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2015年10月

2015年10月28日 (水)

Words of the nincompoop ⑥

中国が、南シナ海の南沙諸島辺りの海を埋め立て人工島を造り、飛行場を建設したってんで、アメリカも黙っているワケにはいかない。ここは航行自由海域だとばかりに、戦艦を往来させ始めた。何だか軍事演習もやるみてえだな。つい最近、オバマ、シュー・キンペー会談では微笑んで握手をしたんだけど。
ところで、この南シナ海が公海だとは、中国は認めていない。1992年2月25日に施行された『中華人民共和国領海及び接続水域法』(長ったらしいナ)の第2条には、こう記されている。/台湾及其包括钓鱼岛在内的附属各岛、澎湖列岛、东沙群岛、西沙群岛、中沙群岛、南沙群岛以及其他一切属于中华人民共和国的岛屿/。訳しますと、/中華人民共和国の陸地領土は、中華人民共和国の大陸と沿岸の島、台湾、及び釣魚島を含む付属の各島、澎湖列島、東沙群島、西沙群島、中沙群島、南沙群島、その他は全て中華人民共和国の島に属する/。つまり、台湾も中国の陸地領土なワケですナ。
私はもちろん法律には疎いから、海上の島(シマ)の領域の決め方は知らないが、暴力団の縄張り(「シマ」)が、どうやって決まるかくらいは知っている。これは「先に行ったもん勝ち」なんだそうだ。「ここ、ボクんとこ」と、真っ先に旗立てたらイイらしい。で、それが気に入らないなら、「シマ荒らし」と、抗争勃発になるんだと。
そのうち、宮古島とか与那国とか、沖縄とか、紅い旗が立つんじゃないかな。「ここは、ほんとうは中国のものなんです」とかいわれて。ビミョーだねえ。米軍基地移転。ほんとは安倍ちゃんもこういいたくてたまんないハズ。「ここに、米軍基地造んないと、中国に占領されますよ」。中国の名前を出すワケにはいかないからなあ。しかし、集団的自衛権も安全保障法案も、要するに「対中国」のためのものだということは、素人の私にでもワカリマス。
それと、どうも、キンペーさん、虎と蠅とを叩きすぎて、軍のほうとうまくいってナイんじゃないかな。中国四千年の権力闘争と、銭が頼りの歴史は、そう簡単に変わらない。

2015年10月27日 (火)

Words of the nincompoop ⑤

○平成25年の統計における、60歳以上の自殺者は1万1千人。(ちなみに年間交通事故死者数4400人)。ただし、毎年自殺者総数が3万人辺りというのは、えらく整ってんじゃねえのと思われるあなた。これには、ちょいと仕掛けがある。(仕掛けというのも何だから、ワケでもイイ)。「変死者」という存在が実は15万人(年)あるのだが、調査担当の内閣府がそれを自殺とするかどうかの判定の限界が3万人程度なもんで、まんず、3万人(毎年)になってしまうだけ。WHOでは変死者の50%は自殺者としてカウントする(この数字のエビデンスは不明)。そうすると、日本における自殺者の総数は、10万人(年)程度になる。高齢者は内4割とされる。つまり単純にいえば4万人。
高齢者の自死、は、悲観死でも、納得死でも、覚悟死でも、「さて、死ぬか」でイイんじゃないかと思う。若いひと(明日来るひと)の自殺はやりきれない。「明日なんてナイ」といわれているのだから。「前向きにといわれても、どっちが前なんだか、ワカラナイ」と、このママではナイが、そんなせりふが最近の鹿目由紀(作・演出)の劇団「あおきりみかん」の舞台・・・タイトルを失念(齢はとりたくないナ)でありましたね。           
○牛肉ってのは食いだすとクセになるナ。今年は夏を乗り切るのに、精出して食ってたけど、まあ、乗り切れたんだけど、食いたいと思うものを食ってりゃイイ年齢(六十三歳)なので、二日に一度はステーキとポテトサラダとパンが一食。ステーキったって、オーストラリアビーフの赤身(モモとかランプとか肩ロースとかね)だから、150g、500円ちょいよ。アメリカ産はダメだなあ、何だかワカンナイ味なんだもん。時々名も無き「国産牛」が豪州産より1~2割ほど高めで出るんだけど、やっぱり、これが肉の味としては一推し。
アト、むしょうに湯漬けが食いたくなるんだなあ。「湯漬け」は戦国時代のレシピですね。戦場には女性はいないので、戦国武将は、誰でも飯が炊けた。基本的には、飯に湯をかけて、味噌と、生の長ねぎ一本でサクサクと食う。私はネギ、駄目なので、副食は普通。シラスを混ぜたご飯に湯をかけて、食う。これはこれで一食。

2015年10月23日 (金)

Words of the nincompoop ④

叩け、さらば開かれん
求めよ、さらば与えられん
では、まず、神よ、あなたのほうからどうぞ。
いつだって私は待ち望んでおります。

2015年10月21日 (水)

Words of the nincompoop ③

○死ぬにはもってこいの日、というのがある。いったいどんな日なのか、面白そうなので、その日までは生きてみるもイッキョウだ。

○科学の難問に答えるには、最も詩的なことを考えればイイ。

○静けさの重力波。静けさとは、ある重力波を感じることです。

○「何を考えねばならないのか」「考えてもしょうがナイこととは何か」「考えないほうがイイこととは何か」・・・これらの答えを導き出すためには、ともかく「考えてみる」ことだ。グズグズしたり、面倒がっていたりしてはダメだ。「考える」ことに億劫になってはイケナイ。ただし、姑息(場当たり、その場しのぎ)と、「拙速は巧遅に勝る」(『孫子』の兵法/完璧でなくとも「仕事が早い」にこしたことはないという意味)はチガウということには、充分に留意しなければイケナイ。

