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2015年12月31日 (木)

私想的生活-09

小劇場演劇において、「特権的肉体〈論〉」は、唐十郎さんから初まり、つかこうへいさんをもって、終焉した。「特権的肉体」とは何か、「肉体的特権」とどうチガウのか、については、機会があれば一項設ける。ここで述べるには、長くなり過ぎる予感がする。なのにのっけから、そんなことを書き出したのは、終焉したのは、小劇場演劇における〈演劇〉だな、という感慨深い2015年だったからだ。語れば愚痴、述べれば悪罵になりそうなので、これは一項設けることなく、あざみの花にしておく。
そういや、シミュラークルを語るさい、これ、いっときゃなきゃ、というのを思い出したんだけど。元ネタがナイという創造物(表現)というと、演劇、映画において、そういうのはゴロゴロあるんだ。たとえばShakespeareの歴史劇はともかくとして、ロミオもジュリェットもハムレットも、主役なんだけど、元ネタはシェイクスピアの戯曲の中に描かれているだけで、現実には存在しない。ふつうはこれを〈虚構〉という。シャーロック・ホームズもルパンも〈虚構〉だ。しかし、坂本龍馬は歴史上の人物だが、私たちはホンモノのことは知らん。「これが、そうだ」というドクサによって、勝手にイメージしているだけだ。つまり〈虚構〉と殆ど変わらない。「ほんとはこうだった」と実録を示されても、「それは実際の坂本龍馬でしょ。そういうのはニセモノよ」という次元物理学みたいな応えをするものだっている。そういう輩に、龍馬は写真が残っているので、それをみせると、「ぜ~んぜん、イメージとチガウ。こんなの龍馬じゃナイっ」と一蹴される。こういう〈現実と虚構〉についてどう考えたらいいのか、という問いかけから始まった演劇論が拙著『恋愛的演劇論』(松本工房)なので、黙って読めばピタリとワカル。
さて、八艘飛びして、と。ツタヤ・レンタルで片岡孝夫(現・片岡仁左衛門)主演の眠狂四郎の第二部を全巻観たのだ。ツタヤディスカスでは、どーいうワケか第二部しかレンタルしてないので、そいつを観たんだけど(しょうがないので、第一部はアマゾンで購入した・・・これはまだ未見・・・)ざっと、データを書くと/『眠狂四郎無頼控』(ねむりきょうしろう ぶらいひかえ)1983年(昭和58年)4月6日から8月31日まで、テレビ東京系列で毎週水曜日の21:00 - 21:54に放映された連続時代劇/で、必殺シリーズの下降はすでに始まっているが、同時代のものだ。というワケでもナイだろうが、映像カットからクレジット、など、いろんなものが殆ど同じなので、スタッフが同じなのはマチガイなく、脚本はイイとはいい難いが、ともかく片岡孝夫の殺陣は一種の舞踏のように美しい。それを観るだけでも価値がある。さすがに歌舞伎役者、正中線に乱れがナイので、すこぶる速い殺陣なのだが、一瞬のブレもナイ。市川雷蔵狂四郎のニヒリズムは凄味があるが、ダンディズムなら片岡狂四郎に軍配があがりそうだ。歩き方も片岡狂四郎のほうがやはり美しい。再度いうが、正中線の乱れのなさは、歌舞伎の修練の賜物だろう。しかし、歌舞伎の殺陣と時代劇剣劇の殺陣はまるで異質のものでありながら、いまひとり、柴田錬三郎に最も愛された、田村正和狂四郎の殺陣が、まったくの舞踊もどきであるのに比して、片岡狂四郎はみごとな時代劇的剣戟をみせている。一芸に秀でたるものの〈芸〉のスゴサてのが、あるんだよな。円月殺法の構えも、市川狂四郎が下段(柳生新陰流でいうところの無形の位)から刀を回すのに対して、上段から青眼、そうして、下段へと移行する。たしかにこっちのほうが剣法としても理にかなっている。ここでも正中線の乱れはナイ。腕枕で横になっているときも、同じく正中線は乱れない。見事なもんだ。だからぁ~っ、十五代片岡仁左衛門(重要無形文化財保持者・人間国宝)になった現在(来年72才か)、よりも(土左衛門みたいな名称より)、孝夫がエエですねえ。孝夫が長かったからなあ。必殺の劇場版映画にも、助っ人出演されてましたが、あの蝶々のひらひらで、ほんで、扇でスパッての。
で、と。2015年は本日で終り。有終の美、在りや無しや。憂愁なら溢れるほど在るんだけどなあ。

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