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2015年12月

2015年12月31日 (木)

私想的生活-09

小劇場演劇において、「特権的肉体〈論〉」は、唐十郎さんから初まり、つかこうへいさんをもって、終焉した。「特権的肉体」とは何か、「肉体的特権」とどうチガウのか、については、機会があれば一項設ける。ここで述べるには、長くなり過ぎる予感がする。なのにのっけから、そんなことを書き出したのは、終焉したのは、小劇場演劇における〈演劇〉だな、という感慨深い2015年だったからだ。語れば愚痴、述べれば悪罵になりそうなので、これは一項設けることなく、あざみの花にしておく。
そういや、シミュラークルを語るさい、これ、いっときゃなきゃ、というのを思い出したんだけど。元ネタがナイという創造物(表現)というと、演劇、映画において、そういうのはゴロゴロあるんだ。たとえばShakespeareの歴史劇はともかくとして、ロミオもジュリェットもハムレットも、主役なんだけど、元ネタはシェイクスピアの戯曲の中に描かれているだけで、現実には存在しない。ふつうはこれを〈虚構〉という。シャーロック・ホームズもルパンも〈虚構〉だ。しかし、坂本龍馬は歴史上の人物だが、私たちはホンモノのことは知らん。「これが、そうだ」というドクサによって、勝手にイメージしているだけだ。つまり〈虚構〉と殆ど変わらない。「ほんとはこうだった」と実録を示されても、「それは実際の坂本龍馬でしょ。そういうのはニセモノよ」という次元物理学みたいな応えをするものだっている。そういう輩に、龍馬は写真が残っているので、それをみせると、「ぜ~んぜん、イメージとチガウ。こんなの龍馬じゃナイっ」と一蹴される。こういう〈現実と虚構〉についてどう考えたらいいのか、という問いかけから始まった演劇論が拙著『恋愛的演劇論』(松本工房)なので、黙って読めばピタリとワカル。
さて、八艘飛びして、と。ツタヤ・レンタルで片岡孝夫(現・片岡仁左衛門)主演の眠狂四郎の第二部を全巻観たのだ。ツタヤディスカスでは、どーいうワケか第二部しかレンタルしてないので、そいつを観たんだけど(しょうがないので、第一部はアマゾンで購入した・・・これはまだ未見・・・)ざっと、データを書くと/『眠狂四郎無頼控』(ねむりきょうしろう ぶらいひかえ)1983年(昭和58年)4月6日から8月31日まで、テレビ東京系列で毎週水曜日の21:00 - 21:54に放映された連続時代劇/で、必殺シリーズの下降はすでに始まっているが、同時代のものだ。というワケでもナイだろうが、映像カットからクレジット、など、いろんなものが殆ど同じなので、スタッフが同じなのはマチガイなく、脚本はイイとはいい難いが、ともかく片岡孝夫の殺陣は一種の舞踏のように美しい。それを観るだけでも価値がある。さすがに歌舞伎役者、正中線に乱れがナイので、すこぶる速い殺陣なのだが、一瞬のブレもナイ。市川雷蔵狂四郎のニヒリズムは凄味があるが、ダンディズムなら片岡狂四郎に軍配があがりそうだ。歩き方も片岡狂四郎のほうがやはり美しい。再度いうが、正中線の乱れのなさは、歌舞伎の修練の賜物だろう。しかし、歌舞伎の殺陣と時代劇剣劇の殺陣はまるで異質のものでありながら、いまひとり、柴田錬三郎に最も愛された、田村正和狂四郎の殺陣が、まったくの舞踊もどきであるのに比して、片岡狂四郎はみごとな時代劇的剣戟をみせている。一芸に秀でたるものの〈芸〉のスゴサてのが、あるんだよな。円月殺法の構えも、市川狂四郎が下段(柳生新陰流でいうところの無形の位)から刀を回すのに対して、上段から青眼、そうして、下段へと移行する。たしかにこっちのほうが剣法としても理にかなっている。ここでも正中線の乱れはナイ。腕枕で横になっているときも、同じく正中線は乱れない。見事なもんだ。だからぁ~っ、十五代片岡仁左衛門(重要無形文化財保持者・人間国宝)になった現在(来年72才か)、よりも(土左衛門みたいな名称より)、孝夫がエエですねえ。孝夫が長かったからなあ。必殺の劇場版映画にも、助っ人出演されてましたが、あの蝶々のひらひらで、ほんで、扇でスパッての。
で、と。2015年は本日で終り。有終の美、在りや無しや。憂愁なら溢れるほど在るんだけどなあ。

2015年12月29日 (火)

私想的生活-08

シミュラークルというシロモノは、ほんとうは存在しない。それが元ネタのナイ模造品、贋物だからというのではナイ。『恋愛的演劇論』は〈現実と虚構〉についての論考だから、そっちを読んで頂ければ、すぐにその理由はワカル。だから、ここでは述べない。
シミュラークルを拡張してみると、擬似的なものにテンプレートてなのがある。/テンプレート(template)は、文書などのコンピュータデータを作成する上で雛形となるデータ/
/具象的なテンプレートは、それ自体文書であり、数箇所の修正または空白への書き込みで目的の文書となる。元の意味は建築物の梁受けで、そこから、鋳型のように働くさまざまなものを意味するように派生した/と、「ウィキペディア」にはあるが、要するに「型紙」あるいは「クリシェ(活字印刷の場合に頻繁に出てくる組型)から、定型的文章をこういう」。ルーチンワークなんかをするときには便利なシロモノだ。
落語などの語り芸において、その主要な(あるいは頻繁な脇役)登場人物(たとえば、ご隠居とか、クマとか与太郎とか、キーコとか、大店の旦那とか、宿屋の女中・・・et cetera)をいちいち創りだしていたら、おそろしく面倒になる。こういうとき、テンプレートを何枚かファイルしていると、それを取り出して、ちょっと書き込みするだけでイイ。多くの落語家は、この方法でやってる。
情報や知識、教養にしても、テンプレートを脳の中にファイルしておけば、そこからサンプリングして組み合わせていけば、戯曲の一曲くらい書けなくもナイ。昨今のコミックスなんかは、ほんとうにテンプレートへの書き込みだけ、てのばかりだ。たいていの大元は、山田風太郎さんの創作の中に存在している。つまり亜流でしかナイ。(時折、それとは逸脱して『女子攻兵』みたいな〈キチガイよろし〉の作品もあるが)。帯などに「アニメ化決定」とある場合、それはまったく逆で、最初からアニメ化出来るかどうかを吟味した上で、出来そうなのを雑誌で先行掲載しているだけだ。非情なことに、コミック雑誌は売れない。単行本が赤字にならず、アニメに出来ると、やっとマンガ家の懐も潤う。最近のマンガ家がペンなど使わず、パソコンで描くのは、そのほうがのちのちアニメにしやすいからだ。しかしながら、「実写決定」となると、要するに昨今のproducerはマンガしか読んでいないという証明にしか過ぎない。かつての文学映画は観るに堪えた。小津映画など、リアルタイムの当初では「芸術映画」だなどと思って鑑賞した庶民は誰もいない。あれはあれで、娯楽映画の一分野(小津落語てふうにいわれた)だったのだ。
ハリウッドですら、絶対ヒットの映画しかやんなくなった。『スターウォーズ・フォースの覚醒剤』(一字余分)などはそのいい例だ。映画興行は、洋画が多いという感触、雰囲気はあるが、ほんとうはその三倍程度は邦画が封切られているのだ。すぐ終わるけど。DVDに「劇場公開」と書き込むためだけの興行だから。(さて、もう一回くらいやるか)

2015年12月28日 (月)

