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2016年1月

2016年1月24日 (日)

♡~18

☆ほんとうの自己(私)とかウソの自己(私)というものはナイ。なぜならば、ほんとうの自己(私)とかウソの自己(私)というものが判別(カテゴライズ)されて〈脳内〉に在るワケではナイからだ。ウソをつくということは、自己(私)を偽ることではナイ。そういう自己(私)が表現されたことになる、と、考えたほうがイイ。すなわち、脳(精神)においては、〈表現される自己(私)〉しか存在しないからだ。
☆自殺者が前年2015年は2万5千人で、5千人減ったという報道があった。つまり、これは、ほんとうは「自殺認定を二万五千人にした」というのが正しい。
☆ηある夕方のころ~風がおいらに伝えたさ~このまちの果てで~誰かが待っていると~俺は走った~呼んでみたさ~だけど俺を待つ影はなかったさ~・歌詞は虚覚えだけど、こんなふうだったと思う。唐さんの何の芝居だったかな。きょうは風に悪戯されて、スーパーの買い物袋が、結ばれたままコロコロと、あわてて停めた自転車は倒れるし、道路の車をぬって、買い物袋を追いかけて、やっとつかまえて、そうしたら、ふっと、この歌思い出した。唐さん、どうしてるかなあ。脳髄の中で風を観ながら、絵本描いてるかなあ。
☆ダーク・サイドってのがあるんだ。どんなひとにもね。「どうしたんだい、何か悪いことでもあったのかい。いつもと表情がチガウよ」てなふうに声をかける親しさがあるでなし、微笑みの消えた、いつものレジのお嬢さんから釣り銭受け取りながら、ああ、こんな恨むような顔も持ってるんだ、アタリマエだよな。と、こっちもココロ凍ったね。感情が動かなくなったナ。急いで帰って、布団にもぐり込んでラジオ聞いてたけど、日本語に聞こえないンだな。dark・side、日本語に訳すと「逢魔が時」かねえ。
☆〈自意識〉という認識は、他人と自己の区別には必要だが、それ以上に必要なものではナイ。後生大事にスルものでもナイ。自意識過剰なんてコトバがあるが、そういういい方をするなら、私の場合は〈他意識過剰〉だな。意識ってのは強固ではないので、いうならば「風通しがいい」ので、私はよく風になって、他者の意識を吹き抜ける。こんな術は、戯曲書きのリテラシーのようなもんだ。〈意識〉そのものがどんなものなのか、それは、意識したときには在り、そうでナイときには無いものだ。つまり、順序がふつう考えられているのとは逆なのね、私の考えでは。意識して動く、意識して思う、ではなくて、動いたり思ったりしたときに起こる作用を「意識」というのよ。難しくいえば、「認識の反(射)作用」かな。
☆『悲しくてやりきれない』って歌があるけど、たしかに〈悲しさ〉というものは〈やりきれない⇨胸を締め付けられるような ・ 可哀想な ・  哀れな ・ 気の毒な ・ 胸が張り裂けるような ・ 沈痛な ・ 身を切るような ・ 悲痛な ・ 辛い・ 心臓をわしづかみにされるような ・ 胸が圧迫されるような ・ 無念な・・ 胸をえぐられるような・ 切ない ・ すっきりとしない気持ちのもって行き場がない〉もんですね。

2016年1月21日 (木)

♡~17

機械というものは、正確に間違う。人間はスピノザにいわせると「もともとマチガッテいる」ので・・・そういうふうにはいっていないが、そういうふうなことはいった。・・・最近は気候が変だとか、日本(人)は平和ボケしているとか、正しそうにマチガッタことをいってる。気候というのは〈自然〉なのだから、間違ったりしない。自ら然りあるがごとくに振る舞っているだけで、それは「振る」「舞う」だから、じっと突っ立っている人間にしてみれば〈変〉にみえるだけだ。「平和」でボケたひとなど私に限っていえば観たことはナイ。ひとは「戦争」によって気が変になるのだ。アタリマエじゃないか。つまり、論理に従っていえば「平和ボケしている」といってるひとが惚けているだけだ。平気でひとの首をナイフで斬って落せるのも、戦争で気が変になっているからじゃないのか。そういう連中を「とにかく駆逐、殺せっ」と、ヒステリックになっている民主主義、あるいは共和主義国家の為政者も、要するに「オカシイ」。違うかっ。
日本人ほど臆病な人種はいない。おそらく、イチバン濃くホモ・サピエンスの血(いまふうにいえば遺伝子・・・遺伝子とDNAとはチガウ・・・)を受け継いでいるのとちがうか。ホモ・サピエンスは、臆病だったので、一所懸命に「考えた」。何をかというと、生き抜く方法、生き延びる手だてを。だから、ネアンデルタールやホモ・エレクトスが滅亡したあとも、幾つかの氷河期を生き残った。
40歳から45歳になる心身の変容と、六十歳からの1年ごとの心身の変容は、まったくチガウ。還暦を過ぎると、ひとは、未知の体験ゾーンに入るらしい。これは、穴居時代の人類にはなかったことだ。何故なら彼らはそんなに長命ではナイ。もちろん、縄文人にもなかった。縄文人の推定平均寿命は5~10歳だそうだ。せいぜい長生きしても三十歳の人間しか、その時代にはいなかったから、彼らは、六十年生きるなどという経験値を遺伝子に残してくれなかったようだ。     
「いま、世界中の人間に平等に食料を分配したら、世界中の人間は数日で総て餓死する」と、ブラック・ジョークだか、あるいはほんとうのことだかをいった御仁がいて、袋叩きにされたそうだが、殴ったり蹴ったりしているほうも、「待てよ、ひょっとすると」てな気になってきて、「ちょっと待て、まあ、一杯やろう」と、共にしみじみ飲んだ、というニュースを何処かで読んだ。これは、私は良いニュースだと思う。

2016年1月20日 (水)

