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2016年2月

2016年2月29日 (月)

♡~28

ラジオしか聞いていないのだが、耳障りなのが、弁護士事務所の町金過払い金を取り戻しましょうcommercialで、そんなに儲かるのかと外国ドラマの『ザ・グッドワイフ、彼女の評決』を観ているものとしては、そのみみちさに愕然とする。〈みみちい〉の語源については(意味はケチとかセコイとも少々違って、やることが小さいということ)「ミミズのようだ」という説もあるが、イメージとしては、まあ、それでイイんじゃないの。
いわゆる「法廷もの」が好きで、つまり、あの検事と弁護士(双方とも代理人と呼ばれるのだけど)の法廷での論戦は、戯曲を書く上でタイヘン勉強になる。もう少し詳細にいえば、あの字幕がだけど。論戦なので、かなりの速さで多くのコトバが飛び交うのだが、字幕作家はそれを、実に上手く処理している。あの略し方に学ぶことが多いのだ。かつ、こういわれたら、こういいかえす、という脚本の上手さにも唸るところ多い。

2月は神経がまいる月で、キチンと記帳するようになってから、費やされる時間は大幅に短縮されたが、アルゴリズムというのは、まったくむいていなくて、最初計算して出た数字を確かめるのにもう一度計算すると、同じ、あってる、うん、で、下書きをして、提出用に書いて、さらに念のために計算すると、チガッテいるのは、なんでなんだろう。毎年こればっかりで、まるでマーフィーの法則かよ、と思ってしまうのだが、そこで、赤線いれて(戦後の赤線は、正確には線ではナイ。斜線を引かれた平面だ)判子捺して、真っ赤っかになって、さらに計算すると、またチガウ。断念して、税務署のウェブから新しい申告書をプリントアウトする。今年はそこまで至らなかったが、郵送するのに封をする前に念のためをやったら、計算チガイがワカッテ、やっぱり赤くなった。致命的な計算チガイで収入の額が千円単位で微妙にチガウ。こうなると、所得の額もチガッテいるのは必至で、けっきょく、やりなおしなんだけど、還付金の額は1000円増えただけだ。これ、年に一回だから、やり方を忘却してしまうというのもある。せめて、年3回、四カ月ごとにしてもらえないかな。そうなると、税務所職員の仕事が多忙になるってか。あのな、私たちの税金の48%は公務員の賃金になるのだぜ。
だったら、エクセルを、あのな、年一回のことに何でエクセルをマスターせんとあかんねん。マスターしても、年に一回なら、けっきょく忘れてるわ。
では税理士か。それはイヤだな。自分の稼いだ銭が、どれだけむしりとられるか、あるいはこの年、まるで仕事がなかったことに唖然とするか、身に沁みてココロに刻むために、ボールペンで、切り裂きジャックのごとく数字を書いているのだ。ゲシュタルト崩壊に耐えながら。

2016年2月27日 (土)

♡~28

8frustrationでムシャクシャするときは、うたでもつくるに限る。

春には野辺の花が咲き
夏には星の空をみる
秋には月と虫のこえ
冬には北風、雪ん中

きみとすごした ふるさとの
きみによく似た かすみ草
きみと歩いた あの道で
きみ泣いた 涙の夜よ

さよなら いつまた 帰る
またくる 春の朝の日に 

ベタでイイんですよ。そういう歌詞にちょっこっとした工夫を加える。
こういうのを歌詞のカノンコードという(のかどうかは知らん)。

2016年2月23日 (火)