私想的生活-07

シミュラークルをおもちゃにしてだいぶ遊んでいるが、いまのところ、うつ病との闘病中なもんで、stress、frustration、の鬱憤ばらしする方策がナイので、とはいえ、こんな駄文ですら書けない(書く気力が失せる)という時間帯もあるのだ。書くことしか能がナイ私のようなケチな売文業者が、書く気もないとなると、なるほどこれぞ〈うつ病〉かと再認識する他はナイ。うつ病の鬱のほうはまだ周囲に迷惑をかけないが、これがaggressiveに躁転することがある。ちょっとしたことに腹が立つのだ。また、それを抑制、制御することがその時象では不可能なので、あとから、つまらんことに立腹したなあと自己嫌悪がやってきて、もう混乱、赤面逆上の極みとなる。
立腹とまではいかないが、「イジメ」てのをすることもある。いまはもう面倒なので、私は宗教評論を仕事にしているので、話をするなら10分千円請求しますよと、追い返すようにしたが、暇つぶしにそういう族(輩)をイジメたこともある。
その前に、そういえばこんな〈脅し・カツアゲ〉もやったな。いわゆる「手かざし」が流行していた頃で、路頭千里、巷に俄づくりの手かざし信者が跋扈して、「ちょっとよろしいですか」と、寄りついて来ることがあった。「手かざし教」の派生から御家騒動、分裂騒ぎ、GLAの高橋信次(故人・・・だが、彼自身の予言によると、21世紀初頭には生まれ変わっているはずなんだけど・・・)元主催との超能力(霊能力)合戦にいたるまで識っているこちとらとしては、何処の分派だか知んないが、ちょいとからかってみるかと虫の居所、「ああ、よろしいよ。なになに、そうか、手かざしでそんなに威力があるか。いやあ、いまオレ、具合悪くて困ってんだ。ちょいとやってくれるか。まあっ、立ったままもなんだから」と、適当なベンチに座って「いっとくけどな、坊や、オレはインチキや誑かしは大嫌いでな、そっちも命懸けでやってくれ」と、銃刀法ギリギリで持ち歩いているナイフをちらつかせて、「具合良くなんなかったら、その手のひらの真ん中にコイツをグサッという条件でいこうか」てなことをいうと、「あっ」とかナンとか、いって、「またアトにします」「いいよ、待ってるけど」と、走り去るその坊やのアトを尾けて、「おい、まだか」と、肩を叩いたりして、ほんとにロクなことやってナイな。
で、「イジメ」のほうは、たいてい女性二人なんだけど、玄関先で、向こうの自己紹介がすむと、「つまり、あなた達は神を信じているんですね」とやんわり始める。もちろん、肯定する。そこで「あなた達の信じている神様はどんなふうな神様ですか」と問いかける。「聖書に書いてある神です」とたいてい答える。そこで「聖書に書いてある神とはどんな神様ですか」と問う。もちろん、「これこれしかじかの神です」と答える。彼女たちもいろいろ勉強はしているから、その〈神〉についてさまざまに述べる。そこで、「その方の身長と体重はワカリマスか」と間、髪を入れずに問うと、例外なく二人は顔を見合わせることになる。「それは神ですから、身長とか体重は、あってナイようなものです」と無難に応える。そこで、片方ずつに今度は、「あなたはどんなイメージを持っていますか」と訊くのだ。つまり、〈神〉というのは、元ネタが、イメージでしかないシミュラークルだということを知らしめるワケだ。「神という存在は、あなた方がどれだけ口をすっぱくしてその実在を説いても、どこまでいってもイメージの産物でしかナイんです。仏教徒だって釈迦牟尼の顔なんて知ってる者はいません。だからさまざまな仏像があります。あなた達のエホバも創られたイメージです。つまり、あなた達、あなた、あなたが、それぞれ神をイメージした途端にブリキ、それは偶像崇拝になります」と、こんふうになんだけど、この教派は、イエス信仰もマリア信仰も認めていないので、シミュラークルの程度がかなり高いと思ってイイ。(と、きょうはこのへんまで、と)

2015年12月27日 (日)

私想的生活-06

シミュラークルについて結論を書いて終わろうとするなら、いつでも終われるのだが、毎度かくなる長文、駄文を書き綴っているのは、たとえそれが銭にならなくても、「書かなくては腕が鈍る」「論理的思考、感性的心情が鈍る」からで、ダテにやってるワケではナイ。
演劇営為は、私がそれを指向しはじめた時代よりさらに東京一局集中、中央集権になってきているし、「地方活性化」「地方創成」なんてコトバが行政関係から飛び交っているようでは、東京以外みな〈地方〉というこの〈上から目線〉のイヤミな言辞は、水のナイ川辺の水車のように空回りしているように思えるほかナンノ感慨もナイ。
そんなふうに考えを当時(1980年、前後)にもどせば、まだ、東京という文化雑貨店に出品販売する機会はあった。何故なら、〈東京〉と称されていたものこそが、ここで話題にしているシミュラークルそのものだったからだ。江戸には実在としての風格があるが、その当時においても「日本」という概念はなく、現在の日本のあちこちの地名から考えてもそれは明確なことだ。例にしていうなら、「近畿」といのは「畿内」の近くのことだし、関西というのは、その「関」より西、関東なら「東」、「四国」は四つの国、「九州」は九つの州、「東北」となると、もう方角でしかなく、「北陸」もその類、「奥州」は奥の州で、「蝦夷」においては地名ではなく、「えみし」「えびす」と称される人々の蔑称らしく(諸説あるから)、大略としては、北方(現在の北海道地方)に住む人々を異族視した呼称であるとされている。「日本」という「国土」の通念が定着しはじめるのは、明治以降のことだ。
東京もまた、北京、南京と同じく、東の京(みやこ)であって、じっさいの都(天皇の在所)は京都だ。私たちは小中学校の歴史で、京都が空襲爆撃にあわなかったのは、文化建造物が多かったから、それを残しておこうというアメリカの温情と教えられたが、そんなことはウソだと思う。皇居が東京にあろうとも(これすら、東京が空襲でヤバクなってきたので長野県松本への遷都が決まっていた)、京都は帝の在所なのだ。
いま、私たちが〈東京〉と称している都市は、元ネタなどありはしない。江戸がそのまま東京になったなどというのは錯誤でしかない。〈東京〉は元ネタのないシミュラークルなのだ。だから、全国あちこちから一旗挙げよう、うだつ(梲)を上げよう・・・(うだつは建築用語で、一種の防火様式をいうが、これがあるとないのでは、格式、見栄えがチガウ)・・・として集まってきた雑民がシミュラークルとしてこさえた都市だといって差し支えない。江戸常民、ほんものの江戸っ子の末裔は、うんとひっそり暮らしているが、彼らの持っているものこそは江戸文化であり、東京文化ではナイ。
東京文化は、明治以降創られた、富国強兵、農本主義、の旗の下、海外資本主義の導入によって、人工的に造られた東京ランドでの文化だ。(さすがに「ウィキペディア」において「農本主義」については、ハナに「独自研究が含まれているおそれがあります。(2013年10月)。正確性に疑問が呈されています」とある)。
さてと、演劇の方向に話をもどすと、東京でしか演劇もんは食えないのが実情で、東京ではなくご当地で食っていくなら、地方名士にでもならない限り無理だ。けれども、これも「定員」てのがありそうで、そう多くを地方文化行政は引き受けてくれない。
東京でしかというのは、必ずしも東京に住むことを意味しないが、東京に住んでいるほうが便利にはチガイナイ。私はかろうじて、名古屋にいるが、これはAT(情報技術 Information technology。特にコンピュータなどの基礎あるいは応用技術の総称。通信 (communication) を含める場合はICTという)と、その周辺機器の発達があるからで、もはや、faxすら必要としない。ただ、私がこの関連で得た教訓は、必ず printせよ、だ。電子はあっという間に消失する。紙の文明はまだまだ終りそうにない。AT(と、その周辺)機器の繁殖で需要が増えたのは「紙・用紙」だという統計もある。
私のようなデスクワーカーはそれでもイイんだけど、劇団となるとそういうワケにはいかない。そこで、劇団単位で東京移転する〈地方〉の劇団も現れたが、成功譚は耳にしたことはナイ。個人の劇作家においても、似たようなもんだと思う。とはいえ、先述したように、東京はシミュラークルで、要するに地方、もっとワカリヤスク卑近なコトバをワザと用いれば「田舎もん」の寄り合い所帯だから、昨日まで「おらがよ、そうだべ」と喋っていたものが急に「僕がそうですよ」になって、「どの辺で遊んでるの」「六本木かな」てなことをいいあって、自身を東京の「表現された自己」にシミュラークルするという営為が日常の街なのだ。(いちおう、つづくにしとこうか)

2015年12月25日 (金)