♡~16

きょうは具合が良くないので、運が悪かったと思っていただこう。アグレてるので、何かにアタラナイと気がすまないのだ。つまり、うつ病の症状がひどくて、機嫌が悪いのだ。
『史上最強の哲学入門・東洋の哲人たち』(飲茶・マガジン・マガジン)。1700円して、アマゾンで購入したが、内容はコンビニ本程度で、『バキ』まで持ち出してきて、板垣啓介さんにカバーイラストまで描いてもらって、著者はShame on you!.だ。fo shameともいうけどね。私は、インド哲学、老荘思想、禅に関しては教養程度にしか知らないので、一応学問した仏教についてだけ、「ケチ」をつけておく。その前に一つくらい褒めておいてやるが、哲学というものは、「途中から」「ある個人だけを」取り上げてもワカラナイという著者のいいぶんは正しい。思想とはチガッテ、哲学は連綿たる系だからだ。ニーチェの『超訳』なんて読んでも、日めくりカレンダーと同じなのだ。
著者は、サルトルにイカレているようだから、たいていのお年頃はワカル。しかし、サルトルを「二十世紀最大のカリスマ哲学者」などと臆面もなくいま口にしたら、多くの哲学関係者や昨今の哲学者には、笑われるだけだ。少なくともハイデガー研究者は、サルトルなど相手にはしていない。せいぜい哲学ジャーナリストと位置づけている程度だ。他にも、サンプリングの形跡から幾つかの哲学者を多少は齧ったらしいと見当はつくが、それはまあいいや。仏教、つまり釈迦の思想において、この著作はあんまり大雑把なので、著者は今一度、仏教史はやりなおしたほうがイイ。それだけでも、釈迦の悟りと十二因縁や八正道は、何の関係もナイということくらいはワカル。かつまた、「因縁」など釈迦は説いていないということも。(それは俗説、あるいは上座仏教の〈結集〉におけるマチガイなのだ)。「結集」において、アーナンダ(釈迦の侍従)の存在を取り沙汰しなかったのは、この著者の学習は史上最低クラスで、よくも史上最強てなこというたな。範馬勇次郎がクシャミしてるわ。
『般若心経』の解説も、そこいらの解説本の受け売りで、著者自身の争闘はまったくみられない。たとえば「色即是空 空即是色」を、「色は即ち是れ空である。空は即ち是れ色である」と訳すのは、私の学んだ観点からは、マチガイなのだ。これは「色は即ち是れ空となり。空は即ち是れ色となる」と訳さないと、『空論』の意味がとれない。「結えば庵、解けば草原」といわれれるが如く〈色即是空 空即是式〉とは、ひとことでいえばたったこれだけのことだ。何故、「空」であって「無」ではナイのかという疑問から始めないと、『般若心経』はワカラナイのだ。「色」と「空」とが対立概念ではナイということを(いうなれば「不二の法」)学びとらねば、「空論」はワカラナイ。「色・物質、現象」が消え去ることが「空」ではナイ。また、『般若心経』それ自体もまた「色・空」である集合に入るという矛盾を克服することも出来ない。
数式で書けば「色=空」になるのだが、問題は、この「等号・=」にある。等号のルールも幾つもあって、「右辺と左辺が等しい」だけが等号のルールではナイ。「色=空」のばあいは「左辺の記号を右辺で定義する」という用い方の「=」だ。また、異なる物理単位を持つ量は等しいとか等しくないとかを考えることに意味はナイので、等号でつなぐことは出来ない。
ともかくも、あの百年前の原始模型の図は何とかしろ。
魔が差してこの書籍を購入した良心的なひとびとには、述べておく。釈迦の思想の核心は、「自燈明 法燈明」「諸方無我」「涅槃寂静」に尽きる。たとえば、「死ぬ」ということが「怖い」ひとは、死などはナイ。それは「涅槃寂静」(煩悩を棄て、静かな境地に入ることだとされているが、そんなにんげんなどいない。誰のものでもナイ、自分だけの眠りに眠ること、とすればイイ)と思うだけで、ココロ安らかになるだろうし、「私」という存在がなんだかワカラナイひとは「諸法無我」(にんげんは表現する存在だから、常に〈表現された自己〉としてしか存在しない)と思えばイイ。
付け足していえば、釈迦は「因縁」「因果」を否定した。原因も結果も予め存在するものではナイ、と説いたのだ。では、どうすればイイ。それが、「自燈明 法燈明」だ。くだいていえば「自らの燈明となるものを探せ(探求せよ)、そうしてそれを真理の燈明とせよ」ということになる。

♡~15

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ福音書6/20)。
この「神の国」というのが「天国」のことなのかどうなのかは、教派によってさまざまで、もともと「天国」という概念は「ゾロアスター教」からのパクリだという説もある。その辺りは今回関係ナイ。ともかくも「いまのこの世界」ではナイことは確かだということだ。「いまのこの世界」は「富むもの」に都合よく出来ている。
2015年、世界の上位1%の富裕層が、残り99%全員分を合わせたよりも多くの富を所有していた。いいかえれば、世界の富の殆どを、わずか1%の人たちが保有していたことになる。(世界の貧困問題に取り組む国際組織オックスファムが、18日に発表した報告書「1%のための経済」)
それを換算してみると、世界で最も裕福な62人の総資産が、貧しい36億人分に相当、36億人というのは世界人口の約半数だ。世界の上位1%とは、どれほどの富裕者になるかというと(オックスファムはこの報告書の作成にあたって、クレディ・スイスが昨年10月に発表した「2015年度グローバル・ウェルス・レポート」を主要なソースとしている)、純資産で75万9900米ドル、約8901万円というのが上位1%のラインになる。
ところで、BBCは「もしあなたがロンドンに、抵当権の設定されていない(支払いの完了した)平均的な一軒家を所有していれば、おそらくあなたは上位1%に入っている」と語っている。これは日本でも、地価が高い都市部などでは当てはまる。クレディ・スイスの「レポート」によると、2015年時点、日本には米ドル建てで純資産100万ドル以上のミリオネアが212万人いたそうだ。
な~んで、そんなに差がつくのというと、これは殆どタックス・ヘイブンの存在に因る。タックス・ヘイブン(直訳なら「税金天国」だが)とは、日本語に訳すると「租税回避地」という意味で、外国資本&外貨獲得の為に、意図的に税金を優遇(無税または極めて低い税率)して、企業や富裕層の資産を誘致している国や地域のことをいう。大企業や富裕層などの資金が、自国からタックス・ヘイブンに流出すれば、当然ながら税収は減ってしまう。日本の一般庶民でも、タックス・ヘイブン諸国に銀行口座を持つ事が可能だ。すでに一部の資産家は、金利ゼロなうえ税金だけはべらぼうに高い日本から、これらタックス・ヘイブン諸国に預貯金を移動させている。
老後、一カ月の生活費はひとり15万円だと算出されている(厚生労働省)。母親は15万円受け取っていて(年金の種別がチガウ)85歳の独居。私は前倒ししているので、老齢年金だけで、一カ月5万円弱だ。40年支払い続けたが、月5万円では家賃にしかならない。2004年(平成16年)4月7日、自由民主党衆議院議員(当時)の安倍晋三は、衆議院厚生労働委員会で、自営業者らが加入する国民年金について、現状のままだと積立金は2017年(平成29年)度に枯渇するとの見通しを述べた。また厚生労働省年金局長(当時)の吉武民樹は、毎年280円の引き上げでも2023年(平成35年)に積立金が枯渇するとの見通しを示した。で、現在、どう改正されているのか、枯渇してんのか、有るのかナイのか、気になるなら調べればイイ。どのみち、年金など支払ってるものは、私の知る限り皆無だ。みな三十代だが、30年後に日本があるのかナイのかもワカンネエんだから。「一億総活躍社会」、悪い冗談だ。「国家総動員法」か、「進め一億、火ダルマだ」か、、んっ。

