私想的生活-01
2015/12/16、気温は平年より4~5度も高いのだそうだ。暖冬とはいうけれど、気象変動が日常的な環境にまで拡張しているということだ。私などは買い物に行くと、野菜の高値をみるだけで、何が起こっているのだろうかと不安に近い疑問を持つ。
チェスタートンは『正統とは何か』の中、「お伽話」について、そこには〈教訓〉と〈禁忌〉があって、タイセツなのは〈禁忌・taboo〉のほうだと述べている。これは「浦島太郎」の玉手箱のようなものだ。「○○だけはしてはいけない」「○○さへしなければ」。「夕鶴・・つるの恩返し」もまた、同じ。これは日常的には結婚生活における法度でもあるし、大きく局面を転じれば世界情勢も同じようなものだ。これまでに滅んだ多くの文明の滅びの原因は、ほぼそれにつきる。男女の仲もご同様。
一昨夜は四人だけの忘年会で、紅一点のA女史とは四十年余の付き合いになるが、酒が入って少し酔うとまったく小学生の女の子のように可愛らしくなっていく、このひととは、最も幸福だったことに、双方とも恋愛感情というものを持つことがなかった。これは人生の最大の収穫の一つだ。そうでなければ同じ時代を、同じもの書きとして、同胞として生き抜けたはずはナイのだ。
こういう例を出してお門違いの恐縮ものかも知れないが、アダルト・ビデオにおいても、どのようなジャンルかを問わず、けっきょくは主役の女性がタイプかどうかだけが性欲の対象になるのは、私が逆に変態だからなのかも知れないが、手を変え品を変え、よくもまあ工夫するなあと、かの業界にはある意味、ため息出るように感服してしまうが、どうしてもヒロインに尽きる。
さて、先の〈禁忌〉を「因果応報」や「因縁」とした先出宗教に叛旗を翻す思想をもって登場したのが、釈迦・仏陀であり、イエス・キリストもまた、似たような立場から出発しているのだが、両者の決定的なチガイは、釈迦・仏陀が、現世の「苦」の克服(解決ではナイ)を現世の問題にしたのに対して、イエスは来世に「天国」という〈救い〉のご褒美を用意したことだ。けっきょくのところ、上座(小乗)仏教の結集によって、釈迦・仏陀の思想は消滅の一途をたどるしかなかったし、イエスの夢もまた、ローマ帝国との和解によってスコラ哲学というアリストテレス哲学の援用バージョンに変容を余儀なくされたが、原始仏教の一部は大乗(個人・在家)仏教に残され、キリスト教もまたロシアの教派(宗派とはいわない。宗派は仏教の用語だ)にその一部を残している。
量子力学の中、有名な「シュレーディンガーの猫」については、多くのシナリオ・ライター(たいてい、映画やドラマの中でこれが引用されるとき、その解釈はマチガッテいる)社会学者、当の物理学者においても錯誤されているが、このシュレーディンガーの量子力学に対する提訴は、結論はついているとしても、その経緯からはもっと研究すべきことや学ぶべきことが、ニュートン力学の日常に住む私たちにとって多いという啓蒙が私にはあって、これは残りの人生の課題にしてもいいくらいだ。
簡単にいってしまえば「シュレーディンガーの猫」の「猫」は実験(観察・検査)結果にはならず、〈対象〉となってしまうというジレンマが、シュレーディンガー自身の量子力学からの離脱にもなったのだが(元々、シュレーディンガー自身はニュートン力学のひとだから、そういう帰結があっても当然だが)、猫が死んでいようと生きていようと、半死半生だろうと、ほんらいこの実験において、その結果は意味がナイ。
釈迦・仏陀のいったことは「先のことなどワカラナイよ」というアタリマエのことなのだから、これもまた、一休禅師曰く「成るようにしか、成らん。先のことを心配してもしょうがナイ」という、八十八歳にして、女体(一休禅師の場合は、マザコンだったので、性欲というよりも、女体というものへの満たされぬ憧憬があったようだ)を愛でた底力に大いなる畏敬をもって接すべし、ということなのかも知れない。
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