♡~27

歌謡曲『寒い朝』はは1962年4月20日にビクターレコードから発売された吉永小百合のデビューシングルだ。和田弘とマヒナスターズと共に歌っている。
北風の吹き抜く寒い朝も、こころひとつであたたかくなる、北風の中に待とう、呼ぼう、春を。というふうな歌詞になっている。「寒い朝」や「北風」や「春」をmetaphorとするならば、つまり、私たちは、1962年から「春」がやって来るのを「北風」の中で待っていることになる。そんで「春」は来たのか。そんなことを考えると、ベケットの『ゴドーを待ちながら』にまで思いを馳せねばならない。よく上演されたり、一字一句の変更を許可しないという条項があるので、似たような趣向の作品や、捩った、パロった作品は日本にも多くある戯曲だが、私はこの、のったりのたりした、ハッキリとしない、思わせぶりな戯曲が大キライだ。と、この件については、また一♡設ける。
要するに1962年には、もう人々は「春」を「北風」の中に待っていたのだ。呼ぼうとしたのだ。然りといえども、いまは「冬」だ。季節のことをいっているのではナイ。経済の冷え込みと、世知辛くなった世間をいっている。
この後、いったい何年、この日本は寒い朝を迎えるのだろうか。寒い朝くらいなら暖房と防寒具でなんとかなるかも知れないが、これが「氷河期」なら、もはや、春を待つも呼ぶもへったくれもナイ。せめてへったくれくらいはあって欲しいが(〈へったくれ〉の語源は不明だが、基もとは関西弁だったのではナイかといわれている。つまりヘッタ+クレということになるのだろうが、ヘッタが蔕なのかどうか、判然とはしていない)。
寒い朝というのが、metaphorでもナンデもない、そのまま存在するのが、東日本震災の仮設住宅だ。西成のドヤよりひどい、このヤサに、まだ、半数近くの住民が住んでいるのだ。
大臣の失言やみみっちい銭の収賄にケチをつけてるヒマがあるなら、網走番外地並のこの住居環境をいいかげん、なんとかしたらどうだ。それが出来るまでは、私はけして現政権のあらゆる言明、言説も信用しないことにしている。
寒い朝ではナイが、寒い夜に、毎年食ってた常夜鍋(豚小間とほうれん草だけの鍋)に用いるほうれん草の、その価格を観て、こっちが凍てつくワ。ピーマン一個が特売で一個51円という情けなさにも凍りつく。
もちっと文化的な話をすれば、シネコンというところの従業員はバイトばかりで映像技術に関する者は、ひとりも配置されていない。総て通信で送られてくるからだ。バイトはポップコーンの販売と掃除ともぎりをやっていればイイ。この前、画面と映像の比率があきらかにチガウ通信ミスがあったので(具体的にいうと、映像の両切りなんだけど)、苦情をいったが、なんともならないということで、苦情をいった私も、受送信の中間設定設備が館内にはナイということは、初めて知った。
小さな単館上映映画館も、フィルムから通信への切り換えを余儀なくされているが、これに最低1千万かかる。かけても数年後には、また更新させねばならない。洋画ばかりが喧伝されているが、上映本数でいえば、洋画の倍以上の邦画が創られていて、一週間から、ひどいのになると土日だけ上映され、DVDに「劇場上映版」などと記されて、レンタルされたり、セルされたりしている。このDVDの価格は、驚いたことに、セルよりレンタル用のほうが高いのだ。もちろん、レンタル用のほうが多く円盤になっていく。最近では映画も通信になってきて、欧米ではすでに円盤より通信のほうが多いのだが、日本人はそのお国柄か、あまり通信を信用してはいないようだ。アダルトになると、セルとレンタル用とでは、映像がチガウ(らしいが、これは、まあ、聞いただけ)。
かつて、石原裕次郎は、浅岡ルリ子さん(存命者には敬称をつけます)と『夕陽の丘』をデュエットして(1963年9月1日)この売上げは143万枚(テイチクによる)だったそうだが、歌詞に「また呼ぶ秋はないものを」とある。『寒い朝』の1年後には、もう「秋」ですら、呼ばねば(呼んでも)来ないことになっていたのだ。最近は四季の区別があやふやになって、とは、よく耳にするが、そんなものは、1960年代初頭からのことだ。
で、お清めの塩の代わりに二句詠んでみた。

窓を開けて小さな春を入れた(日和よき午近く)

シリウスよずっと地球をみつめていたか(冬の夜、外に出て空をみつめて)

2016年2月18日 (木)

