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2015年12月25日 (金)

私想的生活-05

コピーやレプリカは、まんま、もしくは似せた写像だ。たとえばアルターミラの洞窟(壁画で有名)は、劣化防止のため、ホンモノは公開されていないが、レプリカでそっくり造った洞窟は観光名所になっている。ところで、その後もっとスゴイ壁画のある洞窟が数々発見されたのだが、いまのところ予算の都合か、レプリカがある話は聞いていない。おそらく研究者しか入れない。(一度、世界最古のショーヴェ洞窟にヴェルナー・ヘルツォーク監督が、ドキュメント映画クルー・・当局の許可がおりて・・で入って、多くの壁画のドキュメンタリーを作製しているが)。
ほんものの写像ではナイが、当時の再現という感触でなら、日本各地に明治、昭和の町並み、生活空間などが造られて、もちろん公開(観光化)されている。これはまんまの写像というではナイが、当時の記録映像や写真などを元ネタにしての造りだ。愛知県の明治村はほんものを集めた野外博物館だから、レプリカではナイが、あくまで博物館としての展示なので、そこが実際に日常的に使われていないということにおいては、正確には〈ほんもの〉とはいえない。世界中の遺跡や廃墟などもこの類で、現実にその場にその時代の時空があるかというとそうではナイのだから、〈ほんもの〉ではナイのだ。たとえ私たちがAngkor Watに足を運んでも、Angkor Watそれ自体を観ているのではなく、その〈遺跡〉を観ているということになるのはアタリマエのことだ。
シミュラークルに話題を少しもどすと、いま、手元に資料の書籍がナイので(名古屋の仕事場-住居には、書籍は、現在進行中の関係のものしかナイので、滋賀の実家は、書斎というより書庫になっているんだけど)詳細は述べられないが、写真家の荒木経惟さんの写真集『男と女の間には写真機がある』(1978年、白夜書房)だったか、同じ頃に買い求めた別の写真集だったかに、「金閣寺」の写真があって、「炎上前の金閣寺」てなタイトルがあり、すぐそのアトに、「それはウソ、写真は真実を写すものではナイ」というコメントがある(ということを記憶だけで書いているので、あんまりアテにしてはイケナイ)。これなどは、まさにシミュラークルという範疇に入るものだ。たしかに金閣寺は元ネタとして存在しそうに思えるが、ここでの元ネタに該るものは〈炎上前の〉だから、そんな元ネタはナイ。
現在のデジタル・カメラがどの程度の光学機器なのか不案内だが、かつてのシャッター・&・フィルム形式のものでいうのなら、「写真判定」という、よくスポーツで用いられるものは、必ずしも正確でナイという科学的論拠から、現在はかなりの精度にまで修正されている(ハズだ)。というのも、フィルム式のものは、〈写る〉というprocessにおいて、まず、光源がどちらの方向から入り込んだかを考慮に入れなければならない。フィルムには、光が入り込んだ順に像が焼き付けられていくので、全面いっせいにホイというワケにはいかないのだ。
リケンで問題になった(リケンという名称だけは、生わかめを造っているのではナイということで有名になったが)スタップ細胞とかはシミュラークルというより、ガセに近い。(〈ガセネタ〉はテキ屋の隠語(slang)で『香具師奥義書』(1929)にみられる)。これは、元ネタがナイとはいえないので、たとえば、「○○デパートが火事になって、ちょっとだけ焦げあとはあるが、ペン先は大丈夫」というモンブランの万年筆売りは、ペン先を硫酸に浸して、ホンモノの金であるかのようにみせかけるのだが、これなどは舶来の万年筆が元ネタになっている。(もちろん、あれは仕込みのネタがある偽物だが)スタップ細胞は、作成者本人がどこまでそのエビデンスを信用していたのか、まったくの詐称なのか、つまり、科学的な単純な躓きなのか、確信犯なのか、未だに私にはワカラナイ。有能な科学者がひとり死んでるんだから、そういうところを科学的に顕かにしてもらいたいもんだ。
こういうヘンチクリンはいまに始まったことでも、昔からあることだともいえない。たとえば、ダミアン・トンプソンの著書『すすんでダマされる人たち ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠』(日経BP社 2008年)によると、ネットを飛び回るさまざまな〈ガセネタ〉を「カウンターナレッジ」(Counterknowledge)と呼んでいる。このコトバはCounterとknowledgeを合わせた造語だが、直訳してしまうと〈反対方向の〉+〈知識、認識、情報、熟知、精通、学識、見聞、学問〉になる。
こういうものは、落語噺の「やかん」「うわばみ」「ちはやぶる」とおんなじようなもんだ。「とはは、ちはやの本名だ(俗名だ)」「うわがばみるんだ」てな具合だが、こういうのを笑ってるから、スタップ細胞なんかの毒婦だか人情噺だかワカラン、もはや都市伝説の類のものが、突出してくる。ほんとうに笑っている場合ではナイのだ。何度も書くが、コトバにおいて、演劇でも「幕間」をいま「まくあい」というひとは少なく、たいていが「まくま」ですましているし、「暗転」を「暗くして場面転換すること」だと知っている劇作家は殆どいない。単純に暗くなることだと信じている。「真逆」を「まぎゃく」と読んで「正反対」の意味に用いているが、これもシミュラークルといえなくもない。元ネタとしては「真っ逆さま」しかナイ。これが「まさか」として使われ、「まぎゃく」となったようだが、これぞ「カウンターナレッジ」なのだ。
では、何故、シミュラークル〈もどき〉が闊歩するのかと考えてみると(そう、なのだ。もはやシミュラークルとはなんぞやなどとかんがえている時代ではナイのだ)、「嘘というものは存在しない。何故なら、真理など存在しないのだから」という、ソフィストめいた命題に首肯してしまいそうになる。(もちょっと、つづけるか)

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