私想的生活-05

コピーやレプリカは、まんま、もしくは似せた写像だ。たとえばアルターミラの洞窟(壁画で有名)は、劣化防止のため、ホンモノは公開されていないが、レプリカでそっくり造った洞窟は観光名所になっている。ところで、その後もっとスゴイ壁画のある洞窟が数々発見されたのだが、いまのところ予算の都合か、レプリカがある話は聞いていない。おそらく研究者しか入れない。(一度、世界最古のショーヴェ洞窟にヴェルナー・ヘルツォーク監督が、ドキュメント映画クルー・・当局の許可がおりて・・で入って、多くの壁画のドキュメンタリーを作製しているが)。
ほんものの写像ではナイが、当時の再現という感触でなら、日本各地に明治、昭和の町並み、生活空間などが造られて、もちろん公開(観光化)されている。これはまんまの写像というではナイが、当時の記録映像や写真などを元ネタにしての造りだ。愛知県の明治村はほんものを集めた野外博物館だから、レプリカではナイが、あくまで博物館としての展示なので、そこが実際に日常的に使われていないということにおいては、正確には〈ほんもの〉とはいえない。世界中の遺跡や廃墟などもこの類で、現実にその場にその時代の時空があるかというとそうではナイのだから、〈ほんもの〉ではナイのだ。たとえ私たちがAngkor Watに足を運んでも、Angkor Watそれ自体を観ているのではなく、その〈遺跡〉を観ているということになるのはアタリマエのことだ。
シミュラークルに話題を少しもどすと、いま、手元に資料の書籍がナイので(名古屋の仕事場-住居には、書籍は、現在進行中の関係のものしかナイので、滋賀の実家は、書斎というより書庫になっているんだけど)詳細は述べられないが、写真家の荒木経惟さんの写真集『男と女の間には写真機がある』(1978年、白夜書房)だったか、同じ頃に買い求めた別の写真集だったかに、「金閣寺」の写真があって、「炎上前の金閣寺」てなタイトルがあり、すぐそのアトに、「それはウソ、写真は真実を写すものではナイ」というコメントがある(ということを記憶だけで書いているので、あんまりアテにしてはイケナイ)。これなどは、まさにシミュラークルという範疇に入るものだ。たしかに金閣寺は元ネタとして存在しそうに思えるが、ここでの元ネタに該るものは〈炎上前の〉だから、そんな元ネタはナイ。
現在のデジタル・カメラがどの程度の光学機器なのか不案内だが、かつてのシャッター・&・フィルム形式のものでいうのなら、「写真判定」という、よくスポーツで用いられるものは、必ずしも正確でナイという科学的論拠から、現在はかなりの精度にまで修正されている(ハズだ)。というのも、フィルム式のものは、〈写る〉というprocessにおいて、まず、光源がどちらの方向から入り込んだかを考慮に入れなければならない。フィルムには、光が入り込んだ順に像が焼き付けられていくので、全面いっせいにホイというワケにはいかないのだ。
リケンで問題になった(リケンという名称だけは、生わかめを造っているのではナイということで有名になったが)スタップ細胞とかはシミュラークルというより、ガセに近い。(〈ガセネタ〉はテキ屋の隠語(slang)で『香具師奥義書』(1929)にみられる)。これは、元ネタがナイとはいえないので、たとえば、「○○デパートが火事になって、ちょっとだけ焦げあとはあるが、ペン先は大丈夫」というモンブランの万年筆売りは、ペン先を硫酸に浸して、ホンモノの金であるかのようにみせかけるのだが、これなどは舶来の万年筆が元ネタになっている。(もちろん、あれは仕込みのネタがある偽物だが)スタップ細胞は、作成者本人がどこまでそのエビデンスを信用していたのか、まったくの詐称なのか、つまり、科学的な単純な躓きなのか、確信犯なのか、未だに私にはワカラナイ。有能な科学者がひとり死んでるんだから、そういうところを科学的に顕かにしてもらいたいもんだ。
こういうヘンチクリンはいまに始まったことでも、昔からあることだともいえない。たとえば、ダミアン・トンプソンの著書『すすんでダマされる人たち ネットに潜むカウンターナレッジの危険な罠』(日経BP社 2008年)によると、ネットを飛び回るさまざまな〈ガセネタ〉を「カウンターナレッジ」(Counterknowledge)と呼んでいる。このコトバはCounterとknowledgeを合わせた造語だが、直訳してしまうと〈反対方向の〉+〈知識、認識、情報、熟知、精通、学識、見聞、学問〉になる。
こういうものは、落語噺の「やかん」「うわばみ」「ちはやぶる」とおんなじようなもんだ。「とはは、ちはやの本名だ(俗名だ)」「うわがばみるんだ」てな具合だが、こういうのを笑ってるから、スタップ細胞なんかの毒婦だか人情噺だかワカラン、もはや都市伝説の類のものが、突出してくる。ほんとうに笑っている場合ではナイのだ。何度も書くが、コトバにおいて、演劇でも「幕間」をいま「まくあい」というひとは少なく、たいていが「まくま」ですましているし、「暗転」を「暗くして場面転換すること」だと知っている劇作家は殆どいない。単純に暗くなることだと信じている。「真逆」を「まぎゃく」と読んで「正反対」の意味に用いているが、これもシミュラークルといえなくもない。元ネタとしては「真っ逆さま」しかナイ。これが「まさか」として使われ、「まぎゃく」となったようだが、これぞ「カウンターナレッジ」なのだ。
では、何故、シミュラークル〈もどき〉が闊歩するのかと考えてみると(そう、なのだ。もはやシミュラークルとはなんぞやなどとかんがえている時代ではナイのだ)、「嘘というものは存在しない。何故なら、真理など存在しないのだから」という、ソフィストめいた命題に首肯してしまいそうになる。(もちょっと、つづけるか)

2015年12月21日 (月)

おやすみのお報せ

23日(あるいは24日)までおやすみです。

2015年12月20日 (日)

私想的生活-04

『微分方程式と現象学と演劇と〈シミュラークル〉』というナンだかが、「めずらしいもん屋」に並んでいた。それぞれ個々はめずらしいものではナイ。しかし、四つ並べるとたしかに「めずらしい」もののように眼に映る。このナンだかを一冊の書物としてもイイ。そのほうがイメージしやすいだろうから、そうする。そうすると、この『微分方程式と現象学と演劇と〈シミュラークル〉』というのは書物のタイトルということになる。タイトルは本の〈部分〉だ。けれども、この〈部分〉を読んだだけで、この本の中身(全体)が漠然とみえてくる。みえてこなくても、こうなんじゃないかと〈思いこむこと〉は出来る。そういう識知営為はすでに、この書物に記されていることを実践していることになる。どういうことかというと、つまりある種の入れ子、メタ、みたいなものだ。解りにくいのならこういっとくことにする。夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』には本文の中に『ドグラ・マグラ』という精神病患者の小説が研究用展示物として登場する。あるいは、セルバンテス『ドン・キホーテ 後編』の中には、『ドン・キホーテ 前編』が出版されている書物として登場する。それと同じ。(ナンノことやよけーにワカランようになったやろ。私はいまうつ病と闘病中で、要するにキチガイに刃物ではなく、私の場合はキチガイに書き物なのだから、仕方がないとアキラメテもらう。これをアキラメデスの原理という)
まあ、順序よくいこうじゃないか。ずっと私の読者であるひとにはよけいなことになるかも知れないが(つまり、またかよっ、だが)、北村想ビギナーのためにも、あるいはお復習いとして、いま一度記しておく。「微分方程式」とは何ぞや。
私は戯曲の私塾でもそれ自体をレクチャーすることもあるし、それを活用してレクチャーすることもある。もちろん、微分方程式の計算なんかやったこともナイし、そんなふうに使ったこともナイ。ただ、この「考え方」は応用が利くので、戯曲を書くことについて、さらに拡張して、演劇について語るときに用いる。微分方程式とは、「部分から全体を創りだす」作業をいう。この場合「部分」とは「微分係数 dy/dx」のことで、いわゆる「微分」だ。微分というのは、成分d(x.y)の比率を求めることだからだ。(この比率を係数という)。そこで、では「全体」とは何かというと、アタリマエのことだが、関数y=f(x)のことになる。storyやsequenceを「全体」というのなら、plotやsceneは「部分」というふうに考えても差し支えナイ。成分d(x.y)の比率というのは、戯曲においては、(日記的/説話的)を指す。
微分方程式のポイントは2点、①抽象化、②一般化。これは微分方程式が数学であるという宿命のようなもので、日常世界の事象を数学記号で現すのだから、どうしても抽象化することになり、さらにそれに普遍性を持たせるためには一般化しなければならない。①をフッサール現象学の造語でいうならば、それぞれのドクサ(思い込み)による客観性をいったん括弧に括るという〈エポケーするという〉「本質直観」に該り、②はそれぞれの何方さんにも納得出来るように妥当な基準を定める「想像変容」になる。だから順序としては①→②になるのだが、微分方程式の注意点として、ある「事象」→「抽象化」→「一般化」→「概念・法則化」としたものを、こりゃ便利とばかりに「概念・法則化」(数式)→「個々の固有値」(日常)に持っていこうとすると、これが、出来ない(というより、そうしてはイケナイ)のだ。何故なら、抽象化され法則化された数式(微分方程式)を日常に着地させようとすると、着地点(具体性)が無数にあることから、けっきょく定まらない結果を産んでしまう。この有名な失敗例を挙げれば(失礼ながら)「スタニスラフスキー・システム」というメソッドがそうだといわざるを得ない。
ここで、さきほどの戯曲の成分(日記的/説話的)を(現実/虚構)というふうに、大雑把ではあるが、まあそんなふうにもいえるワイナと思うので、そうしてみる。・・・これは拙著『恋愛的演劇論』に詳しい・・・さらにこれを(現実[実数]/虚構[虚数])と拡張すれば、戯曲は「複素数平面」(三次元的に捉えれば複素数空間)での表現ということになる。さあ~らに、ここから逆視して世界(自然)を眺むれば、「もし、この世界(自然)が、〈私の〉表現であるとすれば、現実それ自体というのはナイ。虚構それ自体というものもナイ」ことになる。
ニーチェまでいくと世界(自然)と〈私〉との関係・了解を「解釈」としたが、カントになると「もの自体」は、それを主観でしか観ることのできない個々が個々あるので(でなければ「私の考え」という考えを放棄、破棄しなければならない)、それを識るのは神ばかり、になるのだが、この辺のことは、今回は述べていくと面倒だからすっ飛ばす。
で、さて、〈シミュラークル〉なんだけど、疲れたので(つづく)にしとくワ。

2015年12月19日 (土)