♡~26

うつ病の症状の苦痛に耐えている毎日。されど、脳(思考力)、カラダ(感性)、銭、まだ使える。もったいないので、使える限り使う。ポツンと死んでも、よし。使えなくなったら、そうなるだろう。
絶望など何もナイ。数多経験してきて、そんなものに意味はナイと学習した。たとえ逸しても、失しても、〈希望〉だけ持っていればイイ。ただし、ego な希望は持たざるがよし。これは他者に対して迷惑千万。それがワカラヌ者、在るが、呪わぬ。勝手にすればイイ。利他は即ち自利。これが近江商人の遺伝子の現出と、信ずる。
かつ、生存意志は、ホモサピエンスの遺伝子に依る。

2016年2月17日 (水)

♡~25

てなことを、昨日書いたんだけど、その後、バックアップをとるために、64ギガの「超高速USB」(ケイズ会員値段一割引で6400円)を買ってきて、早速始めたところ、ちょっと変。で、3%でやめて、中身を調べたら、「これ、ヤバイっすよ、修復して使わないと、トラブりますよ」というメッセージが。もちろん、起動フリーズして、またマイリカバリやった後であります。で、USBは修復させて、フリーズももどしたが、なんだか、厭世。マイクロソフトからのインストールは、とりあえず、「自動でするのではなく、当方で判断」に設定したら、セキュリテイ警告。この辺、どうも素人を脅してんじゃねえかと、厭世。たしかに、デスクトップが売れない理由、ワカリマス。「コトバの通じにくい外国人とつきあってる感じがする」と、パソコンのことを揶揄していた知人がいたが、うん、私もそう思うときが多い。

2016年2月16日 (火)

♡~24

ラジオ通販で、きょうは自宅でレーザー脱毛、をやってる「売れ筋でなかなか手に入らないところを、なんとか50台、確保しました」で始まる。これが、テキ屋の商売だということは以前書いた。39,000円だそうだ。50台全部売れても、199,5000円で、200万を切る。そんな儲けの薄い商いなどラジオでやるはずがナイ。おそらく一桁はチガウ。

「機械と役者は正しくマチガウ」、従って、その機械(パソコンなんですが)、役者が何を「正しく」やっているのかを見極めないと、徒労が始まる。我がパソコンが、マイクロソフトからの大量のアップデートプログラムインストール(自動)にさられれ、フリーズしてばかりで、サポートセンターに頼ったが、同じ苦情の対応に追われているとのことで、より上級のサボート・スタッフのほうを紹介され、そこで、リモートで(つまり、こっちのパソコンを向こうが操る)二時間ばかり苦闘してもらったが、結果は「リカバリーでないと手の打ちようがナイですね」だった。もちろん、さいしょに「成功報酬としての有償ではありませんので」といわれたが、「医者だって患者が死んでも銭とりますから、カマワンです」と応じておいた。その代わり会員になれば(入会費ナシ)半額になり、今回から使えますと、これも先に説明があったので、即、入会手続きから始めて、1400円程度で二時間つきあってもらったのだから、ここは仕方がない。
しかし、起動させないと、ヒジョーに困る。パソコンはもはや、ライフラインになっている(前年のアマゾンの配達回数は300回をこえている)。
まあ、今日は寝るかと、アルコールタイムに入る前に、「パソコン故障」と携帯でメールを幾人かに打って、ふと、思いついたことをやってみた。で四時間、修復成功。
そんな難しいことをやったワケではナイ。複雑=難解は正しくナイ。また単純=簡単もマチガッテいる。
とはいえ、まったくの「オッカムの剃刀」的手法だった。結果を待つ心境は、「シュレーディンガーの猫」だった。
リカバリーすると、セットアップからやりなおさねばならない。これは素人では一日かかることもざらだ。そこで、Dドライブにマイクロソフトインストール以前のバックアップをとって、Cドライブ(機動中のドライブ)のデータを消去、バックアップのデータをリカバリーに使うのはどうかと考えた。成功確率は半々だったが、方法としては正しいはずだ。それをやろうと、起動だけは出来るセーフ・ネットモードで起動させたら(セーフモードですら起動できなくなっていたので)、なんのことはナイ。そういう機能(マイリカバリーというアイコン)があるのだ。要するにヤルことは、一緒。このアイコンが思うように機能してくれれば、と祈る気持ちでやってみたが、結果、うまくいった。修復成功。
だが、起動出来ない(インストールプログラムを再構成出来ない)という問題は残る。これもついでに考えながらの仕事だったが、最近、パプォーマンスをアップしたことを思い出して、このアップが機械に負荷を与えていると推論、パフォーマンスを下げた。
おそらく、これでイイと思う。
役者は、マチガイを承知で演じているワケではナイ。そんな者は論外。これが正しいとイメージして、演じている。けれども、何処かで正確にホンを読み違えていることが多い。これには、演出家がどうのこうのをいうより、キチンと、役者のリテラシー(読むという能力)を考えて、劇作家は戯曲に対するリテラシー(書くという能力)を磨くべきなのだ。