2016年1月19日 (火)

♡~14

3/15に、諏訪哲史さんと再度トークします。
今度はTOKUZOということで、じゃあ、オープニングに歌ってみるかと調子に乗って、名古屋には、「東京ブルース」とか「京都の夜」とか「博多酒場」とか「大阪の女」とかナイですねえ。〈名古屋〉というネームがダサイのがヒットしない因のようです。
そこで、タイトルは
『名もなく古き屋敷町』てことにして、歌詞も曲もベタですが、簡単で誰でも口ずさめる歌にしました。
3/15お披露目の前に、歌詞だけでも、はっぴょ~~です。


夢もみました 恋もした
そんな時代が ありました
州崎橋から 白河の
月の夜風の 思い出も 
懐かしい

たくさん愛して 泣きました
こらえた涙も ありました
鶴舞並木や 吹上の
後ろ姿の 黒髪も
濡れていた

苦労ガマンで 生きました
こんな時代に なりました
白壁町の 裏木戸に
隠れる裳裾の 残す風
さみしげに

いまだにさめぬ 面影を
慕って 夜空をみあげます
名もなく古き屋敷町
うつつに冴えては 消えてゆく 星一つ

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諏訪哲史(芥川賞作家)と、私の対談下記の「SPICE」ってところで読めます。

【前編】http://spice.eplus.jp/articles/32800
【後編】http://spice.eplus.jp/articles/32803

2016年1月15日 (金)

♡~13

本日から、4日ばかり旅。
朝っぱらから洗濯して、自動乾燥機を300円。冬は乾かないこともナイが、取り入れたときの冷たさがイヤで、寒い日は近所の無人洗濯ブースを活用している。10分100円で、たいてい30分で乾く。
こういうところを活用するのは他に理由がある。まず、つくづく日本というのがまだ安全で治安はいいことがワカル。もちろん、監視カメラはあるにはあるが、他人の洗濯物を盗むほど落ちぶれてはいないようだ。
こういう無人店舗は人件費がかからないので、けっこうな収入になるそうで、喫茶店なんかやるなら、洗濯ブースにしたほうが利益はいいらしい。けども、如何にも都市的で冷たい感じがする、というのは偏見を含む。こういうところを活用するひとというは、たいていが「ワケアリ」なのだ。私くらいの程度にだけど。ここも一種のAsyl(避難所)ナノかもしれない。
今朝はとりこみのさいちゅうに、これから乾燥の御仁に声をかけられた。(というよりかけられて、気がついたんだけど)。
「寒いね」
「寒いですねえ。でも、これは平均並だっていってましたから、冬なんですよね」
「そうだねえ、もう一月だからね。雪は降るかな」
「雪、降ってほしいですね。冬なんですから」
初老の男性と、もうすぐ高齢者と称される私の会話。
洗濯物は乾いていたが、帰り道、目頭が濡れた。あんな会話を久しぶりにすることに、なにやら、琴線に触れることあるらしく、胸あつくなったからだ。

2016年1月14日 (木)