私想的生活-03

「めずらしいもん屋」てのがあるそうなんですがね、ほんとなのかね。ほんと、ほんと。何売ってるの。だから、めずらしいもん、よ。たとえば。髑髏、頭蓋骨なんかあるね。そんなものは、めずらしくナイじゃない。いや、その中でもめずらしいのが、たとえば〈織田信長の十六歳のときの頭蓋骨〉とか。そりゃあり得ない。あり得ないのでめずらしいんですよ。じゃあ、その店でイチバンめずらしいものってのは、何なの。それは〈ちっともめずらしくナイ〉ってのがあって、それがイチバンめずらしい。なるほどね、「めずらしいもん屋」なのにめずらしくもナイものが在ると、それは、イチバンめずらしいということか。そういうことですよ、旦那。
〈織田信長の十六歳のときの頭蓋骨〉というのが存在するということを、哲学で説いたのが、ボードリヤールだ。ボードリヤールについてちびっとだけ解説しておくと、/『消費社会の神話と構造』(1970年にフランスで刊行)が代表的な著書で、本書では、大量消費時代における「モノの価値」とは、モノそのものの使用価値、あるいは生産に利用された労働の集約度にあるのではなく、商品に付与された記号にあるとされる。たとえば、ブランド品が高価であるのは、その商品を生産するのにコストがかかっているからでも、他の商品に比べ特別な機能が有るからでもない。その商品そのものの持つ特別なコードによるのである。つまり、商品としての価値は、他の商品の持つコードとの差異によって生まれるのである。現代の高度消費社会とは、そういった商品のもつコードの構造的な差異の体系である。高級車には高級車の、コンパクトカーにはコンパクトカーの持つ記号がそれぞれ存在し、それらを自ら個性として消費するのである。こうした「記号」という商品の価値が、本来の使用価値や生産価値以上に効力を持つ社会を「消費社会」と本書ではよんでいる。この思想の背景にはマルクスの価値形態論とソシュールの記号論が控えており、こうした分析を、生産物に限らずあらゆる社会事象や文化に援用したのが本書の特徴である/と、これは『ウィキペディア』の解説なのだが、要するに「マルクスの価値形態論とソシュールの記号論」からサンプリングしてきたものをリミックスしたものだと思えばイイのではないかな。「コード」とか「差異」が、交換価値となるというのは、商品というのは無機的なものではなく、有機的な〈表現〉という価値を有していて、同じ価格のドレスを、ある女性(消費者)が選択するときに、どちらの〈表現〉を気に入るか、ということだ。と、私の脳のテンプレートにはファイルされている。ポスト構造主義の書籍の中では、比較的ワカリヤスイ本だったという記憶がある。(といってもワカルところ、興味のあるところしか読まないのは、私の読書術なんだけど)。
というワケで、〈織田信長の十六歳のときの頭蓋骨〉は、ボードリヤールふうにいうと、〈シミュラークル〉ということになるのだが、〈シミュラークル〉というのは、ボードリヤールの展開した哲学における彼自身の「造語」で、似たものにシミュレーションてのがあるが、簡単にチガイをいえば、シミュレーションは「模倣」「複製」、いわゆるコピー、レプリカのことだから、元ネタが存在するのに対し〈シミュラークル〉には元ネタはナイ。似たモノに火のナイところに煙をたてる「流言蜚語」「噂」の類があるが、ボードリヤールは、消費者は、そういう類に踊らされやすく、いまの社会の消費ってのは、そういう神話的なもんだよという、警鐘、啓蒙というのをやったんだと思う。
たとえば、関東大震災(1932年-大正12年-9月1日11時58分32秒、関東にて発生)の際、「朝鮮人が井戸に毒をまいた」という流言蜚語、噂、が飛び交って、朝鮮人が大虐殺された、ここには二重の〈シミュラークル〉が現出している。まず、「朝鮮人が井戸に毒をまいた」というのは「噂」であって、元ネタがナイ。〈織田信長の十六歳のときの頭蓋骨〉と何のかわりもナイ。さらに、朝鮮人大虐殺では、ロンドンのナショナル・アーカイブスで朝鮮独立運動派が諸外国の外交官にばら撒(ま)いた謀略宣伝用小冊子に書かれた数字はなんと2万3059人の朝鮮人が殺されたことになっているが、当時東京に何人の朝鮮人がいたのかというと、政府統計によると約9千人だから、近県の朝鮮人在住者近県に 約3千人をたとえ加えても、1万を少しこえるだけで、これもまた〈シミュラークル〉なのだ。ボードリヤールふうにいえば、なんだけど。
しかしながら、私はこの〈シミュラークル〉という概念を、なるほどそうですかと認めているワケではナイ。(続く)

2015年12月17日 (木)

私想的生活-02

「貯金ゼロ世帯の割合」26%→30・9%に。「生活保護受給世帯数」約156万8000世帯→約162万9000世帯に増加、非正規労働者は1775万人(12年4~6月)→1971万人(15年7~9月)に増加。
何をもって貯金というのか、現行0金利によって、貯めるのではなく出し入れするだけだからタンス預金と何の変わりもナイのを貯金という。貯金ゼロ世帯が増えたというのが悪化なのかどうかは、ちょっとワカラナイ。おそらく他の金融ゲームに手を出しているのにチガイナイ。「生活保護受給世帯数」は、世帯さへ別にすれば、結婚同様の生活をしていても二重取り出来る。要するに婚姻届は出さず、別居して、片方の住居は仕事場に使い、あるいは倉庫にしておけばイイ。そういう便利というより狡猾な方法があるので、それならそうしようと、そういう輩が増えただけかも知れない。非正規労働者といったって、正規労働者がいつリストラされるのかワカラナイご時世だ。またブラック・カンパニーがやたらめったら多いんだから、そりゃあ、入社して正規雇用されても何の安心にもならないのは当然だから、アホラシクで新入社員なんかになれるかと考えているものだっているだろう。統計は数字だから〈量〉だ。〈質〉はワカラナイ。

なんか寒いなあと思ったら、そうかもう12月も半ばを過ぎて冬なんだなあ。で、助け合い募金なんてのがまた今年も始まって、不思議なのは、これが毎年毎年、私の子供の頃からつづいているということだ。それを考えるとアベノミクスだろうが何だろうが、絵に描いた餅に過ぎないということがよくワカル。赤い羽根募金も、日本ユニセフ協会も、ダークなのは承知だ。集めた募金から職員に賃金を支払って残った銭を募金にまわす、と、いってみれば募金商売だから。とはいえ、その何%かは募金にまわされるという、法規の上での商売だから、こっちもしょうがなく乗っかってるだけだ。とはいえ、日本ユニセフ協会のほうは、今年、領収書が送付されなければ、やめるつもりだし、赤い羽根はやってナイ。

テロ掃討の空爆には銭がかかる。爆弾一発幾らだか知らないが、まるで豚コマ買うように爆弾買って、それでもうけた武器商人は、大量生産で銃器をつくって、今度はそれをテロ側に安価で売る。(ホンモノよりモデルガンのほうが高いことなどほとんど知ってるひとはいない)。けっきょく、そういう負のスパイラルなのだ。そうして、武器輸出を主要産業にしているのは、他ならぬ永世中立国スイスだ。映画『第三の男』の作中(観覧車の中でだったと記憶するが)、ハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)が語る有名なせりふ、「ボルジア家支配のイタリアでの30年間は戦争、テロ、殺人、流血に満ちていたが、結局はミケランジェロ、ダヴィンチ、ルネサンスを生んだ。スイスの同胞愛、そして500年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」は、大嘘だ。(もっともこのせりふは、原作者であり脚本も共同執筆したグレアム・グリーンのホンにはなかった)。

一日半身浴をサボ(sabotage)ると、座骨神経痛が疼きはじめる。
昨日の昼飯はカレー肉うどん、もちろん自炊だ。(レトルトは使わない)
本日はマーボー飯、自炊だ。
一人分だと、外食とそんなに価格の差はナイが、外食よりは美味いので自炊している。昨今の安物ランチは、まったく手抜きの量産で、食えたもんじゃナイ。コンビニの中華飯を二種(レトルトと、出来合い店レジチン商品)食ってみたが、むかしの学校給食を思い出した。こういうものが売れるということが、すでに不思議を通り越して日常なんだから、つまり、時間というものが余剰になるんだから、その時間でいったい他人はナニをしているんだろう。AV業界に通じている〈の〉から聞いた話だけど、オーデションに来るのは圧倒的に主婦が多く、かつ銭に困ってという理由ではナイので(つまり、かなり暇らしいんだよな)、ついつい自分の女房に大丈夫だろうな、なんて訊いて、激怒されたそうだ。

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振り袖講談「転がる星〜The star who falls down 〜」
北村 想 のインタビュー動画を公開しました。
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あわせて再度チケット予約ページを記載します。
https://www.quartet-online.net/ticket/furisode

2015年12月16日 (水)

私想的生活-01

2015/12/16、気温は平年より4~5度も高いのだそうだ。暖冬とはいうけれど、気象変動が日常的な環境にまで拡張しているということだ。私などは買い物に行くと、野菜の高値をみるだけで、何が起こっているのだろうかと不安に近い疑問を持つ。

チェスタートンは『正統とは何か』の中、「お伽話」について、そこには〈教訓〉と〈禁忌〉があって、タイセツなのは〈禁忌・taboo〉のほうだと述べている。これは「浦島太郎」の玉手箱のようなものだ。「○○だけはしてはいけない」「○○さへしなければ」。「夕鶴・・つるの恩返し」もまた、同じ。これは日常的には結婚生活における法度でもあるし、大きく局面を転じれば世界情勢も同じようなものだ。これまでに滅んだ多くの文明の滅びの原因は、ほぼそれにつきる。男女の仲もご同様。