こっちの疾病(うつ病)もリカバリー出来るといいのだが、ふと、そう思ったわよ。

2016年2月10日 (水)

♡~24

報告になりますが、視野欠損が現出したので、眼科で、視野検査、眼底精密検査、視力測定などやりました。で、結果、緑内障に結びつくものとは関係ナイ。つまりその点では異常ナシ。眼底も安定しており異常ナシ。という医師の所見。視力は、助手のお嬢さんに訊くと、眼鏡着の場合、右1,5に左1,2で見えてる(ハズ)なんですけどねえ。何で、見えにくいのか、次回よろしければ検査して、処方箋出します。とのことで、そうする。だって、このお姉ちゃんが、(以下、略)
名古屋に眼精疲労専門の鍼灸師が在るとの情報を得たので、精神科医の合意書をもらってから、そこへも、行ってみることにします。
いやあ、なんつうか、加齢でうつ病の発症、症状が以前とチガウのだ。1年以上、闘病はつづいております。

♡~23

「悟りを得る」という命題は偽。何故なら悟りは「開く」ものだからだ。「得る」としたなら、「悟り」とうものが、何処かに存在することになる。「開く」のは自分だ。その方法が「中道」だ、と釈尊は述べた。あたしゃ仏教学者でも坊主でもナイけどね、一応、釈迦の思想は自分なりに学んだかんね。これいうと、上座(小乗)の修行ボンズ(これ、ポルトガル語、ボンズ、差別用語です)からは、本読んだだけでしょ。そんなものはダメなのよといわれる。んじゃ、あれかい、聖徳太子は、ありゃダメかい。修行なんかしてないみたいだけど。と、まあ、揶揄することにしている。
「中道」というと、苦行はダメ、けど楽もダメ、だからその中程をって、なんだか妥協のように流布されているけど、それも上座のウソ。中道というのは、「道」なんだなぁ。だって中道だもん。
釈尊自身が悟りを開いたかどうか、それはまあ、どうでもイイ。「開く」っていうからには、「叩け、さらば開かれん」で、叩かなきゃいけない。で、どこにそんな門があるのかというと、ワカンナイ。だから、中道。まあ、中くらいの(ほどほどの)速度で道を歩いていけばいいんじゃないの。リヤカー牽いて、荒野を。何処かに門くらいあるだろうって、そんないい加減な感じで。拙作『寿歌西へ』は、そういう作品です。
自分との闘い。闘病というのをこういうふうに誤解してはいけない。自分と闘ったって仕方ない。闘うのは自分の「疾病」とだ。なんでなら、それが自分を楽にする中道だから。この道の歩き方は、ニュートンが「無限」に対して定義した〈極限〉と同じ。だから、負けたってイイじゃん。自分に負けたワケではナイ、自分は闘って、疾病に負けたと、まあそういうことですから。闘った自分を褒めてあげるべきです。
で、ありますから「自分との闘い」なんて誰がいったのか知らないけど、そういう聞こえはイイが、マチガッタことはしてはイケナイ。〈自分の何〉と闘うのか、冷静に考えてから、闘いはやんなさい。六十四歳なんだから、これくらいの説教はお許しあれ、だ。
闘い方、いろいろあるでしょう。けんども、普遍的にいえるのは、「自分の何か」と闘うときは、「みんな独り、ひとは他人」が前提。「孤独」は分け隔てなく、人間が持っているもの。(私のような例外も中には存在するけど。私は孤独ではナイといってんじゃナイのよ。〈孤独〉というのが、よくワカランの。〈愛〉もだけど。愛情、人情ならワカルんだけどな)。「ひとは他人」です。このほんとうを解すれば、腹もたたないはずなんだけど、怨みもしないはずなんだけど、なかなかそういう境地にはねえ。しかし、「他人」のために何かする。これ「情はひと(他人)の為ならず」です。とはいえ、ここはまた難しい。「善かれと思ってしたことが、必ずいい結果になる」とは限らない。因果ってのはナイの。因縁もナイ。あるのは「関係の偶然性」或いは「関係の確率性」。この結果を産んだ要因は、これこれってのはナイ。結果は一つしかも知れないが、要因、原因は、数多あるから勘定できない。よって、そんなものを結果の因なんかには出来ない。自然世界には原因、要因、つまり因はアリマセン。結果だけがあるのです。その偶然と確率とだけがあるのです。
「断舎利」ってのが、流行ってんだってな。「断=入ってくる要らない物を断つ」「捨=家にずっとある要らない物を捨てる」「離=物への執着から離れる」。やましたひでこって御仁がヨーガの行法、「断行」「捨行」「離行」という考え方を応用して考案したもので、人生や日常生活に不要なモノを断ち、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れられるという考え方、生き方、処世術です。(やましたさんは「断捨離」という言葉を商標登録しています。商標登録第4787094号。こういうのは、お捨てにならないでしっかり持ってらっしゃる)
私の場合「入ってくるものが要るのか要らないのかワカラナイことが多いので、とりあえず脳内に情報としてファイルしておく」。「要らないものは捨てないで、それを要しているところに送る。あるいはまったく別の使い方がないかを考える」(そういうことが出来ないものはもちろん棄てる)。「何事にも執着する」(固執はイケマセン。しかし、投げ出すのはもっとイケナイ。柔軟にいかないと。私は能無しだから、ただただ粘る。粘って考える。で、これは執着する必要なしと結論したらハイ、それまでよ、です)。これも、「中道」の考え方です。でも、ちょっとアレって思うでしょ。しかし、「執着しない」ということは出来ない相談なんです。論理的にもいえます。ひとは執着しないと決めたら、執着しないことに執着してしまう存在です。それと、「とりあえずファイル」ってのは、・・・方法があるんですが、また次の機会ということで、はい。「断舎利」、ヨーガの行、くっだらネエ。

2016年2月 5日 (金)