♡~12

『老人と海』(Ernest Miller Hemingway)を憶い出しながら、やっとあの小説が読めたような気がしている。あまりに早く(若いときに)読むべき本じゃなかったな。おそらく十代のときに読んで(何しろ、有名な小説だっつうんで)、何処がナニがどう面白いのかまったくワカラナカッタ。いうなれば、この本は、私のフィクション嫌いを助長させた一冊にはチガイナイ。けれども、いまなら記憶だけでワカルのだ。これはヘミングウェイ晩年の小説だ。彼も老境にいた。んで、まあ、うつ病で自殺したんだけど。マラリア、炭疽病、肺炎、赤痢、皮膚ガン、肝炎、貧血症、糖尿病、高血圧症、2回の飛行機事故、腎臓破裂、脾臓破裂、肝臓破裂、脊椎骨折、頭骨骨折と、さまざまな困難、窮地、絶望に立ち向かって克服しながら、けっきょく61歳で、彼を死に追いやったのは〈うつ病〉だったのだ。具体的にどういう症状に陥ったのかは本人以外にはワカラナイと思うが、通説でいわれているのは・・・「書けなくなった」らしい。
だからっ、
はっ、
えーと、私は二十代前半、うつ病が現出する前、大須観音近隣に稽古場、劇場を兼ねたスタジオで劇団活動をしており、その近所に四畳半の部屋を借りて仕事場にしていた。妻とは別居中だ。で、場所柄、「大道芸」のイベントをやろうと、閑古鳥鳴く商店街の若旦那たちが立ち上がり、これはいまでも「大須大道町人祭」として継続されている。
タカマチ(祭り)ならテキ屋の出番なのだが、その辺りを庭場(縄張り)にしていた親分に頼まれて始めたのがテキ屋のバイトだ。この祭りについて、若旦那衆を集めてテキ屋の親分のレクチャーがあったのだが、その極めて貴重な話は(書けないこともあるのだが)いつかの機会にということにして、このバイト時代に、テキ屋の方法論をいろいろとみようみまねでおぼえていった。実際、それを東京で試したことがある。
場所は下北沢の50人ばかりの定員の小さな劇場。演目は二人芝居で、ちょっとした不条理ミステリ。ここで、簡便に綴じただけの上演台本を販売したのだが、一日目は受付ブースの女性劇団員(後見・・手伝いのこと・・で一緒に来ていた)に任せたので、売れたのは一冊。「一冊しか売れませんでした」というコトバを聞いて、それはチガウ、一冊しか売らなかっただけだと、「じゃあ、明日は40部ばかりコピーしてきなはれ」と、次の日、舞台が終わった直後(ここがタイセツ)、舞台にさっと机を持ち出して、10冊ばかりをその上に置き、「きょうの舞台はちょっと難しかったかと思います。なんしろ,不条理ミステリですので、どの事件がほんとうの事件なのか、わかりにくくしてあります。とはいえ、演じた役者には、キチンと解るように台本は書かれております。で、どうしても真相が知りたいとお考えのお客様に、台本を売るつもりでいました。ところが、係のものがその台本を積み忘れまして、急遽、ここでコピープリントすることになったのですが、あいにく、素の本がなく、演者の持ってきた本をコピープリント、簡易台本をつくりました。ですので、これは売り物なんですが、役者のメモ、書き込みがやたらと入っております。(と、ここも大事)そういう本でもよろしければ、コピー料金を差っ引くと、儲けにはならないんですけど、机の上に10冊置いてあります(ここも重要)。これを一部千円で、よろしければお分けいたしますが」。これが口上(あるいは口舌)。
一つもウソはついていない。「役者のメモ、書き込み」が入っているなんてのは貴重で、垂涎だと思う。机の上には10冊しか置いてないが、足下のダンボールにはアト30冊入っている。芝居が終わってすぐなので、客の頭はコーフン状態にある。真相が書かれているとはいっていない。演じた役者に解るように書かれているかどうかは、読み方次第。
と、これは仕込み(トーハ)ではナイのだが、客席から千円札片手に舞台に駆け上がった客がいた。これは天の助け。それに続けと、千円札片手に客が群がった。で、では、お並び下さい。ということで、40冊売り切った。50人の観客の40人が買ったのだからスゴイもんだと思う。10冊だったのが、ダンボール箱から出てくることについては、誰も何もいわない。その場では誰も問題にしない、ということだ。目的は「書き込みの入った真相のワカル台本」なのだから。粗利は4万円、5~6ステージほどやったから、20万円以上の粗利は出ている。それだけで、劇場使用料は払えた。
のちのち、一通だけクレームの手紙をもらったが(つまり読んでも真相がワカラナイと)、テキ屋にアフターサービスはナイ。「売ったキリ」だから。by the way,これもむかしの話だなあ。
ヘミングウェイにこういうコトバがある。
/我々はいつも恋人を持っている。彼女の名前はノスタルジーだ/

♡~11

テレビを観ないので、たいていラジオを聞いている。聞いたり聴いたりしている。私は浪花節が好きなので、いまどき浪曲なんかをやってるのはある局だけだから、午前(ひるまえ)などはたいていここだ。とはいえ、この局はオペラが好きなようで、多いのよオペラが。さすがに1時間ちかく「オ~ワ~ヤ~ッッ」なんてのを聞いてると疲れるので、民放に切り換える。すると、けっこう長い時間、いわゆる「ショッピング」のコーナーがある。テレビ通販と似たりよったりだが、ラジオだからたいていアナとの掛け合いになる。これは私にいわせると、まったくの「テキ屋商法」だ。
売り手はコーフン気味に、スゴイ商品を本日販売するてなことを報告。アナはいわゆるテキ屋のコトバで「トーハ(鳩のスラング、客に交じって客の側から煽動する役目)」だ。いちいち驚いて感心してみせる。この辺はテレビとチガッテ映像がナイので、そのイメージを補うために、どうしてもかなりの大袈裟な商品紹介となる。売り手はその「商品」がどんなにスゴイかを、自身の経験やら、いまこの放送局の方にも試してもらいましたらもう、みなさん大仰天のビックリなんてことをいう。扱うものは意外と限られていて、たとえば、超音波ハブラシ。別に何処にでも売ってるシロモノだが、掛け合いで「ひぇ~っ」「わおっ」とやられると、そんなもんかねという気になる。で、価格に突入。「安いっ」と「トーハ・アナ」。この時点ではほんとに安いのかどうか、ワカラナイ。(ちなみに同じ商品をアマゾンで検索したらアマゾンのほうが安かった)。しかし、ここからがテキ屋のやり口なんだけど、「しかも、きょうはさらに、もう一本お付けします」。ここで、聴衆は「安い、かどうか」より「損か得か」に心理誘導される。そりゃあ、あんた、同じ商品をもう一本付けられたら、半額で購入していることになるので、得に決まっている。とはいえ、最初の値段はそんなに安値ではナイのだ。さて、そこに追撃、「これが本日は50組」とくる。えっそれだけしかナイの。放送電波を使って売るんだから、50組は少ない。つまり急いで申し込まないと売り切れる、と消費者(聴衆)はまた心理誘導される。おそらく少なくとも一桁少なくいってるのはマチガイない。で、一本分で二本の価格というのは、二本買ったときとさほど差はない。その程度の割り引きなら、ネット検索すれば安値でやってる店舗はある。さらに「遠近調節メガネ」のときは、アマゾンで同じものを扱っていたので(しかも安く)レビューを読んだが、「常用にメガネとしては使えない」という☆一つから、良心的に「あくまで非常用ですね」☆三つがせいぜい。「自宅でホワイティング」という液体歯磨きにいたっては「こんなものを何故売るのか、まったく効果はナイ」が殆どで、たいていは☆一つ(ともかく☆をつけないとレビュー掲載されないので一つは付く)。これもあれも、「もう一本、もう一個同じものをお付けして」だ。
テレビ通販の場合、一回の放送で数億円の売り上げがあるらしい(あくまで〈らしい〉だけど)。買った(申し込んだ)ときは胸ワクだが、いざ手にしてみて冷静になると、そんなに得でもナイなと、たいてい思うはずだ。だってそれが「テキ屋商法」だもん。
次回は、同じような手口で、実際に私自身が舞台の上演台本を売りさばいた体験談を、述べることにしましょうか。