一昨夜は四人だけの忘年会で、紅一点のA女史とは四十年余の付き合いになるが、酒が入って少し酔うとまったく小学生の女の子のように可愛らしくなっていく、このひととは、最も幸福だったことに、双方とも恋愛感情というものを持つことがなかった。これは人生の最大の収穫の一つだ。そうでなければ同じ時代を、同じもの書きとして、同胞として生き抜けたはずはナイのだ。
こういう例を出してお門違いの恐縮ものかも知れないが、アダルト・ビデオにおいても、どのようなジャンルかを問わず、けっきょくは主役の女性がタイプかどうかだけが性欲の対象になるのは、私が逆に変態だからなのかも知れないが、手を変え品を変え、よくもまあ工夫するなあと、かの業界にはある意味、ため息出るように感服してしまうが、どうしてもヒロインに尽きる。

さて、先の〈禁忌〉を「因果応報」や「因縁」とした先出宗教に叛旗を翻す思想をもって登場したのが、釈迦・仏陀であり、イエス・キリストもまた、似たような立場から出発しているのだが、両者の決定的なチガイは、釈迦・仏陀が、現世の「苦」の克服(解決ではナイ)を現世の問題にしたのに対して、イエスは来世に「天国」という〈救い〉のご褒美を用意したことだ。けっきょくのところ、上座(小乗)仏教の結集によって、釈迦・仏陀の思想は消滅の一途をたどるしかなかったし、イエスの夢もまた、ローマ帝国との和解によってスコラ哲学というアリストテレス哲学の援用バージョンに変容を余儀なくされたが、原始仏教の一部は大乗(個人・在家)仏教に残され、キリスト教もまたロシアの教派(宗派とはいわない。宗派は仏教の用語だ)にその一部を残している。
量子力学の中、有名な「シュレーディンガーの猫」については、多くのシナリオ・ライター(たいてい、映画やドラマの中でこれが引用されるとき、その解釈はマチガッテいる)社会学者、当の物理学者においても錯誤されているが、このシュレーディンガーの量子力学に対する提訴は、結論はついているとしても、その経緯からはもっと研究すべきことや学ぶべきことが、ニュートン力学の日常に住む私たちにとって多いという啓蒙が私にはあって、これは残りの人生の課題にしてもいいくらいだ。
簡単にいってしまえば「シュレーディンガーの猫」の「猫」は実験(観察・検査)結果にはならず、〈対象〉となってしまうというジレンマが、シュレーディンガー自身の量子力学からの離脱にもなったのだが(元々、シュレーディンガー自身はニュートン力学のひとだから、そういう帰結があっても当然だが)、猫が死んでいようと生きていようと、半死半生だろうと、ほんらいこの実験において、その結果は意味がナイ。
釈迦・仏陀のいったことは「先のことなどワカラナイよ」というアタリマエのことなのだから、これもまた、一休禅師曰く「成るようにしか、成らん。先のことを心配してもしょうがナイ」という、八十八歳にして、女体(一休禅師の場合は、マザコンだったので、性欲というよりも、女体というものへの満たされぬ憧憬があったようだ)を愛でた底力に大いなる畏敬をもって接すべし、ということなのかも知れない。

紀伊國屋演劇賞

Wow! Congratulations! I’m so happy for Koizumi Kyoko

2015年12月15日 (火)

私想的生活-0

このまま眠ると、明日の朝死んでいるのではないだろうか、という一種の強迫観念がいつまでも片隅にあるうちは布団に入る気になれず、ウヰスキーの水割りが時々5杯になることもある。
これには理由がある。父親の臨終が「眠るように」ではなく、ほんとうに眠りに入ってそのまま逝ってしまったからだ。看護師が病室に慌てて数人入ってくるまで、看護していた母親も、気がつかなかったという。こういうのを大往生といのかどうかは知らぬが、私としては「悪人なおもて往生をとげる」と思うことにしている。

うつ病期の闘病時は、酒の味もしなくなる。何を飲んでいるのかワカラヌが、酔うために飲んで、さて寝床に入ると、酔いがまわって気持ちよく眠りに入るかというとそうでもなく、うつ病特有の身体的苦痛(だるさや痺れ、息苦しさ)にしばらく耐えねばならない。これは目覚めもそうで、朝にせよ、昼寝のアトにせよ、たいてい30分は生きるか死ぬかに迫られる。これをうつ病の「ハムレット症候群」と自分では称している。この状態が脱けきらないうちは寛解(かんかい、Remission.永続的であるか一時的であるかを問わず、病気による症状が好転または、ほぼ消失し、臨床的にコントロールされた状態を指す)といかない。日常生活はほぼなんとかなるのだが、突然、ほんとうに何かの発作のようにうつ病症状が所嫌わず襲ってきて、ハムレットになる。現在はそんなような情況で、寛解率50%てなふうだ。

うつ病の典型的症状に、中途覚醒というのがある(あるいは早朝覚醒)。こいつは一度夜半や明け方にでも目覚めると、そこから眠れない。当然、その日一日は消耗のままダメになることが多い。これを私はメジャートランキライザー2,5㎎(通常5㎎)を就寝時1時間前に服用することで切り抜ける。変に抗鬱剤を増量するよりも、こちらのほうが楽なのだ。だから中途覚醒からは逃れている。とはいえハムレット症候群は現出して、長いときは2時間ばかり、これにつきあわされる。もっとも、うつ病の現出期は半日はこの症状がつづき、そこに痛みがともなう。こういうことは何度もこのブログに書いたが、痛みの現出は、うつ病罹患者の4割で、出方はさまざま。私の場合は左右の手首関節と指関節の鈍痛と疼痛、酷いときは、足首や手肘もやられる。ここに全身のだるさと痺れが加わる。
抗鬱剤の服用(62,5㎎・・・通常は75~100㎎だが、年齢的に60㎎程度まで下げている)で、抗鬱剤の成分のノルアドレナリンの作用で痛みは緩和されるが、如何せん自殺念慮と不可思議な重力の異常付加は突然、ところかまわず、やってくる。これが数分で終わるか数時間になるか。これらは抗鬱剤の副作用によってももたらされる。セロトニンによる口渇、吐き気、ノルアドレナリンによる、ふらつき、頻脈、そこで、徐々に抗鬱剤の減量を試みる。いまのところ25㎎まで減らしてなんとかなっているが、それでも、β-ブロッカーの扶けがいる場合がある。これも寝起きに多いが、脈拍が120を超えることもある。105あたりまでは、半身浴や瘀血(おけつ・伝統中国医学において、鬱血や血行障害など、血の流れの滞り、またはそれによって起きる様々な症状。東洋医学の解説書などにはよく「ふる血」や「汚れた血」などと解説してあり、また、瘀が特殊な字で、「悪血」と書かれることもある)を抜いたりして対症する(刺絡と称する。方法はさほど難しくなく、糖尿病検査の鍼器具を用いて、足の指から15滴~30滴ばかり搾る)。
5年くらい前に独居していたときは、起床は6時、それからしばらく待って6時半から開店の早朝喫茶にモーニングで朝食、8時頃から11時までデスクワーク、近隣の中華屋で瓶ビール(500㎖)を一本飲んで昼食、帰って1~1時間半ほど昼寝。そのアト何をしていたか、あまり記憶にナイが、試写のある日はビールはやめて、試写室に出向いて映画を観て、自炊で晩飯。たぶん、読書とかに空き時間はアテていたんだろう、就寝は12時前後だった。このときも、9時頃から水割りを4杯。この頃はまだ目が大丈夫だったので、出来ることも多かった。この頃までは、抗鬱剤も3日~遅くても5日くらいで効き始め、副作用もなかった。
加齢が関係するのだろうか、同種の抗鬱剤と自律神経(交感神経)の折り合いが現在はあまり良くなく、前述したように匙加減が微妙に難しい。やっと、12,5㎎を朝と昼に一錠ずつ服用で、ほぼ50%寛解までこぎつけたいまも目のほうが減衰して、舞台なら1時間、映画でも90分を超えると、眼鏡をしていてもしていなくても同じで、ピントもフォーカスもオジャンになる。
実にやっかいな疾病だが、この疾病で死ぬことだけは、拒絶する。
I don't succumb.(アイ ドォント スカム ・ 我、屈せず)
At least today only.(せめて今日だけでも)

2015年12月13日 (日)