○時の流れに身をまかせ、と、いうけど、時も身も、それほど上手い具合に都合のイイものではナイ。

Words of the nincompoop ②

かつて『ヨブ記』を読んだとき、こんなこと思った・・・うーん、〈神〉ってのは、さほどたいした存在でもナイな。だいたい「私は山を動かすことも出来る」って、威張れることなのか。大人げナイというか、子供というか、いや、そういえば、チェスタートンは『正統とはなにか』で〈神〉は子供(幼童)なのだ。てなこと書いてた。納得しておこう。

2015年10月20日 (火)

Words of the nincompoop ①

安吾へ、自ら堕ちてみよ。
太宰へ、女死なせても生き抜いてみよ。
賢治へ、健康になってみよ農民のように。

2015年10月13日 (火)

a broad interpretation

仏教にいう三宝印とは、
諸行無常とは「世の中はすべてデタラメである」
諸法無我とは「私(我)もまたデタラメである」
涅槃寂静とは「よって、死んでしまうが楽」
とんだ所へ北村 想。

2015年10月11日 (日)

prisoner

子供の頃は、世間に〈暮らし〉とか〈生活〉があったような気がするナ。マルセル・カルネ監督の『北ホテル』(1949/08・フランス)を観て、思ったことは二つ。一つはそれ。もう一つは、なんだか懐かしい日本の名作映画を観ているような気がした。おそらく溝口健二監督も、川島雄三監督も、小津安次郎監督もまた、きっとこの映画を観ているにチガイナイ。そうして盗んだにチガイナイ。溝口監督の下町情緒はそうだし、川島監督の人物造形はそうだし、小津監督のモンタージュ・テクニックはそうではないか。
最初の一つにもどる。
「あった」という過去形であるのは、いまは「無い」ということだ。私は散歩が好きなので(といっても、いま流行りのテレビ番組のような立派な散歩ではナイけど)新しい仕事場(といっても、そこで寝食しているのだが)の周囲を歩いたり、自転車に乗ったりしては風景を観る。けれど〈暮らし〉とか〈生活〉に出くわしたことがナイ。なんだかみんな〈飼われている〉ような、あるterritoryの中に収容されているような、そんな感じがしてたまらない。そういうテーマで小説を書き始めたが(『ドブ記』)、なかなか筆は進まない。小説は戯曲と違ってストレスがキツイ。
私のマンション(といってもワンルームなんだけど)に、何処からともなく町内会の催し物の案内が届く。しかし、〈けはい〉がナイのだ。そのような町内会とか、催し物の気配がまったくしないのだ。
格差とか、ほんとにあるのかヨ、と、繁華街に出てもそう思う。たしかに私自身は、稼いでいた頃に比べると、市県民税を免除されるまで貧乏になった。とはいえ、食うに困っているというワケではナイ。食うに困れば餓死する前に自死すればイイだけで、私は自分でも不思議に思うほど、この世間に未練はナイし、私自身に執着がナイ。
「独りでも事足りる」というのが、いまの世間なんだろう。シェアしているのは情報だけで、実態ではナイ。パソコンが無いと困るが、家族など無くても、いっこうに困らない。「独り暮らし」とはいうが、独りは絶対に〈暮らし〉ではナイ。つまり、極論すると、私など在っても無くとも、どうでもイイのではナイか、ということだ。

obsession.

世界がどんどん消えていく。創りつづけなければ。
いつまで創りつづけられるのだろう。

可笑しき劇作家①

/江戸の人たちは概して楽に生きて、楽に死んでいったような人が多いですね。つまり、普段、頑張っていないんです。/(「一冊の本」2003年、杉浦日向子・『粋に暮らす言葉』所収)
とはいいながら、日向子さんは、少し斜に目を向けて、
/源内の、この世はデタラメなことだらけで確かなのは人が死ぬということだけだという諧謔には、笑うに笑えない実感があっただろうと思います。/(「江戸へようこそ」・『粋に暮らす言葉』所収)
と、彼女のダークな面をちょっとちらつかせ、
/江戸は手強い。が、惚れたら地獄、だ。/私に言わせれば、江戸は情夫だ。学んだり手本になるもんじゃない。/「うつくしく やさしく おろかなり」・『粋に暮らす言葉』所収)
と、トリックスター (英: trickster 、神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物のこと。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、全く異なる二面性を併せ持つのが特徴)となって、剣を投げ入れるのだ。
イエス・キリストもまた、そういう二面性があった。マチウ福音10章34節~39節を引用すると「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、剣を投げ込むためにきたのである。 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。 そして家の者が、その人の敵となるであろう。 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう」というふうだ。
この世がデタラメだということに最初に気付いたのは、このブログの『And in the End』でも述べたが、仏陀(釈迦)だ。しかし、平賀源内のような(キチガイと紙一重の)天才もまた、それには気付いていた。劇作家も気付いたんだけど、笑ってなきゃしょうがねえなと、劇作家はそう、思う、のだ。
ちょっと日向子さんのコトバを書き直せば劇作家にとっては、アタリマエだがこうなる。
/演劇は手強い。が、惚れたら地獄、だ。/私に言わせれば、演劇は情婦だ。学んだり手本になるもんじゃない。/
しかし、日向子さんの、こういう刹那の狂気(凶気)ってのは、またイイねえ。好きだなあ、こういうの。男には絶対ワカンナイから。日向子さん「江戸と寝てる」から。江戸は男だし、お床だから。編集者の諫言をよくきいて、口説かなかったのは正解でした。そうして悔恨です。悔やみつつ、線香燻らしておきましょう。

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