♡~10

つい最近、いつものように夜半(といっても、22時~)、独り飲み始めてふいに、おやややや、という疑問が沸いた。よく、こういことがあるので独り酒はやめられない。
疑問というのは「トランプの枚数→数字」だ。13枚、13(king)まである。これになぜ、疑問がくっついたのかというと、13というのは西洋では嫌われている数字で、未だに外人利用客の多いホテルでは、13号室(13階までも)がナイほどだ。それが、トランプだけは13枚。13は「悪魔の1ダース」もしくは「魔女の1ダース」といわれる。出どころは、そんなに忌み嫌われるところではナイ。むかし、パン屋が12個のパンを出荷、販売するときに一個おまけしたのが始まりだ。
とはいえ、13枚か。
こういうことを考え始めると(どうでもイイことなのだが)考え込んでしまうのが悪いクセだ。まあ、些細なことに拘るのは、杉下右京警部だってそうなんだから、いいじゃないか。ね。
そこで、ふと気付いたのだが、トランプの数字の始まりは1(エース)だ。ところでこれを並べていくと、1,2,3,4,5,6,7,8,9と、その次に当然だが10がくる。で次が11(ここから絵札)。つまり1から始まって、10になるのだが、この10というのは何なのだろう。再度1から始めるなら9の次はまた1からだとすると11になるはずだ。すると、この10というのは「0」だということになる。カードは1からで0のカードはナイ。ところが、一桁あがりましたということで、ここにふいに0が登場する。なるほど「10」というのは「0」と同義なのだ。途中で0が入って次はまた1からだが、桁が上がっているので11になる。で、ここからは絵札。本来なら「01」と記すところだ。
あ、そうか、それで「10」をブタというのか。ブタは「出来ませんでした」「チャラです」という意味だ。たとえば10のカードの次に9がくると「カブ」などのギャンブル・ゲームでは、19ではなく、9と勘定する。つまりカブ成立。10のカードは在って無い数字のカードとしてて扱われる。(ちなみに花札は12枚・・・12カ月・・・)。つまり0なんだなあ。
って、まあ、どうでもイイというか、こんなことは誰でも知ってることで、何かの本にすでに記述されてることなんだろうなあ、と、夜半の思考は終り。

2016年1月13日 (水)

♡~ 9

/ηやるきないのよ 口には出ねど 腹におさめた 一途な夢も 消えてしまえば くじけてしまう どうせ この世は どんぶらどっこ/
むか~しのいわゆる「根性演歌」のparodyだが、自暴自棄になっているのではナイ。
ずいぶん前から寝覚めに恐怖心をおぼえるようになった。この理由がまったくワカラズ、首を捻っていたのだが、捻りすぎて首の筋をちがえてしまった。そうしたら、やっとワカッタ気になった。これは、私の個人的な情況ではナイということだけだが。
文明は必ず滅びるが、その前に文化の衰退が始まるのは、歴史的な宿命の道筋のようだ。私はそのことに「危機感」を潜在的に持っていたらしい。(と、まあ、暫定結論)
「やる気になればやれる」てなことをいうと、「何をヤルの」という答が返ってくるようになって久しい。「地道に、コツコツってのはタイセツなんだぜ」というと、「だからナニをこつこつヤルのよ」といわれる。
つまり「なにをやればイイのかという問いは、消滅した」のが現在なのだ。これは「何をやってもしょうがナイ」という〈頽廃〉を意味しているのではナイ。そもそも「ナニかをヤル」という営為それ自体が、何もナイのだ。つまり「なんにもヤラナクテも、充分に、あるいは、それなりに面白おかしく生きて行けるのに、無理しなくていいじゃん」、というワケだ。「無理して疲れて、うつ病になんかになったらヤだしね」なのよ。
ひょい飛びするが、私たちは、医療というものが〈科学〉だと信じ込まされていた。血液検査をすれば80%、そのひとの異常値から、疾病が判明するといわれてきた。しかし、その異常値のエビデンス(科学的根拠)となるデータに信憑性があまり期待出来ないということや、データそのものが存在しないということも明るみになってきて、書店では、医師が(自己批判ではナシにだ)医学はアヤシイなんてのを書いた本が平積みされている状況だ。この数年を俯瞰してみても、たとえば「血液サラサラ」なんてことがイイことだと私たちは刷り込まれたが、それは俗説らしいことも取り沙汰されている。コレステロールはアカンは、もう、ほんとに医療の上で重要視されていない。「かくれ肥満」「中性脂肪はキケン」「生活習慣病」など、これらは、科学的にどれ一つとして立証(実験的データがあるというワケではナイ)されているものではナイ。おっとろちいのは、同様に科学的根拠も立証もナイまま、煙草はカラダに悪い、ということが行き渡り、喫煙不可という場所が平然と嫌煙権の名のもとに町々のそこいら中に設けられていることだ。「煙草の吸い過ぎはカラダに悪い」のはアタリマエのことで、食い過ぎも、飲み過ぎも、セックスのやり過ぎも、ダイエットし過ぎも、走り過ぎ、歩き過ぎ、健康を追い求め過ぎも、要するに「過ぎたることは」カラダに悪いのだ。アタリマエのことじゃないか。
血圧の数値が製薬会社と医師との経済的都合で決められていることなどは、もう常識になっている。「薬漬け」という用語はもう死語になってるくらいだ。だって、これ以上は薬代はとれないという定額医療になったのだから。医、薬分業(処方箋薬局が出来たのはこのためなんだけど)になったからといって、要するに医師さえ〈まとも〉なら、そんなことは必要ナイことなんだ。
私は医療批判をしているのではナイ。一例として、生存に最も信頼されなくてはならないものとしての医療というものがアヤシイとなると、私たちは頼るべき支柱の一つを失うということになる。
芥川龍之介の自殺について、プライベートな遺書が公表されていないので、通説のほうの「漠然とした不安」を信ずるとして、この「漠然」も「不安」も、いま私たちを鬱陶しがらせている要因にはチガイナイ。要するに「釈然としない」「ハッキリとしない」のだ。Islamic Stateを、私たちは一括りにテロ集団として〈悪〉にカテゴライズしているが、彼らのいいぶんは「ハッキリしている」。方法論も簡単なものだ。それに比すると、私たちは全面的に信服をおいているワケではナイ、むしろ、危なっかしいとさへ感じている現政権に従うほか、すべがナイ。ココロの中の漠然や不安は蓋さへしておけば大丈夫、というより、そのほうがイイみたいだから、という根拠のナイ安全装置を信じている、のではなく、疑うのを避けている。
さて、こんなふうにいうと、たぶん、私は現代医療に携わる医師からこういわれる。「強迫神経症なんじゃないですかね。しかも妄想性の。あなた、何かをやらねばとしきりにリキんでらっしゃるんです。けど、何をやったらイイのかワカラナイのは自分自身だということをよくおワカリだ。それを社会的に拡張されて、文明の消失だか存亡だかに対して、恐怖感をお持ちなんですよ。えーと今年で六十四歳になられるんですか。じゃあ、もうイイんじゃナイですか。この先、あなたに出来ることなんかそんなには、ありゃしませんよ、おそらくね」