♡~22

曽野綾子センセが、どこかに「年寄りは適当なときに死なねば、ただの邪魔者」みたいなことを書いて、物議をかもしております。
このセンセの場合いつも「またかよ」です。こないだは、アフリカだったか、「人種別に住むべき」発言でした。
このひとは熱心なクリスチャンです。ですから、たまには、自分の親方である「ヤハウェ批判」でもしてみるべきだと、私は思います。それだって「愛」じゃナイですか。でないと、オウムなんたらと特に変わらんことになります。
「自分のいってることはいつも正しい」とすると、「神」が絶対に正しいのなら、この世界も絶対に正しいはずですから、のこのこと、どうこういう理由も必要もナイはずなので、この女のいってること(営為)は、矛盾しているということになります。
クリスチャンは神に対してはなんでもアーメン(然り、そのごとく)といっていればいいはずなのです。
そういう理由で、トルーマンは、ヒロシマ、ナガサキに核を投下したんですから。
「アメリカは神の創りたもうた国である」この政治信条は、アメリカ大統領においては、歴代も現在も不変です。
アメリカの富の約40%はわずか1%の富裕層が保有しているという現状は、天国に住める確率と相当するのなら、納得もいくというものです。
「葡萄園で夜明けから丸一日働いても1デナリ、夕方から1時間でも1デナリ」(『マタイ福音』20:1~16)天国の〈平等とは何か〉についての説法です。とはいえ、葡萄園の労働が、夕方からその多忙、苦労、厳しさ、辛さがあるとするならば、マルクスの経済学には反しますが、これはこれで正しいともいえます。マルクス経済学が現在通用しないのは労働時間に対する情況論の部分が、現在にそぐわないからです。とはいえ、資本主義経済学では、貨幣は商品として扱いません(金融売買があるのにネェ)。ネット通貨の「ビット」は「商品であって貨幣ではない」という判断でした。マルクス学派は、苦笑しているでしょう。マルクス経済学では「貨幣も商品」ですので。
私の場合、戯曲は書き始めたら一週間で書き上げますから、稽古初日にホンが出来上がってナイてなことはありません。つまり、一週間でも数カ月でも脚本料は同じということです。そうなると私は、夕方から1デナリをもらって働く農民と同じことになります。そう考えればマタイ福音のこの説法には不平はありません。

2016年2月 4日 (木)

♡~21

きょうは、終日、うつ病からくる身体の苦痛(具体的にいうと〈痛み〉)から解放されることはなかった。肩、腰の痛みから、肘や手首、指の関節の痛みまで、忍耐の一日だった。メンタルな痛みらしく、ロキソニンを二度服用したが効果はなく、ただただ、フリーズしているだけのような一日だった。
とはいえ、私は、自死などしようとは思わない。まだ何とか日常生活(炊事、洗濯、掃除など)は出来るので、やれるところまでヤルつもりだ。
とはいえ、もしものことがあったら、ということを考えて、親しい知己に、法律的な段取りのことは依頼した。承諾を得たので、ずいぶん安心した。
なんといっても、PCが午前中は読みづらく、かなりパフォーマンス部分を緩和させて、読みやすさ優先にしてはいるのだが、10分ほどで視力が変化して、諦めた。