三つの生活

結婚をはさんで、二度、けっこうな歳になってからの独り暮らしをしたことがあるが、最初は保証人が代行だったからか、その類のワケアリの人々が住人らしく、二階建てのアパートは上下で五世帯ずつ、私は妙なことに二階の真ん中の部屋に住むことになった。二階の住人はまったくナニモノかは判らず、ワカルことは隣の部屋にはエアコンがナイということくらいだった。
私の部屋は、2DKで、暮らしに不自由があるとすれば、最寄りの駅まで一坂越えなくてはならないということで、私は運動代わりにと自転車を購入、駅に行くのにその勾配を昇ったが、これで、左膝の半月帯を断裂した。手術はリスクがあるので出来ないという医師の判断で、自転車でその坂を昇ることは出来なくなった。(ところが、これを知った私の塾の弟子たちが、カンパしあって電動自転車をギフトしてくれた)。
私の真下の部屋には、フィリピン妻と二人の幼児がいて、父親は鳶職らしく、現場に入ると半月ばかりは姿をみせなかったが、フィリピン妻はお国柄というのか、開けっ広げで、私はマチガッテ20ケースも購入してしまった2ℓペットボトル飲料水を4ケース分けてあげたり、子供が怪我をしたときは、応急の手当てをしたりした。にぎやかというより、うるさいくらいで、時折、同じ境遇のフィリピーナが子供連れで数人やってきては、お喋りをしていた。
一階のいっとう端の部屋は、老夫婦が住んでいて、夫のほうは寝たきりで、週に一度、ディケアサービスの車がやってきた。端っこという特典で、老妻はたくさんの花を育てていて、そこにも私は4ケースの水を持っていった。生業はおそらく生活保護だろうと思う。私の部屋にも特典にしようと思えば出来ることが一つあった。玄関ドアを出て、外廊に立つと、遠くではあったが、中学校のプールがみえた。外からの視線を遮断するための塀が施されていたが、私の立っている場所からは丸見えで、スクール水着の少女たちを細かにではあるが、観ることが出来た。その頃、私は望遠カメラを持っていたので、それを覗きさへすれば、あからさまにスクール水着の少女たちはみえたろうし、フィルムに収めることも出来たろうが、私は自分でも不思議に思うほど性的にはノーマルで、そういう変態行為にはまったく興味はなかった。
そこは一年で引き払った。理由は坂の昇り降りではなく、安普請なので、ちょうど、私の枕元で、隣の住人の小便の音が壁越しに聞こえて朝、目が覚めるという、その妙な習慣に辟易したからだ。
次のアパートは、家主が室内装飾の仕事だったからか、フローリングも木製のホンモノで、私の住居は三階だったが、二階は歯科医で夜になると、もう静かになり、隣室は若い夫婦で犬を飼っていて、どちらも陶芸関係の仕事らしかった。もう一方の隣室は、ここも若い夫婦だったが、小学生の子供、姉弟がおり、家族の仲はいいようにみえた。ところが、次第に夫のほうの酒癖が、DVに発展することがあり、いつも決まった時間(旦那の出勤は午後3時、帰宅は夜中なのだが)に、酒が入っていると子供の泣き声が筒抜けで聞こえてきて、母親のほうも飲んでいるらしく、止めに入ったりしないで、それを面白がっているようだった。階下に事務所を持つ大家にそのことを話したが、普段の様子からは信じられない(私も同様にそう思った)ということで、私は、児童相談所だったかに電話だけはして、そこは半年で引き払った。
さて、いま、また独居になったのだが、道路数本を隔てて、いわゆる歓楽街の名残もあり、まだそういうフーゾクの店もあるにはあり、山口組主流の組織の拠点がその辺りにあって、けして安穏な町とはいい難いのだが、私にしたところで若い頃は観音様の境内でテキ屋のアルバイトなどをしていたものだから、そういうことには撞着はナイのだ。当時は銭湯に行くと、ゲイのネエさんや、描きかけの絵を背負ったそのスジの連中と隣り合わせになって洗髪などしていたから。
住んでいるところは、ワンルームだが、バブル時代の建築で鉄筋ではなく、鉄骨、普請も良くて、ワンルームといえど12畳に1畳分のクローゼットは広く、システムキッチンで風呂、トイレ、洗面所は別々で何れも広く、ここも保証人代行なのだが、家主がそれぞれの部屋によってチガウという分筆で、住人も上と左右の三つは、まったくそれぞれとしかいいようがナイ。東側の部屋はまだ二十歳前後の男性が独り、仕事をしているのか、予備校にいっているのか、引越しもバン一台という、なんだかワケアリで、テレビや音響機器、パソコンの類すらナイようなのだ。彼は朝8時半に出かけ、何時に帰るのかワカラナイが、9時過ぎには風呂に入っているようだ。
西側はまた不思議で、住んでいるという生活の気配はまったくなく(そういうことは、洗濯物の干し方でワカル。つまり、洗濯物が干してナイのだ)。そこは夕方4時過ぎに風呂を沸かす音がして、5時過ぎに若い女性が数種類(つまり不特定)、出かけていく。帰宅は深夜の2時を過ぎているが、ときどき、男の声(というより唸るような気配)がする。たぶん、水商いの臨時宿泊所に使われているのではナイかと思われる。
真上の階は、新婚なのか同棲なのか、ともかくは二人とも働いている堅気さんのようだが、洗濯物は年中干してあり、取り込まれることはナイ。つまり、そこから着るものを取って洗濯したものを干すというシステムらしい。
私は子供の頃からの習性で〈孤独〉という感覚がワカラナイ人種なので(退屈ならワカルのだが)、独居はとくにどうってことはナイが、こういう人種の(といっても白人や黒人がいるワケではナイが)さまざまなワケアリでも、出会えば必ず挨拶は欠かさない。「おはようござい」「んちわっ」「こんばんわ」「おやすみっす」
私の部屋の特殊性としては、アマゾンの配達でクロネコさんの来訪がやたらと多いことくらいかな。
ときどき、朝、恐怖感を感じて起きる理由が最近ワカッタ。たぶん、ここで突然死していても暫くはワカラナイだろうなという他愛もナイものだ。私は〈死〉を恐れたことは殆どナイが(飛行機の墜落はゴメンだから)、ひとは死のうと思ってもなかなか死ねないものだし、寿命がくれば、否応なく逝ってしまうものだということに得心している。とはいえ、最近の同胞や知己、友人、同時代人の死には、ため息せずにはいられない。

2015年12月10日 (木)

ふつうのサイコー

ぼうや おおきくなったら なにになりたい
ふつうのひとになりたい
ふつうのひとってどんなふつうだい
ふつうにあさごはん食べて
ふつうのいえに住んで
ふつうのふくを着て
ふつうの会社につとめて
ふつうの仕事をして
ふつうの
ぼうや みんなムツカシイよ
それからふつうの結婚すんのかい
できなかったら それでもいい
それで ふつうに子供をそだてるのかい
子供はいなくてもイイ
どうしてさ
だって ボクは子供だけど
子供って つらいから
ほんとはいたほうがイイんだろ
そうだねえ
せかいじゅうの子供が みんな 
ふつうにあさごはん食べて
ふつうのいえに住んで
ふつうのふくを着て
ふつうの会社につとめて
ふつうの仕事ができるようになったら
ボクにも子供がいるとイイ
ぼうや 夢あるね
ぼうやの夢は psychoぉの ふつうの夢だよ

『安倍政権を笑い倒す』を読む

判決。笑いも倒しも出来てません。暖簾に腕押し、糠に釘、引かれ者の小唄。いまなら古本屋に行けば、100円で売ってるでしょう。

主文。保守もリベラルも同じことをいってる部分が一つだけある。「日本をアメリカ合衆国の属国にするのかっっ」だ。どう考えても、このひとたちは何か錯覚している。日本を属国にする気か、では、まだ「属国になっていない」ことが前提されている。冗談じゃナイ。日本はすでにというか、敗戦からこっち、アメリカ合衆国の属国だ。これがワカッテらっしゃらナイワケはナイと思うのだが。
日本に米軍基地は83ヶ所在る。つまり日本は米軍基地の島なんだ。講和条約を締結しているに関わらず、「日米安全保障条約」による「地位協定」(安保条約第6条)によって、米国は「治外法権」を多く所有している。たとえば、公務中の米兵を日本は裁けない。公務外でも基地内に逃げ込まれると似たようなことになる。首都圏上空には「横田進入管制区」てのがあって、1都9県に及ぶこの空域を日本の民間機が飛ぶには一便ごとに米軍の許可が必要になる。よって、民間機はこの空域は迂回して飛んでいる。この他、空軍の演習における騒音の発生、低空飛行の危険性など、どれにも口をはさめない。さらに、1987年以降、米軍の施設整備費用をはじめ、基地従業員の賃金、光熱水道料を負担している。(いわゆる思いやり予算と称されている。オリンピック東京開催が決定したので、名称を〈おもてなし予算〉に変更することが議会に提出されたが、否決された)。2014年度の在日米軍に対する経費は総額で6710億円だ。これは韓国の五倍を超える値だ。
TPP(環太平洋パートナーシップ協定)は何がどうなってんのか、守秘事項が多くあって、よくワカラナイが、ざっとワカルことは、アメリカ合衆国にとっては有利にはチガイナイということだけだ。断っておくが、TPPは、肉などの食品関連の関税撤廃だけをいっているのではナイ。ことは〈著作権〉にも及んでくる。が、この辺りは資料が秘匿されているので、よくワカラナイ。
けれど、いくら安くてもアメリカの牛肉だけは食えないよ。ひどいもん。日本のマグドナルドがパテの原材料の肉を本国のアメリカでなく、オーストラリアからの輸入にしているのはよ~くワカリマス。
かつて「貧乏人は麦を食え」と答弁して顰蹙をかった宰相がいたが、要するに「貧乏人はアメリカの牛肉を食え」といっているのがTPPだと、メタファーとして考えて、そうマチガイはナイようだ。