2016年1月12日 (火)

♡~8

暴力団対策法、暴力団排除条例があることで、暴力団組員は銀行口座がつくれず子どもの給食費は引き落とせない。引き落とせないならば、と給食費を子どもに持たせれば、「親がヤクザだ」とバレる。ヤクザであることを隠して口座をつくると、詐欺で逮捕される。
また、自動車保険の交渉がこじれると詐欺や恐喝で逮捕されることもある。弁護士に依頼しようとしても、ほとんどは「ヤクザお断り」だ。
ドキュメント映画『ヤクザと憲法』(土方宏史、監督)上映中は、そういう映画らしい。観てないからあんまりいえないが、どうも暴力団(ヤクザと暴力団はチガウ)と人権に切り込んでいる映画らしい。
故人だが、遠藤誠という弁護士がいた。このひとは、仏教徒でもあり、マルクス主義者でもあり、だから、親鸞の『悪人正機』を自らの拠り所にしているし、自論においても「善人がいいことをして、悪人は悪いことをするのではなく、善人がしても悪人がやっても、悪いことは悪いことだし、良いことは良いことだ」という主旨を展開している。いうならば、ブラウン神父のようなひとだった。
有名な『悪人正機』、あの「善人なおもて往生をとぐ・・・」は、何も親鸞の発明ではナイ。親鸞は浄土宗法然の、そういう教えをさらに詳しくかつ簡便に説いただけで、かの時代、そういうことを説いている僧は他にもたくさんいた。ただ、書き言葉として残っているので、まあ、その右代表になっているだけだ。
人権なら、何も暴力団系にだけナイのではなく、私のような演劇渡世のものも、市民権というカタチで認められたのは、そんなに古いことではなく、小劇場演劇が盛んになったあたりからだし、現在でも、家を建てるのに、私たちや芸人はローンというのが組みにくいことになっている。だから、タレントや俳優たちは、億単位の銭を即金で払って家を建てるのだ。もちろん、銀行口座(カード)をつくることも似たりよったりで、私などは4回ばかり銀行に足を運んだ。ローンカードはすぐに出来るのにだ。
この差別というか、格差(てなふうにいまはいうんだが)は、私たちのよう職業のものが、賃金の支払いを受ける場合、ほとんど必ず「源泉徴収」というカタチで、所得税を先取りされることに象徴されている。これは、八百屋や魚屋、肉屋が、その日の収入をその日申告して、その日の税金を徴集されているようなもんだ。まとめて確定申告のときにではナイのだ。すでに税金を差っ引かれたカタチで私たちは賃金を受け取っているのだ。
日本国で人権がナイのは皇族だけだ。と、思ったら大間違いのコンコンチキだ。だいたい皇族は国民ですらナイ。かつては「国体(天皇を中心とした秩序)」と称された。皇族はけして「民」ではナイのだ。
暴力団というのは〈暴力〉を営業にしている。暴力が仕事だ。だから暴力団なのだ。では国家は何を営業しているのか。〈権力〉というものだ。要するにやってることはまったく〈同じ〉なのだ。この辺りは哲学思想的に難しいところだから、今回は踏み込まない。
ところで、NHKは暴力団から受信料を支払ってもらっているのだろうか。支払い請求をしているのならNHKは暴力団を承認していることになる。していないのなら、人権を認めていないことになる。それは、憲法違反だ。このジレンマをどうしてらっしゃるんでしょうか。もちろん、朝日新聞を講読している暴力団だって存在する。ASAは朝夕、新聞を配達しているんだろう。な、そうなんだろうな。

2016年1月11日 (月)

♡~7

『眠狂四郎』の生みの親柴田錬三郎さんは松本清張やなんかと同世代なんだけど、『イエスの裔』で直木賞を受賞してからも食えなかった。つまり、文壇への登場が早過ぎた。しかしのちに氏の語るところによると(といっても、虚ろ覚えなんですがね)、その時代にたつき(食い扶持)のためにやった仕事が後々自分の生涯を支えたという。何をしていたかというと、大人向けの中国伝記なんかを少年向け小説に書き直していたのだ。従ってこの頃、殆どの中国文学は読破したらしい。なるほど、いま「ウィキペディア」でみると、直木賞後の著作・出版は少年向け小説の出版社からのホンばかりだ。これはたいへん勉強になったと述べてらっしゃる。中国伝記小説を読むだけでなく、その長ったらしい小説を「わかりやすく、短く」少年小説に書き直すのだから、一種、編集能力も身につく。
私もとある出版社の企画で『ブラウン神父』シリーズを三編ばかり少年向けに書き直したが、編集者がそれを読んで「ああ、こういう話だったのか。すごくオモシロクなってますね」と賞賛。(残念ながら、編集者病いのため、まだこの企画は出版にこぎつけてナイ)。
そのシバレン(柴田錬三郎さんのことを私たちはそう称した)さんに、これほど面白い時代小説は読んだことがナイといわせしめたのが『柳生武芸帳』(五味康祐、作者の死により中断)なんだけど、登場人物のあまりの多さにコンガラガッテくるらしく、映画化された映画を試写で観た作者の五味康祐は「そうか、こういう話だったのか、よくワカッタ」とコメントしたという逸話がある。つまり作者もコンガラガッテいたのだが、映画を創る側も、やっぱりコンガラガッテいて、ひとことでいうと〈無茶苦茶〉な映画。役者(主役は三船敏郎なんだけど)がナニをやっているシーンなのかワカランところが随所にあって、それはそれなりに見どころでもアル。私はリアルタイムではないが観てはいるのだが、一緒に鑑賞した劇団のものに、観終わってから「○◎はありゃあ、ナニをしてんですか」と幾つかワカランsceneを指摘されて、「おそらく、監督も脚本家も役者も、要するに誰もがワカッテナイんじゃナイのかな」と応えた。そんなふうに映画が撮られるのかというと、案外、そういうのは捜せばあるのだ。たとえば『必殺』劇場版の『黄金の血』は、脚本が遅れに遅れ、出来たシーンから撮っていたので、監督も助監督も役者もスタッフも、話の何処のナニを撮っているのかワカラナカッタという。編集で何とかつないだようだが、先述の『柳生武芸帳』は、これよりさらにワカラン。
片岡狂四郎第七話の女優さんは、佐藤万里さん。この女優さんは、現在は引退されてカタギの主婦、57才。主役こそナイが(と、思うんだけど)、たいていのテレビ時代劇のシリーズには必ずといっていいほど、重要なバイプレーヤーとして出演。現代劇でも、しょっちゅう顔をみるので、なんだか顔なじみのお姉さんで、はい、好きですよモチロン。
仇を討ってもらおうと、狂四郎に〈情を乞う〉のだが(あのね、情を乞うって、何のことかワカンナイでしょ。まあ、イイけど)、「女は死ぬために抱かれるのではナイ。生きるために抱かれるのだ」と、諭される。オレなんか、そういう難しいこと抜きで・・・
えーと、晩飯の献立は決まってます。納豆、あおさ汁、玉子焼きです。