午後は何とか仕事になったので、痛みを忘れるためにも仕事してみた。
現在も左手は痺れと痛みで不自由だが、打鍵は出来る。視力もまあまあだ。
「きょう一日のことはきょう一日で足りる」としておく。

2016年2月 3日 (水)

♡~20

パソコンのパフォーマンスをアップさせたので、動きは軽く(速く)なった。そのかわりに、一つ世代が古いタイプに様変わりした部分がある。時間待ちのマークが、クルクル回るタイプから砂時計(ひとによっては臼というが、確かに杵尽きにしかみえない)になったり、アイコンがそっけなくなったりはスル。つまり、じゃっかん観づらくなった。
ほんで、これを観やすくするために、4段階ある文字、アイコン、ポインターの大きさなどをいままでの1から2へアップした。ずいぶん観やすくなった。64歳なんだから、まあこれで、いいんじゃないのと、思う。アイコンの間隔が少し広くなり、ポインターが大きくなるだけで、ずいぶん楽なのだ。
視力は一日のうちでいろいろ変化するのだが、朝一は裸眼のほうがパソコンを観るのが観やすいのだが、すぐにパソコン用の老眼鏡が必要になる。30~40分ほどで一度数分の休憩を入れる。それでも夕方から夜になると、近眼用メガネをしていても外しても、向こうの文字は同じ。ところが、1時間ほど目を休めると近眼用メガネで向こうがみえるようになる。
覚悟していたことだが、視野欠損が出始めたので、いつもの眼科定期検診を繰り上げて来週の月曜に検査、測定に眼科。
これはしょうがナイことで、向精神薬(抗鬱剤)を40年も服用していれば、必ず目を悪くする。宿命のようなものだ。つまり、どちらかを選ばないと仕方ない。50歳くらいまで見えていればいいかと思いつつ、60歳までなんとかもってくれたことのほうがアリガタイくらいだ。
映画は、試写会も映画館にも行けない。もっぱらDVDを待つしかナイ。だから、海外ドラマの45分はありがたい。これだと、休憩30分をはさんで2本観られる。2時間以上の長い尺の映画は、1時間観たらやはり30分ほど休んで残りを観る。
それでも、たいていの戯曲なら一週間から十日あれば、初稿は書ける。加速度使うから。そこから三稿あたりまで書き直して、アップ。ふつうはそうなのだが、半年ほど寝かしておける作品などは、半年後にもう一稿からやはり三稿。
シス・カンパニーなどのタイプは、出演者の変更やなんやらかんやらで、10稿(最初は「準備稿」、次に「完成稿」、それから「上演稿」「上演改訂稿」これがⅠ・ⅡからⅡの2とか、ともかくね)くらいは書くだろうか。
「切れば血が出る」ホン、とシナリオのことをいったのは、川島雄三監督だ。映画会社には、演出部とか監督部はナイ。文芸部があるだけで、監督は脚本が書けないとなれない職種だった。いまはどうだか知らない。
日本映画が息を吹き返したのは、単純にテレビがつまらなくなっただけのことだ。演劇がかつて持て囃されたのは、映画がつまらなくなったからだ。いまはそうではナイ。いま、演劇はつまらない(ものが多くなった)。劇作家が書けなくなったからだ。あるいは怠惰に適当に書いている(ということが劇作家本人にワカラナイ)情況だからだ。
さて、視力が落ちてきた。ここらで、一応、オシマイ。