『安倍政権を笑い倒す』は、佐高信氏と松本ヒロ氏の対談本で、インテリの胡散臭さとお笑い芸人の卑屈さがよくワカル。つまり、安倍政権に対しては「目くそ鼻くそを笑う」だ。私はどっちの方ともお付き合いはしたくねえなと思った。さらに、笑い倒してみてくれよっ、それなら。と、読みながら焦燥を覚えた。太宰まで持ち出しての「弱者の味方」を喧伝しているが、弱者が正しいとは限らないんだぜ。太宰の読み方がオカシイよ。
安倍政権になって、日本の滅亡(亡国)に加速度がついたことは、町ブラしてればワカルし、ふつうに暮らしていればワカル。しかし、私の目の黒いうちに亡ぶとは思いもしなかった。が、そうなんのかなあ、やっぱり。

2015年12月 8日 (火)

あいもかわらず

むかし 男ありました
いま 男あります
むかし 女ありました
いま 女あります
男 いいました
きょう 死ぬかも 
女 いいました
ごめんね きょうは いそがしいの
男 おもいます
あしたなら いいのかな
男 も 女 も
なにも かわりありません
あいもかわらぬ いつものことでした

スイスイスイダララッタ スラスラスイスイスイ

2015年12月 7日 (月)

晩パイ夜

また夜になる
いつも夜になる
夜ばかりになる
朝飯を食べても
昼飯を食べても
また夜になる
いつでも夜しかない
窓をあけても 
ドアをひらいても
また夜になる
きょうもまた夜だ
明日も夜なのか
オレはどうすれば いい
いつものようにいつものあのこにたずねてみたよ
そうしたら
いつものようにいつものあのこはおしえてくれた
朝がくるのを待てばいいじゃない
あなたはただ待てないだけ
待つのがコワイだけ
待つのがイヤなだけ
けれど 待つしかナイ

いいこと あのね 朝というのは 
そんな かんたんに くるものじゃナイのよ
あなたはそれを知らなかっただけ
でも それはしかたないこと
だって 知ってるひとはほとんどいないんだから

van π year
ban  π ear

いつから夜でもどこから夜でもどこまで夜でも

van π year
ban  π ear

あの灯台の明かりをめざして
朝がくるまで 歩いて みてごらん

2015年12月 6日 (日)

じぶんの 星を

なつかしいひとから 手紙がきたよ
余命三年 今年で六年
なんだか 死にそうにナイって 書かれてた
ボクは 神さまのことは知らない
何をやってるのか 何をかんがえているのか
なんにも 知らない
ボクの知ってることは そのひとは
その病気じゃ 死なないってことだけさ
そのひとも ボクも 星が好きだということだけさ
だから いつでも おなじ夜に 星座の下で
その 明るさに 狂ってしまうんだ

じぶんの星をみつけよう ほんとの星をみつけよう
じぶんの星は ほんとの星だから
じぶんの星をみつけよう ほんとの星をみつけよう
じぶんの星は ほんとの星だから

I only have a little bit of memory of that time.

塾のレクチャーも二時間やるが、運悪く、うつ病期と重なった場合、とにかく途切れさせるとオワリってなことになるから(オワリってどういうことかというと、そこでダウンということです)、加速度つけて、どんどんいっちまって、終わってからさて何を話したか、それが、〈I only have a little bit of memory of that time.〉なのだ。つまり「殆ど記憶にナイ」
ゆんべは、作家の諏訪さんとの公開トーク対談で、70人くらいの満席で、運悪く闘病中だったので、余裕があれば、私は聞き役で諏訪さんにいろいろ語ってもらわなければいけなかったのだが、(だって、会場は諏訪さんファンが多いんだから)、途切れさせるとダウンてなことになるので、ともかく加速度をup.
諏訪さんも〈躁転〉させてんなぁと、話しながらワカッテたんだけど、こっちには余裕がナイので、相手のことまで気がまわらない。
とはいえ、記憶に残った部分もある。諏訪哲史というひとは、相手を疲れさせないひとだなあ、さりげなく十二分に気を使うひとなので、そりゃあ、私と同じ疾病でもしょうがナイなあ。てなところ。それと、拘ると、とことん拘ってしまう資質なんだよね。
聴衆のみなさま、ありがとうございました。

んで、そのアトのお仕上げ会で(打ち上げを丁寧にいうとこうなる。芝居の場合は打ち上げでいいんだけど、こういうトークとかのときはこっちのほうがイイ)、まだけっこう喋りましたが、それも、あんまり記憶がナイ。テキ屋のこととか話したような気はする。もちろん、例によってアルコールではなく、ジンジャーエール。で、10時半頃になっていたので、お先に失礼させて頂いた。いつもならその時間は、夜のうつ病症状の出る時間なので、ちょいと急転直下の帰宅。けれど、グッタリするだけで、症状が出なかったは幸いだった。しかし、カラダは正直で、いつもなら四杯飲める水割りが三杯しか飲めない。そこで、先嫁が送ってくれた「レトルト粥」に生姜をいれて、食して、ベッド。
朝、メールを開くと、諏訪さんからゆんべのうちに「お礼」メール。親しき中にも礼儀あり、下敷きの上に定規あり。で、こちらは、ブログ読んでくれてるらしいので、ブログでお礼。お疲れお疲れ、どうもありがとう。
さて、ちょっとだけ仕事。でないと、昼のビールが美味くナイ。

2015年12月 5日 (土)

振り袖講談・転がる星・宣伝

宣伝動画の第一弾が公開できました。
またチケット予約フォームはこちら。
前売り開始は12/6(日)の10時〜です。
振り袖講談のチケット予約URLです。

トップクラス

中学んとき、どの高校に進学するかで、親と教師と私と相談会があって(それぞれにあったんですが)、「ゼゼ高入れるから、合格は出来るから、トップクラスでというワケにはいかないが、いまの偏差値だと大丈夫だから」と教師に勧められたのだけども、私は恥ずかしいことに〈偏差値〉というのが何のことなのかワカラナカッタ。ゼゼ高というのは、国立大学に入る連中の行く進学校で、私は大学というものが、何のためにあるのかも恥ずかしながら知らなかった(ほんとうの話です)。だから、なんかそんなところで苦労して勉強するより、気楽にやれるところはナイかなということで、「じゃあ、ワンクラス落してオオツ高なら」と教師はいったけど、「どうせならもっと楽がしたいからツークラス落してもらえませんか。受験勉強ナシで入れるようなところがイイです」ということで、石山高校という新設高校の六期生なのだが、この石山高校はいま「高校は石山です」というと、「さすがですねえ」といわれるまでの、トップクラスになっていて、特に女子にはナンバーワン・クラスなのだそうだ。
で、受験勉強は何もしないで合格して、そうしたら入学式の日に、分厚い教科書を持って帰れないくらいたくさん貰って、初登校の日は、クラスみんな、机に教科書広げて予習してるんだ。こりゃあ、もうワンランク下げるべきだったなと後悔したけど、軍隊と学校は要領で何とかなるということをまず学んで、10点評価で、2点以下だと留年なんだけど、それはあくまで〈平均点〉で、それならまず一学期に、半分の教科だけ7点取って、これで平均2点以上になるから、二学期はその教科は放っておいて、残りを7点取って、これでよし。三学期は、三時間目くらいから登校して、ホームルームの出席数は確保してあるので、登校したら、さっそく弁当食って、午後の授業はたいてい寝てた。それでも卒業したのだから、万事要領なのだ。
しかし、参ったのは、また大学進学相談で、私はどんな仕事、労働にもまったく興味がなく、行きたい大学もなく、どのみちそんなに長生き出来るワケないと思ってたから、仏蘭西のソルボンヌ大学に留学しますと、嘯いて、卒業してからフランス語の勉強をしたりしたけど、二カ月で厭きて、そいで実家から逃げて名古屋にやって来た。なんで名古屋かというのも、名古屋は田舎都市だから、東京、大阪のようにうるさくなく適当にやれると考えたからで、適当にやるのには演劇がイチバン良さそうなので、演劇をやることにした。私の生き方なんて、そんなもんですヨ。

2015年12月 4日 (金)

どうしてなんだよ

どうしてなんだよ そんな小声にならなくても
もすこし 聞こえるように 話しておくれよ レジのおじさん
いつもの 彼女は ちゃんとハキハキ 声がステキだよ
ぼくの顔をみて しゃべるよ
笑顔もくれるよ 恋してるみたいに
いつもの 彼女は どうしたんだろ

どうしてなんだよ そんなにうつむかなくても
もすこし あたたかくいこうよ ベンダーじゃナイんだ レジのおじさん 
いつもの おばさんは ちゃんとニコニコ おはようっていうよ 
ぼくの顔をみて そういうよ
毎度どうもっていうよ 八百屋さんみたいに
いつもの おばさん きょうはまだかな

きょうの買い物は つまらなかったナ
でも また いくからさ
いつも いくからさ いつも いつも

2015年12月 3日 (木)

ここよりほかのところ

苦しいな 苦しいな 苦しいな
そんな呪文を唱えていると
ここよりほかのところにいける
金星人にあえる
金星人は みんな美人だぜ
火星人にもあえる
火星人は 頭イイんだぜ
苦しいな 苦しいな 苦しいな
そんな呪文を唱えていると
ここよりほかのところにいける
だから 呪文を唱える
ほかに 理由なんてナイ
おおらかに つつましく
生きていくために
生まれてきたのに 決まってる
それが 地球人なんだぜ