♡~6

策略で毒に倒れた片岡狂四郎をたすけた宿場女郎がいう。
「お武家さんもあまり幸せじゃなさそうですね」
「幸せとは、何だ」
「幸せってのは、親子が仲良く、借金が無く、その日のおまんまが食べられる、そんなことです」
宿場女郎の役は、永島映子さん(今年、還暦です)。この女優さんも好き。好きなのばっかりで、すんませんけど。この女優さんとは、「にっかつロマン・ポルノ」からのお付き合い。(別にほんとに交際してたワケじゃございませんが、それ以来のファン。このひとの濡れ場は思わず息をのみました)。その後、彼女はロマンポを卒業、それからも数々の映画賞を受賞。
それはそれとして、このせりふはおそらく原作にも出てきたはず。
えらく簡単、質素、遠慮した幸せだと思われるでしょうが、メーテルリンクの『青い鳥』のテーマだった「幸せ」もこの如し。
考えてもごらんなさいやし、〈親子が仲良く、借金が無く、その日のおまんまが食べられる〉てな生活をおくっている家族、人間、種族に民族、国民が、この世界にいったいどれだけいるでしょうか。少なくとも、私がいま住んでいるマンションにはいません。以前、独り暮らしをしていたアパートにもいませんでした。下手こくと、私、六十有余年、そんなの観たことねえな。
革命なんてのは、目的は何にも難しくナイ。〈親子が仲良く、借金が無く、その日のおまんまが食べられる〉社会を創る、それだけです。
私の幸せ、〈日あたりのいい畳の上で、猫のように昼寝すること〉。そういう日々があったなあ。あれで、使い切っちゃったんだなあ。

2016年1月10日 (日)

♡~5

/〇「もう一日生きてみるか」と、役者も客も思うような作品を、「ただ、ただ書く」ことのみ。/
年頭書簡で不特定なあなたにそう書いてみたけれど、よくよく考えてみれば仕事そのものがナイんだったワ。おそらく今年提出の確定申告も、去年につづいて「低額所得者」になることはマチガイなく、必死こいて経費を捻出することもナイだろうと鷹を括っている。(高をくくる、だろ、ワカッテんだけど、世の中にはナンセンスとかユーモアってあるじゃない。鷹は括っておかないとキケンでしょ)
今年は、年頭から東京でbargain saleみたいに、私の作品の舞台が幾つもあるから、ごく普通のサラリーマンなみの所得はあるだろうと思うけど。
とはいえ、此度の〈うつ病〉は根っこで長引いて、今日も、やる気がおきない。なんだけど、掃除して、飯焚いたので、久しぶりに大根(いわゆる1/2カット)買ってきて、鶏肉との煮物をつくったりしてる。そういうのはやれるんだよナ。なんかさあ、色気より食い気で、勃たねえんだけど、腹は減るのよね。つまり、ナニ食おうかなってのはワリと考えるんだけど、イイ女いないかなってのがナイんだナぁ。これを年齢のせいにはじぇったいしたくナイしね。片岡孝夫さんの『眠狂四郎 円月殺法』(むか~しのテレビ東京の作品なんだけど、続編の『無頼控』より出来がいいのは、原作が『孤剣五十三次』だから、そりゃ、こっちのほうが、ロードムービーで創りやすいのに決まってる。とはいえ松尾嘉代さん・・・当時29才か30才かな。現72才だから・・・が、初回冒頭から諸肌脱いで乳房をポロリなんだから、オレ、この女優さん好きなもんで、あらぁっ、根性がチガウなあと感心。この回のヒロインは竹下景子さんで、まだウブイ輝きの頃。出演者ロールのラストに一枚で出てくるんだから・・・ちなみに松尾嘉代さんは片岡さんの次に一枚・・・そりゃあ、ライバル意識というより、コンチクショウだったんだろうなあ。次の回からは、ラストに一枚になってますけど)を観てて、・・・カッコが長かったかったから、何からつづいてんのかワカンナイでしょ。何か、こういうの空間恐怖症というそうで、空間を埋めないと不安になるんだって、こないだ、トーク対談した芥川賞作家の諏訪哲史さんがいってたけど、そうか、私の演出する舞台が空っぽにみえるのは、逆なんだよなあ。中途半端に飾って空間の隙間が出来るのがイヤで、空気で充満、充填させてんだなあ。・・・で、現、仁左衛門の孝夫さんも71才で、狂四郎もこんなふうに老けるのかねえと、ため息が出るから、オレはもう老けゆく自分のことは考えないことにして、これからは他人のことを考えることにして、もうあんまり、自分に拘らないようにしよっと、そんなこと思ったりの今日も、暮れゆくのでした。

2016年1月 9日 (土)