2016年2月 2日 (火)

♡~19

ニーチェが最初の書物を『ツアラトゥストラはかく語りき』とタイトルしたのは、のっけから、『アンチ・クリスト』の準備であり、すこぶるのアイロニーだった。「ツアラトゥストラ」、すなわち「ゾロアスター」は拝火教だが、イエスが引っ張ってきたのは、炎を拝むことではナイ。「天国」というカテゴリーだ。しかし、これは、のちに大きな傷を残すことになる。何故ならゾロアスター教は、中東から中国において起こった宗教であるために、ここにモハンメド(モハメット)という中東の預言者を産んでしまったことだ。これがイスラムとなって、キリスト教に叛するとは、イエスも予想だにしなかったろう。
イスラム教の「天国」と、キリスト教の「天国」とは、まったく概念がチガウ。イスラムのそれは、遥か遠く、この世ではナイ何処かにあるらしいのだが、キリスト教のそれは、特定されていない。この地上がそうなるのか、あるいは、現存(というのも変な使い回しだが)するのか、教派によって考えは異なる。イスラム教の天国が、極めて具体的に説かれているのに対して、イエスは聖書における言説を読む限りにおいて、天国をある種の喩として説いているだけだ。
ニーチェにもどる。ニーチェはイエス・キリストのみをキリスト教徒として認めている。つまり、弟子のひとり、パブロがローマ教皇になったことなどは、常に「権力」を問題視してきたニーチェの哲学においては、せせら笑うべきことなのだ。これは、釈尊の思想が、弟子たちの「結集」によって霧散したのと酷似している。

つづきを書くつもりが、一週間にわたる伊丹での、暇つぶし自主公演の旅になった。
帰ってきてその反動でか、鬱々と、なんだか、じぶんだけが、遺されて時代遅れの闘いだか反抗だかを意地になってやっているような哀しさと切なさに、メソメソと泣いてしまった。そうだ、あのひとに電話をしよう、励ましてもらおうなどと、アトから恥じ入るようなことも考えた。
生きるのはつまらないが、死ぬのはもっとつまらない。この時代、この世間をくだらないと思うが、それで自棄になる自分が最もくだらないのだ。
文化も文明も衰退と滅亡だけが、私の眼にはみえている。
しかしながら、きょうは、2018年シス・カンパニー公演の初稿冒頭のシーンを書いた。これが私の最後の作品になるかも知れない、てなことは、毎度、新作を書くときに心底思っていることだ。
「貧者の一灯」、そういうものに私はなりたい。
コルクボード仏壇に線香を焚いておくことにする。

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