I will die someday, too

あるとき エライひとに訊ねてみた
私はいつ死ぬんですか と
エライひとは こういった
それは 神さまの決めること
気にいらねえな
べつの エライひとに訊いてみた
そのひとは こういった
他人の死ぬことに興味はナイ
気にいらねえな
そこで エラクない子供に尋ねてみた
その子はこういった
死ぬってナニ
そうか そういえば 知らなかったナ
死ぬってナニなのか
誰も知らないんじゃナイかな
そこで
それは 死ぬときの楽しみにとっておこう
いつか 楽しみはやってくるだろう

雨あがり

雨あがりの 朝
雨あがりの 風
雨あがりの アスファルト いいもんだな 
雨あがりの 郵便ポスト いいんだよな
雨あがりの 信号機 いいもんだよな
雨あがりの すべてのものに ありがとう

たとえ これが 最期にみるけしきでも かまわない
雨あがりに ありがとう

2015年12月 1日 (火)

Words of the nincompoop ⑭

闘病中につき、ちょっと他人の褌をお借りする。
2015年12月1日(火)6時11分配信、ビジネスジャーナル(神樹兵輔/マネーコンサルタント)さんの記事を感想を付けてまとめてみた。
○先頃、米国の国立心肺血液研究所が発表した「高血圧基準値は120未満を目標にするべき」という大規模な研究報告が波紋を呼んでいる。何故なら→日本では一時期「130未満」が基準値となっていたものが、現在、高齢者が血圧を下げすぎると転倒して骨折を招くおそれがあることから、概ね〈140未満〉を目安とする治療が主流。→つまり片方(米国)が下げ、その差が20になった。で、どっちが正しい。患者のみならず、医師のほうが悩む。最近の医師は自分で考えない〈の〉が多いからナ。みなガイドラインだ。

○肥満者の多い米国人との比較が一律に日本人に当てはまるのかは疑問だが、今回の報告は、50歳以上の高血圧症と心筋梗塞のリスク患者9400人への3年間の追跡研究から導き出された(ということになっている)。9400人に対して、血圧を「120未満」に下げる患者と、「130未満」に下げる患者の2群に分け3年間追跡。その結果、「120未満」にした患者のほうが心不全や心筋梗塞、脳卒中の発症リスクが、「130未満」にした患者よりも27%も低かった。→という統計がエビデンス(科学的根拠)なのだが、統計というと、えらくエビデンスを伴っているものに感ずるが、この統計は、この統計であって、別にチガウ統計があれば、チガウ結果が出ているかも知れないのは、統計そのものが〈シュレーディンガーの猫〉と同様に、測定〈結果〉ではなく、測定〈対象〉に成り得るということを思い描かれるとイイ。

→さて、何故、神樹氏がここに疑義を(つまりは半畳入れる)のかというと
○この研究報告を素直に受け止められないのは、これまでの医療業界、製薬業界のさまざまな過去の経緯から、欺瞞的な匂いがプンプンと漂ってくるから。→漂う程度ではナイ。もはや澱んでいる。私(北村想)なんかは、だいぶんに向精神薬で、その実情を目の当たりにしているからな。

○意外に知られていませんが、日本は米国に次ぐ世界第2位の薬漬け国家です。米国の医薬品市場は世界市場の4割弱を占めますが、日本も同約1割を占める薬漬け国家なのです。薬剤費がべらぼうに使われていることが窺われます。→ここは、ちょいと注釈が要る。米国の場合、日本では薬品になっているものが、第3類程度なら、サプリメントとして買える。有名なL-システィン配合のハイチオールは、成分は同等でも日本は薬剤として販売。30日分が2000円、しかも一錠240㎎。これに対して米国のサプリはビタミンCの量は少ないが、システィンは一錠に500㎎。100日分で1380円。半分にして飲むと200日分になり、700円という安価になる。ちなみに、システィンの一日服用基準は1500㎎まで。こういった類はかなりあるとみていい。

○日本の場合、医薬品は約9割が医療機関向けです。国の医療費は年々伸び続け、2014年度には40兆円に達しています。2000年度と比べて14年間で10.5兆円もの増加です。40兆円の医療費のうち、薬剤費の占める割合は、ほぼ4分の1にまで達しています。2000年度と比べ、調剤薬局の薬剤料だけが2倍以上もの突出した伸びを示しているのです。→私の年間の医療費をいうと、たいていの者はビックリする。抗鬱剤や向精神薬は副作用が多く、「うつ病は精神の糖尿病だ」という名言もある。副作用対策のクスリ代がバカにならないのだ。

○もちろん、厚労省もほぼ2年毎に薬価を見直し引き下げに動いていますが、薬剤費は下がりません。業界はジェネリック医薬品の浸透を阻むべく、薬価基準を巧妙にすり抜ける新薬もどきの製品への切り替えで、薬剤費を膨張させてきたからです。→この手口は危険ドラッグの手口とまったく同じだということを留意。製薬業界の狡猾さは、許し難いものがある。

○製薬会社は、どこも儲かっています。景気に左右されない業態である上に、特許切れによる収益減に備え、潤沢な内部留保を活かしての世界市場でのM&Aに邁進しています。
→かつては抗生物質を一つみつけると、その製薬会社は10年は安泰といわれた。しかし、昨今は、合成抗生剤のために、これが出来なくなった。そこで、目をつけたのが、降圧剤やら、生活習慣病という怪しげな病気やら、中でも罪なのが向精神薬なのだ。右を向いても左を観ても、そこいら中の医院、病院が心療内科の看板を追加している。もちろん、これは内科の領分で精神科とは関係ナイが、出すクスリは似たようなものが多い。精神科の入り口が気になる病人は、どうしてもそっちへ行くが、順序としては、まず内科の診断を受け、精神科へ、が正しい。ただし、どちらもマトモな医師による判断に委ねてという条件がつく。

○薬剤費が下がらないもうひとつ理由は、製薬メーカーが医師や医療機関と癒着した関係のなかで「病気の基準値を変える」というマジックを実現してきたからです。高血圧症、糖尿病、高脂血症(脂質異常症) という3大慢性病の基準値は、これまで次々と改訂され、厳しくなってきたという背景があります。
 たとえば、日本における高血圧症の患者数は1987年には170万人でした。それが2011年には5.3倍の907万人にまで増えています。同様に糖尿病も、1990年の560万人が2012年には950万人と1.7倍に増えています。高脂血症も1996年の968万人が2011年には1900万人と約2倍以上に増えています。
→もちろん、統計の数字をいじっただけで、〈医学的エビデンス〉はナイ。
○1980年代までは、高血圧の基準は「年齢+90」といわれ、概ね180/100と大らかなものだったのです(旧厚生省)。それが、1993年にはWHO(世界保健機関)と国際高血圧学会が140/90を打ち出したことにより、日本の高血圧症患者数はグンと伸び、96年には750万人を突破しました。→下の数値の90など、ちょっと仕事すればすぐにそうなる。また、私独自で、役者の稽古後の血圧を測定したことがあるが、100以下のものはいなかった。
○さらに2008年には、日本高血圧学会が130/85の数値を正常値と定めたおかげで、患者数は797万人まで膨れ上がりました(14年に140未満に緩和された)。この基準値でいくと潜在患者数、つまり基準値を上回る人の推定は4300万人といわれますから、製薬会社は笑いが止まりません。高血圧症の医療費だけで2兆円となり、そのうちの9000億円が薬剤費となったのです。今では「成人の3人に1人が高血圧症」とWHOも警告する始末なのです。しょせん、WHOも各医学研究団体も共存共栄の構図があるゆえんです。
○高血圧といえば、世界第2位の売り上げ(約500億ドル)を誇るスイスの製薬メーカー・ノバルティスファーマの日本支社で、14年6月に元社員が逮捕され、家宅捜索が行われています。これは、同社の看板薬で年間1000億円を売り上げていた高血圧治療薬「ディオバン(一般名称はバルサルタン)」が他社製品よりも優れていると見せかけるため、大学の研究機関に捏造データを渡して論文を作成させ、それを販促活動に使っていたという不正によるものでした。
 このことからも明らかなように、医学界において製薬メーカーは偉大なスポンサーです。研究名目や寄付で医者や研究者を御用学者として手なずけ、学会やセミナーで自社製品に都合のよい発表をさせるなど、相互にズブズブの癒着関係があるのです。
○2011年の製薬メーカーの研究開発費は平均データで売り上げの18%を占め、これは自動車や家電メーカーの3倍強に当たります。他産業と比較して突出して高いことで知られますが、実はこの中に医学界への潤沢な謝金が含まれているのです。
 日本製薬工業協会加盟72社の医師など医療関係者への謝金額総額は4793億円です(2013年度)。うち研究開発費が2472億円、情報提供関係費が1405億円、学術研究助成費が536億円、原稿料が267億円、接遇費が113億円です。
 医者や医療研究者が、製薬メーカーに逆らえない構図がここにはっきりと見て取れるでしょう。
→世界総ての製薬会社に、年間10億円の法人寄付を『国境なき医師団』に納めることを義務づけたいくらいだ。しかし、そうすればそうしたで、今度は薬価が上がるだけだもんな。
 

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