宣伝です

『振り袖講談』の船戸香里インタビュー動画をアップしましたので、お知らせ致します。

リンク↓
http://youtu.be/PUegpCnc44I

チケット予約はこちら。
https://www.quartet-online.net/ticket/furisode

♡~4

古のパン焼かれたるイエロパへ走れ黒犬 冬のジャズ

ボレロ聴く如くに我も老いたれば縁ありなしの命題は問わず

春来たりなば紅つけて嫁にいきゃんせ屋根の牝猫

我が恋の実らぬわけをたずぬれば一歩マチガイ一歩遅れし

だからほら何をどうしろというんだと蜜柑食みつつニュース聞く叔母

2016年1月 8日 (金)

♡~3

しあわせな夢をみるために眠ろう
たとえ 眠りからさめなくとも
しあわせな夢は つづく

やっと『舟を編む』(石井裕也 監督)を観る。豪華なというより贅沢な出演俳優たち。いくらなんでもと、つまり、この程度の役にこの俳優を、かよ、なんだけど、まあ、銭があるならやりゃあイイでしょう。絵に描いたような(ほんとは小説が原作・・三浦しおんさん・・なんだけど)善人しか出てこない映画で、薄っぺらい『おくりびと』なんだけど、私、こういう仕事やりたかったなあと、なんて幸せな仕事なんだろうと、それはもう羨望をもって観ました。尺が長かったので、三回ほど休憩しましたけど。原作は読んでません。小説は読まないひとですし、最近は活字が辛いので、という理由ですが、レビューを少々読むと、原作はかなり密度があったようです。こういう、まず現実には絶対に存在しないような男女、夫婦、隣人、上司、学者、社員、は、ここまで徹底すると、ウソでもいいやという気になるもんです。だって映画なんだもの。ウソではナイんだけど浮世離れしていてもイイじゃナイ。だから、映画が観たくなるんだもの。芝居もそうなんじゃナイでしょうか。私もそういう芝居、書いてます。酒は涙かため息か、映画も芝居も涙かため息かでイイですよ。この世の憂さのステロイド。よく効きます。
そういう映画、演劇を少なくとも〈表現者・同業者〉がそれを理由に批判するなら、ひとこといっておきます。「悔しかったら、一度、書いてごらん」。

2016年1月 6日 (水)

♡~2

劇団東京乾電池創立四十周年記念プレ公演『十一人の少年』(ザ・スズナリ/01/05/19:00)観劇。卅年前の作品。面白かったなあ。泣いた、笑った。オレ、ちゃんと「書くもの」「書くこと」の〈スジ〉だけは通してると、ブレてないと、卅年の劇作家渡世をしみじみしちまった。
柄本さんの演出は、オレと似ていて、『寿歌』のときもそうだったけど、オレの脳の中を観ているようで、ストレスがナイから。去年の12/25日からずっとつづいている「不整脈」が、この日をさかいにして、やっと消えた。スゴイね。自分の作品で自分を癒してんだから。

2016年1月 5日 (火)

♡~1

一国の宰相が、「国民総・・・・」なんてことをいいだしている。非常時かよっ、戦時下かよっ、ん、ん、んっ。
株価の高下は目にし、耳にするが、それより重要なのは、折り込みチラシのスーパーの特価品目(商品)だ。株価が2万円にせまろうが、1万8千円に下がろうが、生活は何も変わらない。「庶民生活にまで影響が降りていくのには時間の遅延があるんですよね」という経済評論家や、その辺の関係諸氏のそのコトバももう聞かなくなって久しい。要するに、私たちの暮らしは「何も楽になっていない」。ガソリンが安値なので、その分は楽になってる方々もあるかも知れないが、自転車に対する道路交通法の規制のきびしさは、いったい何事なんだろう。自転車の利点を剥奪するもの多く、ちょいと乗って、ひょいと行くという簡便さを自転車は失いつつある。
経費の中で最も大きいのが旅費・交通費。私もけっこう書籍やCD/DVDを買うが、その10倍以上が旅費・交通費なのだ。これは高いのか普通なのか基準がよくワカラナイ。とはいえ地上の交通の安全は、空に比べて段違いだから、その分の費用だというふうに考えることにしている。
アマゾンへの注文品目が、昨年は350ばかりあったのには、儲けてやがんなあと、感心しただけ(もち、アマゾンさんが)。週一回の資源回収に、毎度アマゾンからのダンボールを抱えて出すんだから、要するに週に2~3回は、その関係の宅配さんがうちのドアホンを鳴らしていることになる。余所にも届けてもらってるから、けっこうな量になる。ポイントだけで買えてしまうなんてこともあるし。トレペとティッシュなどは、業務用のもの(1年分余)を買うので、切らして慌てたことはナイ。車に乗らない(免許もナイ)ので、大きなもの、かさばる品物の購入には、便利なのだ。プライム会員なので、送料がかからない。年会費などは送料数回分でペイ出来るのでありがたい。しかし、商品によっては当日に配達ってのは恐れ入る。何処に倉庫があるんだろうな。アマゾンは日本には倉庫しかナイらしいけど。
本日は、東京で、劇団東京乾電池四十周年記念、プレ若手公演『十一人の少年』にアフタートークで出演。旅費・交通費はあちらが負担してくれるのでありがたい。

2016年1月 3日 (日)

年頭書簡

「所感」なのにと、おせっかい。「感じる所なんかありゃしません」。
とはいえ、今年は、以下のことに注意をはらっていくつもり。

〇「座禅」の日常化・・・うつ病、交感神経安定の対症として。
〇アフリカ的段階の観点を脳のセクターに持つこと。簡単にいえば、〈自然〉とコミュニケーションをはかるということですか。・・・世界視線を拡張できるかなと。
〇「もう一日生きてみるか」と、役者も客も思うような作品を、「ただ、ただ書く」ことのみ。ほかのことは、とりあえず成るように成ればイイ。

では、一句。

紅の袴の巫女の新しき

で、短歌も、ちょい。

こんな夜はジャズを聴くのがいちばんだそう思うだろそう思うだろ

いつだってあんたの話は泣かせるぜ嘘半分がちょうどいい

迷うべき路頭も愛も知らぬままアリス駆け出す下駄をつっかけ

戯れに短歌書きたり驚くな構えしコトバは円月殺法

タイトルはふざけやがってこのヤロー福神漬けで食った晩飯

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