ、もう、これで、アトは使い棄てられるまで使えるものを好きなように使って戯れ言を弄する仕事と、かないもしない恋がまたあるかも知れないという妄想(romanticism)に抱かれて、余生とやらを経験すればヨシということにスルわ。
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