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2015年9月13日 (日)

悲しき劇作家⑥

向こう三軒どころか、両隣、いったいどんなひとが住んでいるのか知らない。いまの街のマンション、アパートってのは、そんなもんだ。
ところで、今夜の晩飯の素材を買って、そんなマンションにもどってきた際だ。カレーの匂いがした。「ああ、今宵、いずこかの晩餐はカレーライスかあ」。ひとが住んでるんだなあと、腹に沁みた。カレーライスってのは、いいなあ。独り暮らしだとレトルトで間に合うので、なかなか本格的なものはつくれない。いずこは何をするひとぞ、隣近所は何をするひとぞ。ともかくカレーライスは食うひとぞ。こんな市井の生活を感受することに、自己の時間と空間の感覚を正常にもどしてくれる何かがひそんでいる気がする。
べつに急転直下で話題を変えるワケではナイが、「色即是空 空即是色」の「空」を私はずっと「現象=表現」というふうに訳していた。ところが、これはちょっとチガウということに気がついた。チガッテもちょっとで、「空」とは「時間と空間の現象=表現」とすればイイだけなんだけど、もう少し詳細にいうと「時間」と「空間」は分けるものではなくて、一緒のものだ。「色」とは、その時間と空間の化身(まあ、『般若心経』は菩薩の考案だから〈化身〉といっておきましょう)。ところで、空間というのは、かなりよくワカル、と、私たちは思っている。だって、部屋をみまわすと空間は存在するし、デスクも本もベッドも、物質、つまり空間を持つものの実体として認識出来る(しやすい)というシロモノだけど、時間は、確かに在るということは(自然な、というか常識的に)感覚としては充分に認識出来るのだけど、これを実体として識知するとなると、とつぜん「えっ、なんだろ」になる。ここは分けてはいけないのだ。
いきなり、市井の生活のカレーライスから話は大きくなるが、宇宙開闢については、さまざまな「説」「論」がある。で、けっきょくのところ、いまでもよくワカッテいない。私の知っているかぎりでは、宇宙を創るのに飛び出てきたのは量子一個なんだけど、それまで、そこは空間も時間もナイ、無の状態だったというのだが、これはもう三次元思考ではイメージ出来ない。(そこって何処、てな具合だ)。とはいえ、「無の状態」というのを、『般若心経』的に「空」とすれば、それは空間でも時間でもナイ、量子力学的にいう「場」とスルことも可能なのではナイだろうかと思ったりもスルんだけどネ。ともかくも、この宇宙にあるものは、非アリストテレス的に、すべて根本は同じ素材で出来ているとしなければ、イケナイ。なんとならば、量子がただ一個(あるいは一つの波動、これをゆらぎというらしいが)だけなんだから。この量子一個がつまり、10の-44乗秒後に膨らんで爆発して宇宙を創成する。この量子が何処から出てきたのかというと「トンネル効果」で出てきたとかいうんだけど、そういう便利なトンネルの向こうに何があるのか、私にはよくワカラナイ。とりあえず、そういう便利なトンネルがあったとしておこう。なにしろ、ワカンナイんだから、何があったって「神、創造主がいて」といってるのと、さほど差異はナイ。ところで、時間のほうは10の-44乗秒後でも一向にカマワナイ。量子力学的時間だと考えれば、量子一個の膨張、爆発までの時間は、無限としてもイイからだ。
えーと、つまりだ、最初(最初が在ったのかもほんとうはワカラナイんだけど)は「空」であったと。それを量子がテッポで撃ってサ、煮てサ、焼いてサ、ではなく、狸じゃナイんだからナ。そうしたらトンネルから量子が出てきて、空間と時間を創ったと。それによって粒子と反粒子が生成され、まあ、ともかく、いま現在この世(宇宙・世界)にあるものは全て、空間と時間が創ったと、そういいたいだけなのだ。
そこで、「部屋をみまわすと空間と時間は存在するし、デスクも本もベッドも、いってみれば思考さへも空間と時間」なんだ。空間は実体としてワカリヤスイが、私たちは時間をただ「流れゆく」実体のナイものと思い込んでいるだけで、私たちの、この私のカラダもいうなれば実体としての時間というものなのだ。実体として認識出来る時間には、三つの形態がある。「固有である」「普遍である」「相対である」。
もう少しチガウ観点からいうと、時間の実体というのは「熱エネルギーの第二法則」として識知すると、ワカリヤスイかも知れない。私たちが生まれ、育ち、老いて、死ぬというのは、私たちの時間としての実体のエネルギーの盛衰に他ならない。
そこら中に在るもの、私の内にあるものですら、全て時間と空間が創ったもの、「時間と空間の現象=表現」なワケで、これを「空」といい「色」という。唯物論のいうように、時間は物質の〈属性〉なんかではナイ。物質の〈本質〉というワケだ。
「結えば(結べば)庵、解(ほど)けば草原(野原)」というのは、時間の比喩としても譬えとしては最も適切だナ。
こういうことを劇作家はぼんやりと考えた。これからもぼんやり考えると思う。

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