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曽野綾子センセが、どこかに「年寄りは適当なときに死なねば、ただの邪魔者」みたいなことを書いて、物議をかもしております。
このセンセの場合いつも「またかよ」です。こないだは、アフリカだったか、「人種別に住むべき」発言でした。
このひとは熱心なクリスチャンです。ですから、たまには、自分の親方である「ヤハウェ批判」でもしてみるべきだと、私は思います。それだって「愛」じゃナイですか。でないと、オウムなんたらと特に変わらんことになります。
「自分のいってることはいつも正しい」とすると、「神」が絶対に正しいのなら、この世界も絶対に正しいはずですから、のこのこと、どうこういう理由も必要もナイはずなので、この女のいってること(営為)は、矛盾しているということになります。
クリスチャンは神に対してはなんでもアーメン(然り、そのごとく)といっていればいいはずなのです。
そういう理由で、トルーマンは、ヒロシマ、ナガサキに核を投下したんですから。
「アメリカは神の創りたもうた国である」この政治信条は、アメリカ大統領においては、歴代も現在も不変です。
アメリカの富の約40%はわずか1%の富裕層が保有しているという現状は、天国に住める確率と相当するのなら、納得もいくというものです。
「葡萄園で夜明けから丸一日働いても1デナリ、夕方から1時間でも1デナリ」(『マタイ福音』20:1~16)天国の〈平等とは何か〉についての説法です。とはいえ、葡萄園の労働が、夕方からその多忙、苦労、厳しさ、辛さがあるとするならば、マルクスの経済学には反しますが、これはこれで正しいともいえます。マルクス経済学が現在通用しないのは労働時間に対する情況論の部分が、現在にそぐわないからです。とはいえ、資本主義経済学では、貨幣は商品として扱いません(金融売買があるのにネェ)。ネット通貨の「ビット」は「商品であって貨幣ではない」という判断でした。マルクス学派は、苦笑しているでしょう。マルクス経済学では「貨幣も商品」ですので。
私の場合、戯曲は書き始めたら一週間で書き上げますから、稽古初日にホンが出来上がってナイてなことはありません。つまり、一週間でも数カ月でも脚本料は同じということです。そうなると私は、夕方から1デナリをもらって働く農民と同じことになります。そう考えればマタイ福音のこの説法には不平はありません。
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