prisoner
子供の頃は、世間に〈暮らし〉とか〈生活〉があったような気がするナ。マルセル・カルネ監督の『北ホテル』(1949/08・フランス)を観て、思ったことは二つ。一つはそれ。もう一つは、なんだか懐かしい日本の名作映画を観ているような気がした。おそらく溝口健二監督も、川島雄三監督も、小津安次郎監督もまた、きっとこの映画を観ているにチガイナイ。そうして盗んだにチガイナイ。溝口監督の下町情緒はそうだし、川島監督の人物造形はそうだし、小津監督のモンタージュ・テクニックはそうではないか。
最初の一つにもどる。
「あった」という過去形であるのは、いまは「無い」ということだ。私は散歩が好きなので(といっても、いま流行りのテレビ番組のような立派な散歩ではナイけど)新しい仕事場(といっても、そこで寝食しているのだが)の周囲を歩いたり、自転車に乗ったりしては風景を観る。けれど〈暮らし〉とか〈生活〉に出くわしたことがナイ。なんだかみんな〈飼われている〉ような、あるterritoryの中に収容されているような、そんな感じがしてたまらない。そういうテーマで小説を書き始めたが(『ドブ記』)、なかなか筆は進まない。小説は戯曲と違ってストレスがキツイ。
私のマンション(といってもワンルームなんだけど)に、何処からともなく町内会の催し物の案内が届く。しかし、〈けはい〉がナイのだ。そのような町内会とか、催し物の気配がまったくしないのだ。
格差とか、ほんとにあるのかヨ、と、繁華街に出てもそう思う。たしかに私自身は、稼いでいた頃に比べると、市県民税を免除されるまで貧乏になった。とはいえ、食うに困っているというワケではナイ。食うに困れば餓死する前に自死すればイイだけで、私は自分でも不思議に思うほど、この世間に未練はナイし、私自身に執着がナイ。
「独りでも事足りる」というのが、いまの世間なんだろう。シェアしているのは情報だけで、実態ではナイ。パソコンが無いと困るが、家族など無くても、いっこうに困らない。「独り暮らし」とはいうが、独りは絶対に〈暮らし〉ではナイ。つまり、極論すると、私など在っても無くとも、どうでもイイのではナイか、ということだ。
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